コラム


by katorishu
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オッサン、オバサンへの淡い期待

 9月25日(土)。
 17時30分より、月に1回ほどおこなっている早稲田シナリオ義塾の講師。受講者が少ないので雑談風に展開。30代半ばの人が多いのは、なにか理由があるのか、ないのか。みんな熱心に聴講しており、やる気もあるようだ。プロの脚本家になるのもかなりハードルが高くなっているが、それ以上に、「続ける」ことが難しい。プロでやっていくためには「才」のほか「運」が必要で、さらに必要なのは「鈍」であると強調。つまり粘り根気である。
 文筆業は他にいろいろあるが、シナリオ・ライター、脚本家ほど、忍耐力が必要とされるジャンルはない。小説やノンフィクションも書いているぼく自身が、そう思うし、同業の脚本家なども同意見である。

 もちろん、小説なども忍耐や根気は必要で簡単な作業ではないが、何十人、何百人もの人間がかかわる映画やテレビの土台作り(脚本)は、また独特の世界である。
 「自己表現」を何より重視するなら、ぼくは志望者に小説を書くことをすすめる。売れる売れないは別にして、小説は書いて活字にしたり、インターネットで公開したりすれば一応の「完成品」だが、シナリオや脚本はそのままでは「未完成品」であり、映像化されなければならない。
 映像化には必然的に多額の金銭がからむので、「金を出す人は口もだす」ことになり、意に沿わない「直し」などもしばしばである。意見が衝突し「おりる」「おりない」で紛糾し、企画そのものが挫折してしまう場合など日常茶飯である。志望者は一見「華やか」に見える裏に、そんな「現実」があることを、知っておいたほうがいい。

 実数はわからないが、文筆業の志望者は依然として多いようだ。「自己表現」がそのまま職業として成り立つものは、あまり多くはない。多くの職業は「ルーティン・ワーク」で毎日似たようなことの繰り返しであるといっていいかと思う。
 そんな繰り返しの中にも、もちろん「自己実現」の楽しみ充実感はあるのだが、文筆業とくに小説やシナリオなど「創作」を主体にしたものほど、個人のオリジナリティや個性を重視されない。
 ところで、音楽家や画家、俳優……等々の「芸術」関連の職業は「自己実現」「自己表現」が命で、文筆業などと似ているが、個人がその職業にふさわしいか、その能力をもっているかいないかが、わりとはっきり判る。スポーツ選手になると、なおのこと、はっきりと素質のあるなしが、わかる。
 それにひきかえ、言語を駆使することによって成り立つ文筆業の場合、その人に才能があるかないかは、そう簡単に判別できるものではない。最後にものをいうのは「才能」だとしても、隠れた才能というものもあるはずである。

 現に、若いとき、たいした作品もかかず「お前は作家なんかになれない」といわれた人が、その後、文学史に残るような作家になったケースもある。自分で発見し、努力や修練でのばしていく「才能」というものもある。
 オリジナリティは豊かでなくとも、資料を収集し、分析し、そこから抽象する能力に秀でていれば、歴史作家として業績をあげることもできるだろう。体験をそのまま記すだけで、波瀾万丈の物語になるような希有の体験の持ち主もいる。当初、表現力が豊かでなく、稚拙な印象の文を書いていた人が、5年、10年たつうち、見違えるように達意の文章を書く場合もある。

 その人なりの独特の「視点」「物の見方」を獲得し、修練の果てに、ひとつの表現(文体)を編み出したとき、そこに作家が誕生するのだが、試行錯誤の時間が早いひとと、10年も20年もかかって、結論めいたところに達するひとがいる。
 前者の場合は比較的早く世に出やすいが、後者の場合だと、今のような「若年偏重」の時代は、芽をだすのは容易ではない。

 以前、評論家の中村光夫が「文学は老年のものだ」といって話題をよんだことがあるが、昨今の「文学状況」を見ていると、ひたすら若い人がもてはやされている。作者が若ければ若いほど「売れる」からなのだろう。テレビや映画界においても似たような傾向である。
 団塊の世代を中心に、これだけ「中高年」および「老年」人口が増えた時代はないのに、多くのジャンルで若者偏重……。
 ぼくはこれを日本の「7不思議」のひとつだと思っている。べつにぼくが「中高年」になって、仕事の注文が減っているからいっているのではなく、自分のことはさておいて、虚心に日本の文化、社会状況を眺めてみて、そう思う。とくにここ15年ほどの日本が、おかしく、きわめて「いびつ」な状況になっている。
 
 なぜ、こういう状況になったのか。冷戦構造の崩壊にともなう世界情勢の変化などもふくめて、いろいろな問題が複雑にからみあって生まれた状況であり、一口に理由を説明できるものではないが、ぼくはひとつだけいいたい。
 今の若者はだダメだとか頼りない、覇気がないと嘆いている「オッサン、オバサン」がいるが、じつは彼らにこそ問題がある場合が多い。過去の「成功体験」によりかかって、その尺度でしか物を見ていない、柔軟性に欠ける凝り固まった人たち。社会や人間を見るには、いろんな物差しがあるはずで、物差しひとつ代えれば、否定的に見えていたものが、輝きを増すことだってある。

