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カテゴリ:連載小説( 20 )

 8月14日(水)
■相変わらずの猛暑。高知の四万十など4日連続で気温40度をこえたという。まさに異常というしかない。亜熱帯の沖縄では37度以上になったことは一度もないという。日本列島は一部をのぞいて亜熱帯となったといってよい。暑いので早朝に生活をシフトしている。午前中、外で4時間ちかく原稿執筆。そのうち2時間は北品川の広いコーヒー店。満席になることはほとんどないので、ボクのような長居の客でも他に迷惑になることは少ない。なにしろ週に4,5回は足をはこぶ「常連客」なのだから。

■こういう店は、ボクにとって「世相ウオッチ」になる。最近目立つのは男性の一人客。そのうち半分以上は恐らく定年退職した人ではないか。圧倒的多くが読書をしている。ひところは文庫それも時代小説の文庫を読んでいる人が多かったが、最近はハードカバーの本を読んでいる人も多い。内容まではわからないが、ビジネス書ではなく、小説や文化関連の本のようだ。これは歓迎すべき傾向で、ちょっと希望がもてる。マンガを読んでいる人はゼロに近い。早朝だと新聞が多いが、昼近くになると単行本を読む客が増える。このへん旧東海道の沿道の住民が多く、とくに「知的な人」が多く住んでいる地域でもない。東京のごく平均的な場所だと思うがビジネスマンも多い地域だが。

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by katorishu | 2013-08-14 12:17 | 連載小説
 大人の童話 メロドラマ その19 最終回
 駒沢大学駅でおり、階段をあがって玉川通りに出ると、数メートル前を拓郎が歩いていた。前屈みの姿勢で、まるで初老の男のように力なく見えた。こういう男にかつて強く惚れたことがあるのである。そんな自分が、いまいましい。悔しくもあり、情けなくもある。
 あのころは、まだ若かったし今よりずっと見栄えがしたので近づいてくる男は何人もいた。プロポーズもされた。そんな中で、迷いに迷った上、都会育ちながらもっとも野暮ったい感じの拓郎を選んでしまった。選ぶうえで「ある事情」があったのだが、拓郎に話せることではない。
 ただ、あのときの選択が誤りであったとは思いたくなかった。誤りだとすると、これまでの人生が敗北の累積になり、打ちのめされて一歩前にでることもできなくなる。
 
b0028235_22463972.jpg
当初は小さな行き違いであったものが長い時間のなかで拡大され、すでに修復のしようもなくなってきている。それだけは認めるしかなかった。
 手に先ほど理恵の頬を張ったときの、はりつめた感触が残っていた。この感触をストレートに拓郎にぶつけてしまおうか。とぼとぼ歩く拓郎本人はまだ知らないようだが、すでに理恵に用無しとして捨てられているのである。あわれなヤツ。ケーキ屋の前で追いついた。並んで二〇メートルほど歩いたが、拓郎は気づかなかった。
 このぼんくら。
 卑怯者。
 間抜け。
 児童文学者としてはふさわしくない罵りの言葉が体の中で渦巻いた。
「コラ」
 こらえきれなくなって、亜矢が言葉を放った。
「おう。どこへいったんだ?」
 たった今、あなたの愛人に会ってきたのよ、といってやりたかった。出雲雅也とのこともみんなお見通しなんだからね。
 お前は哀れなピエロ。
 若い女にいれこんで弊履のように捨てられたんだ。
 そんな言葉が喉元まで出かかったが、抑えた。もし一言でも口に出したら最後、言葉が言葉を誘発し、すべてが粉々に砕け飛ぶような大爆発に至ってしまいそうな気がした。
