5月8日(火)
■先日、俳優の北村和夫さんが80歳で亡くなった。新聞にゆかりの人が追悼の言葉を書いている。いかにも育ちの良い、坊ちゃんという雰囲気を最後まで絶やさなかった人だ。
ぼくは4年ほど前、信濃町駅近くにある文学座の古風な木造家屋の二階で、北村さんから2時間ほど話を聞いた。今村昌平監督についての本を書くための取材だった。
そのときは大変お元気で、よどみなく往事の思い出を語ってくださったのだが。
■今村監督と北村さんは大塚の小学校のころからの親友で、大学時代はもちろんその後の俳優時代も、いつも良き友で、なんでも言い合える仲だった。子供時代のエピソードはもちろん。松竹大船の撮影所に北村さんが出向いた折のエピソードなども面白いものだった。
文学座の「女帝」ともいうべき杉村春子が小津安二郎の、確か「東京物語」に出演するので、北村さんはその付き人かなにかでいったのではなかったのか。当時、今村監督は「新入社員」で小津の作品に新米の助監督としてついていた。北村さんは、「イマヘイ」に会うことも予定にいれていたのだろう。イマヘイは北村さんのことを「カッちゃん」と呼んでいた。
■今村は小津の「取り澄ました小市民」のスタイルに反発をしていたようだ。間もなく今村監督は松竹をやめて日活に移籍するのだが、まるで上品な小津作品に対抗するかのように、「性」と「下層社会」に焦点を定めて、人間を昆虫や動物と同じ生き物として鋭くえぐるように描いた。
今村作品を見た小津監督とシナリオ作家の野田高ご(木偏に吾)は「どうして今村はウジ虫みたいなものばかり描くのか」と批判した。伝え聞いた今村監督は、「ようし、俺は最後までウジ虫を描く」と宣言したという。
■小津監督も我が儘ではあったが、今村監督も我が儘なところがあり、現場ではいろいろと衝突があったようだ。そんなとき「竹馬の友」の北村和夫が緩衝役になった。
小学校時代の親友が、その後も似たような舞台で、互いに刺激し合いつつ、遠慮のない批判やアドバイスを行い、友情をまっとうする。そういう「竹馬の友」を持たないぼくなどには羨ましい限りである。
■ある時期、親しくしていても、時間がたつと離れていくものである。仕事の場が違えば、会うことも少なくなり、自然、距離がでてしまう。改めて会うのもお互い億劫になり、5年も10年も会わないでいると、会う理由もなくなって、次第に遠ざかり「思い出」の領域にはいってしまう。子供のころからの「同好の士」をつくらなかったのは、多分、ぼく自身の責任でもあるが、偶然が味方をしなかったということもある。
■北村は実家から医者になるようすすめられており、医大を受験したがことごとく落ちてしまい、なんとか三島にあった日大の予科にはいることができた。翌年、医学部に編入しようと思っていたのだが、そこにイマヘイが尋ねてきて、早稲田の演劇科にはいれと説得したのだった。
「俺は勉強ができないから早稲田は無理だ」と北村がいったところ、イマヘイは「だいじょうぶ。きみでも入れる」といった。イマヘイの来訪がきっかけで、北村和夫は早稲田を受験し受かった。そのことがなかったら、俳優、北村和夫は誕生していなかったであろう。
■今村監督の映画には、しばしば早稲田の演劇仲間であった北村和夫や小沢昭一、加藤武なが登場する。お互い切磋琢磨しあった結果、それぞれが大きく成長し、いずれも風格のある人物になっていった。
若いときの「友」は大事である。友人次第で、その後の人生が決まってしまうことも多い。お前が何者かであるかは、お前がどんな友をもっているかでよくわかる――といった意味のことを、かつて高名な文学者がいった。名前は忘れたが、今でもぼくの記憶に残っている。昔の人はいった、類は友を呼ぶと。その通りである。