たかが『政治』、されど『政治』
2009年 05月 12日
■本日も携帯への電話が多かった。すべて仕事、半仕事がらみのことである。最近は日々の作業の半分は「ボランティア活動」といっていい。じつにささやかながら日本の文化に貢献していると自認しているので、やっているのである。月に一度か二度のことならともかく、毎週のようになんらかの形で時間をさくとなると、強い使命感なしには続かない。
■過日も中高年の人たちと話したのだが、どうも文化等が新しい世代にうまく引き継がれていない。文化とは伝統の積み重ねでもあることを考えると、引き継ぎが行われていないことからくるギャップ、つまりジェネレーション・ギャップは憂慮すべき事態になっている。いつの時代にも、世代間のギャップがあり、あって当然なのだが、どうも最近ギャップがひろがりすぎているという気がする。
■先人の体験等が次ぎの世代に「継承」されないと、文化は痩せていく。自分がおもしろおかしく暮らせたら、あとはどうでもいい、というのは、無責任である。文化とはリレーしていくものであり、人はランナーなのである。
それはそれとして、経済はいっこうに回復にむかわない。アメリカでは最大手の自動車会社GMの倒産がいわれている。GMの倒産は、ほかの産業にも多大の影響をおよぼす。
■前途に明るさがなかなか見えないなか、明るさをとりもどすうえで原動力になるのは「政治」である。小沢一郎氏の民主党党首辞任により、政局がうごきだした。ここはとにかく民主党は清新で信頼感のある長妻氏のような政治家を党首にたてる、という思い切った英断をくだすことが必要ではないのか。鳩山由紀夫氏や岡田克也氏、さらに管直人氏の名もあがっていて、恐らくこの三人の誰かになるのだろうが、本気で政権をとりにいくなら「サプライズ」である。
■「党内事情」などは脇におき、長妻氏を党首にいただくような度量を見せれば、国民の多くは民主党支持に一気に傾く――と思うのだが。長妻氏は派閥もなく、たぶんに一匹オオカミのようだから、党首に選ばれる可能性は薄い。幹事長などであったら、芽はあるかもしれないが、いずれにしても、今度の総選挙は面白くなりそうだ。最近面白いことが少ないので、せめて政治ぐらい面白く刺激的であってほしいもの。