里見弴の【極楽とんぼ】を読む。「人間一般を知ることは、一人の人間を知るよりもたやすい」
2015年 11月 09日
■よほどの「文学好き」でないと、里見弴という作家を知らないかもしれない。
志賀直哉と並んで、「日本の近代文学」の頂点を極めた作家である。志賀直哉などと共に吉原などで遊蕩し、大阪の芸妓・山中まさと結婚した。その経緯については代表作『多情仏心』に詳しい。
■たまたま本棚にあった「極楽とんぼ」を手にとり寝床で読み始めたのだが、なかなか面白い。最後まで読んだわけではないが、僕が尊敬している評論家の秋山駿(故人)が解説を書いているので、途中からそっちを読み、「確かに」と同感した。
■「人間一般を知ることは、一人の人間を知るよりもたやすい」というラ・ロシェフコーの箴言集をひいて、秋山駿は書く。
『人間一般を知ることと、一人の人間を知ることとでは、どちらが大切であるか、どちらがより深奥に達するか、と、そう自問自答しない作家はいない。答えは決まっている。一人の人間を知ること。人間一般を知るより困難だが、真実へ到る道である。この一点を見失えば、作家が芸術家ではなくなる。
ところが、作家が、社会の中で知識人の役割を演ずるようになって以来、人間一般への理解と知識から人間を描く、主人公を造形し登場人物間の葛藤を解析する、といった小説が多くなっていった』
里見弴は、こういう潮流への断乎たる敵手であった、と秋山は記す。
アンチロマンや新感覚派に興味を持つ僕には志賀や里見を、あまり評価しなかった(若気の至りで否定したかった)が、読み返して、日本語表現の極地にあるなとあらためて思った。
里見弴の本名は「山内」。松竹映画の名プロデューサーであった山内静夫は里見弴の息子さんで、小津安二郎作品の制作者としても映画史に名をとどめている。
■電車の中で本を読んでいる人は希で、このまま(実用書以外の)本は消滅してしまうのでは、と危惧を抱いたりしているが、それが杞憂であることを願いたい。
本でしか味わえない、人間の心の深みや面白さ、面妖さ等々が、確かにある、ということを、「極楽とんぼ」などを読み始めて、あらためて感じる。
■以前、外国人が日本にきて驚くのは、電車の中で多くの日本人が本を読んでいることであると。僕自身複数の外国人から聞いた。国民全体の「知力の高さ」、それが戦後日本の「奇跡の原動力」のひとつになっていた。いってみれば「無用の用」である。それがじつは大事であると思う。
ITも結構だが、ITの「情報遮断」が大事、と長年、IT関連の仕事をしてきたITのプロ中のプロが、以前、ある「勉強会」で強調していた。