 妻としての地位は失ってもいいが、二人の子供の母親としての位置を失うことになる。子供二人をひきとって、一からやり直すこともできないこともないが、自信はない。
 惚けはじめた作治のこともある。拓郎の行為は許せないとしても、作治の世話は別である。少なくとも、一七年ほど一緒に一つ屋根の下でともに暮らしてきたのである。
「こんばんは」
 という声が響いた。振り向くと、駒沢ハウスの住人の銀色の髪をした綾辻夫人が桔梗の花柄の着物姿で立っていた。駒沢病院の前あたりだった。隣には元都庁の役人であったという夫の綾辻康平が立っていて、亜矢と拓郎に軽く会釈をした。ループタイをした姿勢からは、往年のダンディぶりが想像できた。
「お出かけですか」
 思わず、お愛想の言葉が口元をついてしまう。
「はい。三軒茶屋のパブリックシアターで能狂言を拝見しようと」
 白髪の綾辻夫人は上品な声を響かせた。
「それは、楽しそうですね」
 亜矢は儀礼的に言葉を返した。
「仲がおよろしいんですのね」
 綾辻夫人は亜矢と拓郎を交互に見ていった。
「いえ、そんな」
 亜矢は狼狽した。ちらっと拓郎を見ると、拓郎は苦笑いを浮かべていた。笑いの底に流れるどす黒いものを亜矢は想像してしまう。人間は表面柔和に装っていても、心の奥底では何を考えているかわかったものではない。
「それじゃ、失礼いたします」
 丁寧に頭をさげ、綾辻夫人は夫を促すように歩き出した。
 夫婦で仲良く、能狂言の舞台を観劇か。拓郎は古典芸能などほとんど興味をもっていないし、あんな老後は、私たちにはもう永遠にやってこないだろう。老後どころか、拓郎との関係は今年いっぱい、いや今月いっぱいもつかどうか。

 駒沢公園の表門を左手に見ながら、駒沢ハウスの前まで、亜矢と拓郎は無言で歩いた。門の前で拓郎は立ち止まり、
「運動不足だな。犬でも飼うか」
 そういって、大きく伸びをした。バーカ。尻を思い切り蹴飛ばしてやりたい衝動がわいた。不意に拓郎が立ち止まった。なぜか夜空を見て、
「明日、晴れるかなア」
 といった。このヒト、もしかしてすでに理恵から別れ話を宣告されたのではないかと亜矢は思った。
 目の前に瀟洒でモダンなデザイナーズ・ブランドの建物が見えてきた。建築雑誌に写真入りで紹介された建物だが、なにやら薄っぺらな映画のセットのように見えてきた。
 拓郎が中庭にはいっていって、七分咲きの桜の前で立ち止まった。亜矢もつられてはいっていった。ファミリー用の部屋に入居している影佐家の次郎と有佳の姿が、カーテン越しにシルエットとなって垣間見えた。一緒に住む有佳は、ときどきテレビなどに出ている女優である。有佳のシルエットがすっと影佐のシルエットに近寄りひとつになった……。

 拓郎は桜の木の傍らにあった木刀を手にとり、素振りの真似をした。以前、運動不足を補うのだといって、木刀を買ってきてときどき思い出したように素振りをしているのだった。
 拓郎は小さく気合いをいれながら、木刀をヒュッヒュッと風を切って振るった。闇の向こうに、誰を見ているのだろう。中庭の庭園灯に浮かぶ顔には憎悪がこもっているようでもあった。
 拓郎の木刀が今度は亜矢のほうに向いた。亜矢が身構えると、拓郎は大上段に構えて、鋭く振り下ろす。そうして一歩こちらに踏み込む姿勢だ。思わず亜矢は目を閉じた。昔、小田原の実家の剣道場で、五段の段位をもつ父から真剣による居合い抜きの手ほどきをうけたことが、脳裏をよぎった。想像の中で亜矢は父が使っていた居合い用の小刀を腰に、拓郎と相対した。
