増殖するパソコン教徒
2006年 09月 08日
■パソコン修理をめぐってデルのテクニカル・センターと朝から、何時間も電話。ファン交換ですむということだったので、バックアップをとらずに渡したところ、ハードディスクに故障があり交換する必要があるとのこと。だったら、一旦もどしてもらってバックアップをとってから、ということにした。ところが、戻ってきたパソコンが起動しない。
■そちらに出す前には正常に機能していたのに。デルのテクニカル・センターでも珍しいケースだそうだで、電話にでた相手は懇切丁寧に説明してくれるのだが。当初、修理受付の電話に出た人はアジア系の外国人であり、よく意思の疎通ができていなかった。
で、相手から突然送られてきたパーツの意味がそもそもわからない。電話でのやりとりで、ぼく自らパソコンを開けて、先方のいうままドライバーでネジをはずしたりして、パーツの交換を行った。これですんだわけではない。パソコンの内部にある情報をどうやって取り出すか。結局、外付けのハードディスクを買って、それを通じて情報を取り出すしかなさそうだ。外付けのハードディスクを今回のためにもう一個購入したが、携帯のハードディスクのため、この件では使用できず。2万円を超える製品である。されに据え置き用のハードディスクを買って試みても、それによって情報が取り出せるかどうかは、未知数とのこと。
■修理のさいハードディスクが故障したとの「裏付け」がとれないので、もし情報がとれなければ、そのままにするつもりなのか。デル製品は比較的安価なのはいいが、故障の際、不具合をきたす。
それにしてもパソコンは厄介な代物である。知人の元パソコン雑誌編集長のBさんが何度も強調していたが、この世には「パソコン教徒」「インターネット教徒」が充満しているという。パソコン等に詳しいBさんの言葉なので、考えさせられる。
最初からパソコンなどに目を向けない人は問題ないが、中途半端にパソコンを使っている人が、パソコン教徒になっている。
■昨日、接触した印刷業者の幹部が話していたが、デジタル化したデータはすでに10年前のものが取り出しにくくなっているという。IT界の「日進月歩」の進歩が曲者なのである。
器機が毎年改良されバージョンアップされるため、古いバージョンで保存したものを読み取れる器機がなくなっているという。ヤフーのオークションなどでジャンク品として売られているものを買ってきて情報を取り出すしかない。
情報が詰まっていてもそれをアウトプットする器機がなくては、「ない」も同然である。企業は古い型の器機は生産停止にしてしまう。部品も同時に生産停止になるので、ごく一部が故障しただけで、機能しなくなってしまう。
■先日、某業者の話では、旧バージョンで保存したドラマ脚本(2時間ドラマ分の長さ)を、新しく移し替えるだけで、一人が丸一日専任して完了したとのこと。某印刷所では、独自のシステムを開発したのだが、その独自性が時期が移るとワザワイする。
厄介なことである。
ところが、多くの「パソコン教徒」は、目先の便利さに目がいって、この器機のもつ、危険さ、怖さについてほとんど考えをめぐらせない。
「便利で快適なものは善で、素晴らしい」と信じ込んでいる。まるでアメリカ製民主主義は「素晴らしいから世界に広めよう」といっているのと同じである。
■現代社会には「憂うべき」ことが多いが、広く広範に害をおよぼすだけに「汚染」が懸念される。「脳内汚染」の問題も深刻であり、、便利さを追及するはてに待ち受けている「落とし穴」に、そろそろ人は気づかないといけないのだが。
■本日は、「ボランティアからみ」の諸連絡等々で、結局、仕事にならなかった。1時間、息抜きに近くのコーヒー店にいったほかは、仕事部屋で過ごした。時間ばかりが徒に過ぎていく。少年老いやすく学成り難し、という言葉をしみじみとかみしめつつ、一日は終わる。