今年は「言葉の復権」の年にしたいもの
2008年 01月 02日
■新しい年が明けました。このブログをお読みくださる方も、今年をどういう年にしようか、どういう年であって欲しいか、それぞれの抱負や希望、夢などをさまざまに思い描いていることと拝察いたします。
当ブログでは気分転換をかね、しばらく「ですます」調でつづってみようと思います。古い読書家の方はご存じかと思いますが、「風俗小説論」や「二葉亭四迷論」などを書いた文芸評論家の中村光夫が主に昭和20年代から50年代にかけて「ですます」調で評論やエッセー書いていました。中村光夫は小林秀雄や河上徹太郎などとほぼ同年代の文芸評論家で、晩年近く戯曲なども書いていました。
■中村光夫の文体は融通無碍(ゆうづうむげ)で、しなやか、柔軟であり、難しい問題をわかりやすく、しかも深く解き明かしてくれるもので、「なるほど」と何度も思ったもので、いろいろと教えられました。余談ながら、その中村光夫が昭和40年代の前半、「文学は老年のもの」といった内容のエッセーを新聞に発表しました。当時は「若者」であったぼくなど反発を覚えましたが、豊かな実体験のない者に人生の深みを描くことは難しいといった内容には説得力がありました。確かに中村光夫のように小説などを書くのは早い、もっと沢山読んだりして「吸収・蓄積」をしなければと思った記憶があります。
■以前、某新人賞の最終候補にのこった拙作について、選考委員の山口瞳氏が「この人は小説を書くには10年早い」と選考会の席上話したとか、同席した編集者が話してくれました。「ポケットにナイフ」というタイトルです。一方、時代小説作家の池波正太郎氏は拙作を推してくれたとかで、「頑張って面白い小説を書くように」とその編集者を通じてメッセージを伝えてくれました。そんな一言が、物書きとしてのスタートを切ったばかりの身にとって、どれほどの励ましになったことか。
ところで、あれから30年近くが経過するのですが、未だこれといった作品を書けていないというテイタラクです。
■テレビドラマの脚本等は相当数書きましたが、このジャンルはいろいろの制約があり、当然のことながら自分の本当に書きたいものは、なかなか書くことが出来ません。自分の書きたいことを書きたいスタイルで書くには、やはり小説です。
ただ、今は読者層も違ってしまいました。「面白さ」についての感じ方、受け取り方もかわり、以前、評価されたものが評価されなくなり、以前であったら「文学以前」であったものが、もてはやされたりします。
■巷に流行っているケータイ小説など、その典型かもしれません。携帯電話で配信すること自体は結構なことです、普及してほしいものです。現在、もてはやされている「ショーセツ」について、過日、本屋で拾い読みをしましたが、「時間つぶし」にもならない類のものでした。あの類の小説が流行ることで、活字文化、言語文化が向上するとはお世辞にもいえません。
■社会が変わり、多くの人々のライフスタイルも価値観も変わってしまったので、「世態人情・風俗」と無縁でない小説も当然その影響を受けるのですが、変化があまりに早い。 ところで、この20年ほどで国民の「読解力」の水準が落ちていると感じています。この社会、世界を理解する上で必要な「基本的知識」の欠如も気になります。日本と世界の「歴史」について、あまりに知らなすぎるし、ごく一部の角度から切り取った狭い知識で、歴史を知った気になっている人も少なからずいます。
大学教育から「一般教養」がなくなったことも、遠因になっているようです。教養など「ゼニにならない」という底意が透けて見えます。
■今は、とにかく「易しく」「わかりやすく」しないと本が売れないそうです。今年出す予定の本についても、「なるべく難しい言葉をつかわず、わかりやすく、易しく」と担当編集者からいわれました。
小説は書かないのかと時々、聞かれます。じつは、その後すこしづつ書き続けていて、いくつかは形になっているのですが、現下の「活字離れ」「出版不況」では、「地味な作品は売れない」ということで、塩漬けになったままです。「売れる」作を書いて「実績」をつくろうと、ぼくとしては過去、「不得手」なミステリーも何作か試みました。ペンネームや「合作」をを加えると10編以上書き、いずれも本になっていますが、脚本も含めて、こちらはぼくのテリトリーではないということを実感するための試みであったようです。
■未だにぼくの処女出版である1980年に出した「隣の男」が一番面白いという読者もいるほどで、この面ではあまり進歩していていないのかもしれません。何年か前、ぼくの作品の熱心な読者で、昔の文学仲間でもある某氏が『隣の男』を読み返し、あらためて感銘を受けた、香取はこっちの方向で書くべきだ――との内容の手紙をくれたことがあります。一応「純文学」の範疇にはいるものです。
■ぼく自身、確かに「原点」に返ることも必要かなと思うことがあるのですが、「ビジネス論理」を最優先させないと生き残れない出版界にあっては、「売れそうもない」と判断される「地味な作」は日の目を見ることはありません。作品は読まれてこそ「作品」として成立するので、どこの版元も出さないものを書いても仕方がないという気分にもなります。インターネットで公開する手だてもあるのですが、「プロ作家」としては無料で公開するわけにもいかず、また長い作品はインターネットで読むことに適していません。
■かくて、今年もノンフィクションと脚本を重点的に書くことになりそうですが、これはこれで大変面白いジャンルで、ぼく自身、人様の作品はノンフィクションばかりを読んでいます。変化の時代はノンフィクションが面白いのかもしれません。
一方で、今年は、未だ日の目を見ない「大長編」をさらに改稿して、2000枚を超える小説にするつもりです。そうすると、ますます出版される可能性が減りますが、世の中は広いので1社ぐらいは「うちで出す」といってくれるところがあるかもしれません。そんなオプティミズムのもと、今年も原稿執筆を始めようと思います。
■「オプティミストは成功する」という本がアメリカでも出ており、確かに悲観論ばかりを先行させると、書く意欲、何かに立ち向かう意欲そのものが消えてしまいます。で、今年はむしろ積極的にオプティミスティック(楽観的に)にいろいろなことに当たろうと思います。いろいろなところに頭をつっこんでいるもので、「貧乏暇なし」の状態が日常化しており、悲観的にものを考えだしたら一歩も動けなくなりますから。
本年も、当ブログ、時々は読みに立ち寄ってください。「道草日誌」と題していますが、「コラム」への傾斜を強めようと思っています。