 拓郎の手にしていた木刀は、月光をあびて冴えかえる真剣に変わっていた。青眼に構え、にじりよってくる。触れあいそうな近さになったとき、亜矢は父に教わった要領で腰をためて小刀を抜きざま、相手の胸から肩に鋭く突き上げた。手応えがあった。数秒後、拓郎の一七〇センチの体はいったんのけぞり、それからゆっくりと丸太が倒れるように崩折れた……。
 目をあけた。拓郎が背を丸め膝を屈している。蝦蟇の夫婦をみつけて、手をさしのべているのだが、崩折れる寸前の姿に見えた。
「二〇年か」
 と亜矢は拓郎と蝦蟇の夫婦を見比べながら思った。長いようでもあり、短いようでもある。喜びも怒りも哀しみも楽しさもすべてひっくるめて、殿村家という御輿を一緒に汗を流してかついできた。近所でも評判の「仲のよい」相棒であったが、とうとうこういう地点にまできてしまった。
 桜の下にいる相棒を、現実に斬って捨てるべきか、どうか。
 自分が今、人生の重大な岐路に立っている、と亜矢はひりひりする気持ちの底で思った。
                      了

by katorishu | 2010-02-23 22:49 | 連載小説
大人の童話 メロドラマ その18
 帰宅したとき、まだ胸の動悸がおさまらなかった。一郎が珍しく弾んだ声で近寄ってきた。
「ママ、喜べ。サッカーの試合で、ぼく二回もゴールしたんだ。城南中学に逆転勝利なんだぜ。奇跡がおこったんだ」
 亜矢は一郎の喜ぶ様子を、遠い景色を見るような気分で見ていた。
 恵美が帰ってきた。亜矢の顔を見るなり、開口一番、
「ママ、出来たよ、英語の検定。完璧だね」
 弾んだ声でいった。
「そう」
「どしたのよ、ママ、元気ないなあ。気分よかったから、ママの大好きな木村屋のあんパン買ってきちゃった」
 恵美は嬉々として包みをあけた。中央のヘソの部分に桜の花をいれたものだった。恵美は珍しく、
「お茶をいれるね」
 といってキッチンにいき、やかんをレンジにのせた。相変わらずスーツにネクタイをしめた作治は、テレビの情報バラエティ番組を見ながら楽しそうに声をたてて笑っていた。 亜矢は作治の背中を注視した。雅也が話していた『アレにまとわりつかないでくれ』という言葉が苦さをともなって蘇った。本当に作治がそんなことをいったのだろうか。確かめたい気持ちと思ったとき、作治の唇が震えた。b0028235_04064.jpg 
「美代さん、わし、まだ朝飯食ってないんだ」
 亜矢の体からすべての力が抜けていくようで、目眩さえ覚えた。
 すでに外は黄昏れていた。池の端の庭園灯が木々を照らし、昼間とはまたちがった風雅な風景を描きはじめた。池にすむ蝦蟇がガーガーと牛の鳴き声のような声を発した。
 中庭に面した駒沢ハウスのリビング一杯に、いつになく明るく華やいだものが漂っている。そこだけ切り取って見たら、それこそテレビのコマーシャルに出てくる、幸せを絵に描いたような「理想の一家」であるのかもしれない。
 見守っていて、殿村亜矢は自分が果たして幸福なのか不幸なのか、わからなくなっていた。ソファの横のサイドテーブルにある電話が鳴った。受話器をとると、一拍あって、
「もしもし」
 女の声だった。
「わたし、川上理恵といいますが」
 亜矢の心臓の鼓動が早くなった。受話器をもちかえ構える姿勢になった。
「失礼ですが、奥様でしょうか」
「はい……」
「じつは、ご主人のことで、折り入って奥様にお話したいことがあるのですが。今、三軒茶屋まできているんです」

 東急世田谷線の三軒茶屋駅の改札口の前が細長い広場になっていて、真向かいのビルの一階に珈琲店コロラドがある。明るく、場所がいいので、いつも満席に近い状態である。