 日本社会に連綿とつづく「差別」問題ひとつとっても、そうである。旧来の価値観から一歩もでられず、偏狭な価値観の物差しからしか、見ることができない人たち。彼らが差別をつくりだしているのである。差別の心理の裏側には、コンプレックスがひそんでいる場合が多い。
 それなりに社会への影響力をもっているリーダークラスの人間に、この種の「オッサン、オバサン」が多い。リーダーにのし上がる課程で、ある種のコンプレックスがバネになったのかどうか。上昇志向にあふれた人間の根っ子に、案外差別心が潜んでいたりする。

 そして情けないのは、こういったオッサン、オバサンにちょっとは反抗するものの、「そっちが得だから」といって、結局は、オッサン、オバサンの軍門にくだり、これの旗振り役を演じる若者、青年たちの存在である。
 この人たちが、おそらく社会のリーダーになっていく可能性が強い。なにしろ社会への影響がもっとも強い政界、経済界で、「世襲」が堂々とはびこっている社会である。
 ところで、世襲による支配の典型的社会が、北朝鮮である。多様な価値観、多用な世代がいりまざって、人や社会の価値判断をする尺度、物差しが多様な社会。そういう社会こそが選択の自由があり、「豊かな社会」であると思うのだが、どうもそういう方向にいっていない。
 そして、学校教育も画一、商店もコンビニに代表されるように画一、テレビ番組も金太郎飴のように画一……。世の中、確実に価値観の「画一化」にむかって進んでいる。
 
 来年は「個人情報保護法案」も施行され、さらに「言論の自由」が制限されるだろう。そうして、憲法改正が俎上にのり……。
 いやな時代の到来を予感させる。ぼくは「安保世代」とも「全共闘」世代とも縁のない「非政治的」な人間だが、そんなぼくでさえも危機感を募らる時代になってしまった。
 そんな時代の空気を敏感に感じ取って登場したのが小泉首相だが、やっていることは、いやはや……である。
 結構な年金をもらい貯金もある程度あるオッサン、オバサンたちは、「構造改革、結構」といいながらも、本音の本音では「現状維持」である。なぜなら、そのほうが「楽」だから。
 変化に立ち向かうには、それなりのエネルギーがいるし、覚悟がいる。「楽」な生活に慣れてしまった人間は、汗をかきたくないのである。
 かくて……。
 日本は文化の面でも、かなり早い速度で衰弱していくだろう。
 テレビでも映画でも文学の世界でも、老若男女の個性がいりまじって、それぞれが個性を発揮し、「百花繚乱」となる状況こそ願いたいのだが……。
 残念ながら、野鳥でいえばどん欲なカラスのような、「数字」を武器にした「猛禽」が幅をきかせ、ほかの鳥たちは背を縮め、小さくなって絶滅の危機に瀕している。
 このままどん欲な「猛禽」の餌食になってはいけない。暇でお金もあるオッサン、オバサンたちに希望したい。
「もう少し、本を買って読み、タダで見られるテレビではなく、劇場に足を運んで映画や演劇にも時間をさいてください。なにしろ、あなたがたは、一番、層の厚い世代なのですから、その気にさえなれば、世の中はかわるのです」
 そんな期待をこめて、細々と文字を連ねているのだが、状況はいい方向に回転していかない。お前の書くものが、たんに面白くないだけだよ、といわれれば、返す言葉もないが。それでも、まだぼくの書くものを「面白い」といってくれる人もいる。
 それを支えに、書き続ける。

 オッサン、オバサンの多くは、昔は、「文学青年」であり「文学少女」であったはずである。
 せっかく暇になったのであったら、青年のころの客気をとりもどしてほしいものだ。そうして、へんに隠居ぶらずに、熱くなってほしい。中村光夫が書いていた「老年の文学」をあらたに起こすような心意気をもってほしい。
「いやあ、もう年だから」などという老人でもない、中年がよくいるが、こういう人と過ごす時間は「空白」の時間で、要するに時間の無駄である。従って、その類の人とはつきあわないことにしている。
 才能があるかないかわからず、前途への不安と期待の中で揺れ動きつつ、それでも夢を捨てない若者が、ぼくは割と好きだ。中高年でも同じである。自足している人間ほどつまらない人はいない。
 だからこそ、ボランティア精神で、交通費に毛のはえた程度の安い講師料で、教えたりしているのである。願わくば、この中から、おっと思わせる才能が出てきてほしいのだが、砂浜でダイアモンドを探すような気分になることも、しばしばである。

 
 
by katorishu | 2004-09-26 03:02