コラム


by katorishu
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文筆業の志望者は多いが、個人差、能力差は如何ともし難い

1月21日(火)
■人はみんな平等。それはいいとして、個人差、能力差は如何ともし難い。長生きも個人差であり、走ったり、歌ったり、演じたりの優劣も、頭の回転の善し悪しも究極のところ個人差である。別の言い方をすれば能力差である。長年脚本家や物書きの志望者を指導してきて改めて感じるのだが、何年たっても進歩しない人と急速に力をつけていく人がいる。前者が圧倒的に多く9割以上、後者は1割にも満たない。後者の1割の中から更に1パーセントくらいが「一人前」のプロになる。根底には持って生まれた才能がある。誰もがプロになれるという風潮が広まったせいか、才の乏しい志望者が激増し、そのため倍率は増える一方である。

■1作や2作発表したからといって「プロ」とは言い難い。少なくとも3年くらいは、「筆一本」(最近はパソコンだが)で継続的に仕事をしてきた人を「プロ」と言っている。スポーツや音楽、絵画などだと、能力のあるなしが比較的はっきりするのだが、文筆の場合、素人目からみて優劣の差がわかりにくい。そのため、自分にも才能があると思い込みがち。しかし具眼の士からみると、あるなしは歴然とする。

■問題なのは具眼の士が少なくなったこと。「金の卵」であるのに「金」であることに気づかず、登場の舞台をあたえず、あたら才能を埋れさせてしまう。そんな編集者、プロデューサーなども少なからずいる。具眼の士にぶつからなかったのも運の悪さで、運も才能のうちと言えば言えるのだが。さらに問題なのは、プロの芸が尊敬されず素人芸がまかり通っていること。「ヘタウマ」ということもあり、素人でも感動を与えることはある。が、多くは学芸会や運動会で我が子の動きに親が感動するのと大同小異。ある種の「仲間褒め」なのである。「村社会日本」の仲間褒からは、世界に通用する本物のプロはなかなか育たない。
by katorishu | 2013-01-22 20:37 | 文化一般