 亜矢がはいっていくと、左手の窓際の椅子に坐っていた痩せぎすの髪の長い女が手をあげた。白黒のチェック柄のセーターを着ていた。
 亜矢はゆっくりと近づいていった。落ち着かなければと思うのだが、喉がかわき、頬もひきつっているようだ。真向かいに坐って、まっすぐに相手を見据えた。目が少々横につり気味で、キツネを連想してしまった。
 川上理恵は故意につくったような微笑を浮かべた。過日、ベランダで目にしたときは、のっぺらぼうに見えたが、化粧をするとなかなか見栄えがし目に光りがあった。こういう女を前にすると、拓郎の雄としての能力が復活するのか。
 コーヒーを前にして二人はしばらくのあいだ無言だった。沈黙に耐えきれず亜矢がいった。
「あなたは……うちの亭主と……そうなんでしょ」
 どう答えるか、注視していると、理恵は、
「ごめんなさい」
 といって頭をさげた。
「あなたねエ、ごめんなさいで、すむと思ってるんですか」
 ヒステリックになるのを抑えなくてはいけないと思うのだが、震え声になってしまう。
「いったい、あなた、ど、どんな」 
 テクニックを仕掛けたの、といいかけて、飲み込んだ。
「ごめんなさい」
 理恵は再びいって頭をさげ、案外落ち着いた声でつけくわえた。
「気のすむようにしてください。なぐってくださってもいいです。わたしは、覚悟していますから」
 開き直るつもりなのか、このオンナ。亜矢の指に力がはいった。しかし、まさか多くのお客がいるなか、なぐるわけにはいかない。この女のどこに拓郎は惹かれたのだろうか。若さにであろうか。エキセントリックなところにであろうか。川上理恵は痩せぎすで胸のふくらみも小さく、それほどセクシャルとは思えず、ややボーイッシュな印象である。考えてみれば、亜矢自身、子供を産む前は痩せぎすで、どちらかといえばボーイッシュなところがあり、このオンナに似ていなくもない。それも亜矢にはいまいましいことだった。

 それより、理恵がなぜわざわざ連絡をしてきたかである。拓郎の意向を受けてやってきたことも考えられ、亜矢は警戒の姿勢を崩せなかった。
「断っておきますけど、わたし、もう別れます」
 理恵の赤く塗った唇が震えた。
「別れるって……」
「わたし、ほかに好きな人がいるんです。でも、そのこと、拓郎さんに、いいだしにくくって。どうやって別れ話をもちだそうかと、ずっと悩んでました」
「だから、妻であるわたしに、いおうってことなの」
「はい。そのほうが角がたたなくていいかなって」
 もう充分すぎるほど角がたっているわよ。
 角がたって、傷んだ傷口に塩をぐりぐりすりこまれているのよ。
 あなたも相当非常識な女。沸きたつ気持ちを敢えて強く抑えこみ、亜矢は平静を装っていった。
「あなたが、拓郎に直接いうべきことでしょうが。なにを考えてるんですか」
「こんなこという立場にないこと、充分わかっていますけど、敢えていわせてください。拓郎さん、奥様のところが一番あっています。黙って、拓郎さんを受け入れてやってください。お願いします」
 理恵はさらに深く頭をさげた。
 あなた、なにを勘違いしているの。
 のしをつけて、差し上げたいのは、こっちのほうよ。
「拓郎さん、二言目には、いうんですよ。カミさんが作った料理がどうのこうのとか。カミさん、結構、ねばり強くて努力家でとか、カミさん、カミさんて。わたし、いつも、あてられてました。拓郎さんに今、一番必要なのは、奥様です。奥様しかいません」
 わたしは拓郎の母じゃあないのよ。拓郎が手にあまって邪魔になったから、お返ししますって、そんな理屈が通ると思っているの?
