コラム


by katorishu
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風邪で気力がわかない、こういうときは中里介山の「大菩薩峠」を読む

 10月29日(水)
■風邪がいったん治ったと思ったのに、咳がでてとまらない。熱はなさそうなのだが、以前咳が長引いたときのことが思い出された。2時間ほど近くのコーヒー店にいった以外はずっと家にいた。こういうときに限って電話が多い。以前とちがって「遊び」の電話はかからない。

■なんらかの形で仕事にからむのだが、かならずしも良いニュースではない。今後どうなるのかといった企画話をはじめ諸々である。一応、社会的な活動をしている証拠だが、この不景気風は現実に相当仕事に響く。

■世間の動きと直接関係はないが、執筆の仕事も、なかなかはかどらず、いたずらに時間がすぎていく。多分、気力の問題なのだろう。体の芯からわきあがる活力が感じられない。日本の経済と同様悪い兆候だ。仕方なしに布団に横になって「大菩薩峠」を読む。
 誤解しているムキもあるようなので、評論家尾崎秀樹の解説を応用して以下簡単に記す。この大長編小説には「特定の主人公」はいない。じっさいに本を読んでいない人の頭に、机龍之助のことが強くはいりこんでいるようだが、これは基本的に群像劇である。

■浪曲や講談にも通じる庶民文芸の伝統にのっとりながら、さらにつきぬけた深さをもった特異な小説である。筆致にシナリオとにた展開、ト書きめいた言葉が記され、あるリズムを刻んでいる。介山自身、じっさいに大菩薩峠のシナリオも書いた。

■識者の評価も高い。谷崎潤一郎は、この作品の気品の高さに触れ「決してチャンチャンバラバラの剣戟小説ではない。チャンチャンバラバラはほんの上っ面にすぎないので、底を流れているのは机龍之助を中心とする氷のような冷ややかさ、骨身に沁むような寒さ」であると記す。また、大宅壮一は「(龍之助を)神そのもののごとき自由人」であるといい、「一切の現世の約束事から完全に解放され、一切の人間的感情を蹂躙して、生と死の間に横たわる目に見えぬ線――幅も厚さもない幾何学的線上で、虚無の舞踏を乱舞し得る超人である」と記す。

■中里介山本人の思想を体現したような人物が多数登場するが、尾崎は介山そのものに「儒教的なもの、武士道的なもの、仏教的なもの、キリスト教的なものが、混沌のままに存在するところがある」と喝破している。 
 宮沢賢治がこの小説の愛読者であったことも興味深い。賢治は即興詩「大菩薩峠を読みて」でつぎのように詠った。
  日は沈み 鳥はねぐらにかへれども
  ひとはかへらぬ 修羅の旅
   その龍之助

■当初この小説、自費出版で200部刷られたという。介山は自由、平等、博愛をかかげた「平民新聞」にひかれ、一時は幸徳秋水などにも心酔した。三多摩壮士の気分をもひくが、多摩の羽村の生まれである。ぼくは比較的近いところに生まれ育ち、近くに三多摩壮士の気分を残した人もいたので、介山にいっそう近しいものを覚える。

■介山は自らの小説を「大乗小説」「宗教小説」と称した。さらに趣意についていう。「人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼荼羅の面影を大凡下の筆にうちし見んとするにあり」

■ずいぶん昔のことだが、羽村にある中里介山記念館を訪れ、介山の確か弟さんに話を聞いたことがある。その方が館長で孤塁を守っている雰囲気があった。記念館はいまでも残っているのだろうか。介山はマスコミに背をむけ、時勢におもねず、戦時中の文学報告会の結成に際して入会を拒否した。昭和19年4月28日、腸チフスで急逝した。今こそ、もっと読まれて良い小説である。あと19巻、時間をかけてゆっくり読む。それが楽しみのひとつに加わった。今書きつつある時代ものの小説に影響するに違いない。この作、もう半分ほどいっていなければいけないのに、まだ第二章あたりで行きつ戻りつしている。
by katorishu | 2008-10-30 00:15 | 文化一般