 胸の奥で言葉が激しく渦巻いていた。素直に口元から罵倒の言葉となって発射してしまったほうがいいのだろうが、なぜか抑制がきいてしまう。
「わたし、父がいないもので、どうしても父性的なものにあこがれるんです。拓郎さんには、デザインの仕事にも、いろいろアドバイスをいただいて、感謝しています。わたし、拓郎さんにあらためてメールします」
「結構よ。メールも手紙も電話もノー」
 強い調子で亜矢はいった。
「わかりました。そうします。失礼しました」
 理恵は長い髪をかきあげながら立ち上がると、くるりと背を向け、出口のほうに歩いていった。
 見守るうち亜矢の中で何かが沸きたち、どう処理をしてよいかわからない。気がつくと、理恵のあとを追っていた。キャロットタワー裏の人けのすくない駐車場の前あたりで追いついた。
「なんですか」
 理恵が気づいて立ち止まった。亜矢より首ひとつ背が高く、当然、肌も艶やかだ。
「やっぱり、わたし、気がすまないので、ぶたして」
 いいざま亜矢は左手で思い切り理恵の頬を張った。パシッという乾いた音で、街路樹の上にいた黒く艶のあるカラスが飛び立った。理恵がなにかいったようだが、亜矢の耳には意味をもった言葉として届かなかった。
 気がすむどころか、いっそう自己嫌悪が募り、生きているのが、ひたすら恥ずかしい気がした。これに耐えなければと思った。耐えて強くならなければ生きていけない。自分自身にそう言い聞かせながら、手で頬をおさえている理恵に背を向け、駅のほうに歩き出した。

by katorishu | 2010-02-22 00:05 | 連載小説
 大人の童話 メロドラマ その17

「どういうことなんですか。ちゃんと説明して」
 エスプレッソ・コーヒーを頼むと、亜矢は鋭く詰問する調子でいった。雅也は拓郎と偶然出会ったようなことを、くどくど弁解するようにいっていた。しかし、亜矢が、
「出雲くんらしくないじゃない。あなた、いやしくもスポーツマンでしょうが」
 そういって迫ると、雅也はテーブルに両手をつき頭をさげた。
「申し訳ない。じつは、ぼく、ご主人から頼まれたんです」
「頼まれた……?」
「話せば長くなるんですが」
 と前置きして雅也は悪びれずに、次のような話をした。
「二ヶ月前、あるパーティで、ご主人と知り合ったんです。ぼくはなかなか再就職が決まらなくて、暗い気分になっていました。二次会でご主人と隣り合わせに座ったとき、亜矢さんのご主人であるとわかった。懐かしい気がして、高校時代に横浜にいった話とかをした。すると、ご主人が今でも妻はあなたのことを覚えているだろうかって聞くんです。二年前、高校の同窓会で、亜矢さんがぼくのことをいろいろ聞いていたようだって話したところ、ご主人は、ぼくの顔を五分ほどじっと見つめていた。それからこういったんです。できればぼくの妻の相手になってやってくれないかって」
 まるで、わからない。b0028235_061427.jpg
 そういうことを頼む夫がわからないし、引き受ける雅也がわからない。
「ぼくは、断りましたよ。でも、ご主人は翌日、電話をかけてきて、駒沢ハウスにちょうど空き室ができたし、そこに入ってくれればいいというんです。最初冗談かと思ったのですが、ご主人は真顔でした」
 うそ寒いものが亜矢の胸元を走り抜け、肌に鳥肌がたつようだ。すべては拓郎の仕組んだことで、わたしはそこで猿回しの猿のように踊らされていたのか。戦慄にも似た感情が背筋をはしりぬけた。
 拓郎という男が別に人格者でもモラリストでもなく、大部分の男と同じように適度にいい加減で、適度に真面目な人間であることはわかっている。しかし、ここまで愚かしくも、いい加減で、モラルを欠いた人とは思わなかった。
「結局、わたしは拓郎と出雲くんにオモチャにされたってことね」
「ちがう。ぼくは、ご主人が忙しくて、亜矢さんの相手ができないから、亜矢さんが寂しがっているのではないかと解釈してました。住む場所を探しているときだったので、願ってもないことだと」
 辻褄会わせ、ないしは、弁解ではないか。疑惑はまだあった。
「さっき、拓郎が紙に包んだもの渡したでしょう。お金じゃないの」
「はい」
「やっぱり、お金で取り引きしたのね」
「いえ」
 と雅也はいって、一拍おいてからこういった。
「じつは……ぼくがご主人にお金を貸してたんです」
 なんですって。
 新たな混乱が亜矢を襲い、体が震え吐き気さえ覚える。
 手で口元をおさえ呼吸を整えてから怒りの言葉を発しようとした。が、口元をついたのは、
「いくら」
 という言葉だった。咎めるつもりが、怯える調子になっていた。
「五〇〇万ですけど」
「そんな大金……」
 深い溜息がでた。
「とりあえず二〇〇万返済してもらいました。ご主人を責めないでください。会社をやっていると、急な資金繰りが必要になってくるんです。断っておきますが、これはぼくのほうから言い出したことです」
「わからない。どうして拓郎がわたしに話してくれないのか、わからない」
「男の一分というものじゃないでしょうか。夫として妻には弱みを見せたくない場合もあるのだと思います」
「ずいぶん古風なことをいうのね」
「すみません。でも、ご主人、ヤミ金融みたいなところで借りるしかないといっていたもので、それだったら三ヶ月で絶対に返済するという条件で貸しました」
「なんの担保もとらずに?」
「はい、ご主人の人間を信用したんです」
「随分、鷹揚で、お金持ちなのね」
 亜矢は強い皮肉をこめていった。
「開業資金にと貯めていたお金です」
「どうして、そんな大事なお金を貸したの?それが本当なら、あなたはバカよ」
 貸すほうも貸すほうだが、雅也から借りるほうも借りるほうである。妻であるわたしに黙っていたということは、拓郎の中に疚しい気分があったということだろう。
「バカよ」
 という言葉が亜矢の口から再びもれた。雅也ばかりでなく、拓郎にも向けた言葉であった。
「確かにバカかもしれない。もちろん、亜矢さんのご主人じゃなかったら、びた一文も貸さない。でも、拓郎さんのジャパン企画、亜矢さんが思っている以上に経営が悪いみたいです。ここだけの話にして欲しいんだけど、拓郎さんが今、かかわっている編集プロダクション、じつはぼくの大学時代の友人がからんでいるんだ」
「……」
「ジョイント・ビジネスなんで、拓郎さんの会社がつぶれると相手も困る」
「それじゃ、拓郎が出雲くんに仕事を紹介してもらったってこと?」
「早くいってしまえば……」
 亜矢は思わず手で顔をおおった。泣きたくなるのをこらえ、
「それはいつのこと?正確な日をおっしゃって?」
 もし、横浜にいったあの日のあとであったら、許せないと亜矢は思った。
「今月の一〇日です」
 と雅也はいった。あの日の二日前であった。しかし、それで安堵できるものではない。胸のあたりに無数の虫がはいまわっているような不快な気分がわいてくる。
「人をバカにするのも、いい加減にしてよ」
 亜矢はそこまでいうのが精一杯だった。さらに声を発しようとしたのだが、体が小刻みに震え、呼気がつまり、声にならなかった。結局、あふれ出たのは涙の塊だった。雅也が慰めるようにいった。
「じつは、三年ほど前、ぼくは田園都市線の電車のなかで亜矢さんを見かけた」
「……」
「亜矢さんだとわかったとき、たまらない気持ちになった……懐かしいというより、なんだか大事な忘れ物をして生きてきてしまったような気がしたんです。カミサンが一緒だったもので、ただ駒沢大学の駅で降りる亜矢さんの後ろ姿を見送るだけだった」
「……」
「高校のとき、横浜にいったあとだけど、ぼく、小田原の亜矢さんの家に何度かいっている。でも、お父さんに、娘にまとわりつかないでくれってしかられて。それでも諦めきれなくて、何度か手紙も出しました」
「受け取っていない、手紙なんてわ」
「多分、お父さんのとこで止められてしまったんだと思う」
 一層強い悲しみが体の芯からわいてくる。
「亜矢さんとは、ぼく、そういう運命の星の下にあるんだと思って忘れることにしたんだ。でも、結婚して子供ができてからも、忘れられない……ヘンなヤツと思われるかもしれませんけど、ほんとうです」
「……」
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「夢の中にも亜矢さんが何度も出てきました。じつはつい最近も出てきた……占いで観てもらったところ、亜矢さんとは来世で結ばれるけど、努力次第で現世でもなんとかなるって。で、高校の同窓会名簿で調べて、亜矢さんの家までいきました」
「……」
「亜矢さんが今どんな生活をしているのか、知りたくて。もし亜矢さんが不幸であったら、僭越だけど、ぼくが手をさしのべることも出来るのではないかと。ようやく亜矢さんの家を探し当てました。入り口で迷っていたとき、ステッキをもった白髪のおじいさんが出てきて、亜矢さんの小田原のお父さんと同じことをいったのです」
「同じこと……」
「アレにまとわりつかないでくれって」
「……」
「アレって、亜矢さんのことだと直感しました。おじいさんが目で促すように中庭のほうを見た……そこに亜矢さんがいて、鳩にエサをやっていた……」
「……」
「信じてくれないかもしれないが、事実です。あれはご主人のお父さんだったんだね。ぼくは黙って立ち去った。お父さんは認知症のようだけど、ある感覚は異常に鋭くなっているんじゃないかな」
 雅也の話は出来すぎている。辻褄あわせの作り話だ。
 亜矢は雅也の言葉の裏にあるものを読み取ろうと目を凝らした。雅也は目を合わせず淡々と続けた。
「それから間もなくご主人と偶然出会って、カミサンの相手にっていわれたとき、これはカミサマが引き合わせてくれたんだと思った」
「どうして、今まで黙っていたの」
「このあいだ亜矢さんと横浜にいったとき、本当のことを話してしまおうと何度思ったかしれない。すべてを捨てて亜矢さんと一緒にって」
「出雲くん、いいのよ、わたしを慰めるための、お伽話は結構」
「お伽話じゃない。事実だ。ぼくは横浜の夜を決して忘れない。ぼくの生涯の思い出として大事にしていく」
「いまさら空々しいこといわないでちょうだい。あなた、奥さんと離婚してるというのも、嘘なのね?」
「いや、それは本当です。ぼくの負債が彼女にかぶるのをさけたいと思って、離婚の手続きをしたんだ」
「そう、愛妻家なのね」
 皮肉をこめた調子でいい、さらに刃を突きつける気分で畳みかけるようにいった。
「あなた、奥さんを捨てられますか」
「……」
「子供を捨てられますか」
 雅也は黙りこんでしまった。やがて小声でこういった。
「亜矢さんは、どうなのかな。ご主人や子供や、あのハウスを捨てられますか」
「捨てられるわよ。真実の愛のためなら、旦那でも子供でも、家でもなんでも、かなぐり捨てる。それが愛ってものよ」
 啖呵をはくようにいって亜矢は席を立った。

by katorishu | 2010-02-21 00:13 | 連載小説
大人の童話 メロドラマ その16
 日曜日、拓郎はずっと睡眠不足が続いているようで、昼近くまで客間で寝ていた。
 この日、一郎はサッカーの試合があり、一方、恵美は英語の検定試験があるといい、二人とも早めに家をでていった。すでに亜矢の体調は回復しており、今日こそ拓郎に対決するのだと覚悟を決めていた。
 作治の食事をつくりリビングの掃除をしていると、拓郎がはいってきた。紺のジャケットを着て外出する様子だった。
「あなた、今日、休みじゃなかったの」
「うん。仕事じゃないんだけど、ちょっと野暮用で」
 亜矢はじっと拓郎の目を見て、
「どなたに会うの?」
b0028235_14478100.jpg「誰だっていいだろ」
「よくないわよ。ちょっと、あなたに話があるの」
「悪いけど、あとにしてくれないか」
 拓郎は腕時計を見て、せわしそうにリビングを出ていった。
 川上理恵のマンションにいくのではないか。そう思うと疑惑が黒い雲のようにふくらんで目の前にかぶさってくる。
 とっさに亜矢は毛糸の帽子を目深にかぶり、普段着にコートを羽織って玄関を出た。駒沢大学駅まで徒歩一〇分ほどの距離を、亜矢は見え隠れについていった。探偵でもないのに昨日に続き二日連続の尾行である。
 拓郎はやや思案気にうつむき勝ちに歩いていく。玉川通りにでて、東京三菱銀行の前の入り口から地下道におりた。
 拓也は田園都市線の中程の車両に乗った。亜矢とは一〇メートルほどの距離をおいて立ち、さりげなく観察する視線を向けた。河上理恵のアパートのある本郷にいくのであったら、表参道までいって銀座線からさらに丸の内線に乗り継ぐか、永田町駅までいって丸の内線に乗り換えるかである。
 ところが、拓也は三軒茶屋駅の隣の池尻大橋駅で降りた。改札口を左におれ、階段をのぼった。つきあたりがオレンジポートという、中二階のちょっとした屋内の広場になっていて、カフェや本屋、文房具店などがはいっている。
 拓也は右手のカフェにはいっていった。オープン・カフェのようになっていて、広場に張り出した一角でコーヒーやビール類を飲めるのだった。
 亜矢はゆっくりと近づき、階段脇のガラス窓越しに中をうかがった。広場にはりだした一角のテーブル席に拓郎は向かった。川上理恵がこんなところまでやってきたのか。思いかけ、亜矢は頭が混乱した。うろたえて、思わず、
「出雲くん……」
 という声が出そうになった。拓郎が坐った椅子の向こうに、あの出雲雅也に似た男が坐っていたのである。いや、似た男ではなくまさに雅也その人だった。
 どういうことなのか。
 偶然?奇遇?
 ちがう。
 どう見ても、二人は互いに待ち合わせをした者同士の姿勢である。非現実な光景に接しているようだが、現実である。体を動かそうとするのだが、金縛りにあったようで動かない。全身を何かにぶつけるように震わせると、呪縛がとけた。二人に顔を見られないように注意しながら、そろそろと動き、本屋の本棚の影に身をすべりこませた。
 気をとりなおし、入り口付近の雑誌のコーナーでファッション雑誌を手にとり立ち読みをするふりをして、二人を盗み見た。拓郎が一人で何かしゃべり、雅也は聞き役のようで、何度もうなずきをかえす。やがて、拓郎がジャケットの内ポケットからなにか大きめの封筒をだし、拓郎に差し出した。
 なにがはいっているのだろう。お金では……と思った。
 そうだとしたら、なぜ?
 なんのために?
 もしかして、横浜での出来事をタネに、雅也が拓郎を脅迫しているのではないのか。しかし、あの雅也がそんなことをするであろうか。ますます混乱の度が増してくる。二人の前に飛びだして詰問するべきかどうか、激しく迷った。が、体が凝固してしまって動かない。
 二〇分ほどして、拓郎と雅也は立ち上がった。
「それじゃ、どうも、いろいろと、お世話になりました」
「いや、こちらこそ」
 そんな会話を亜矢は背中で聞いた。コートの襟を立て、ゆっくりと振り返った。二人は玉川通りに至る階段をのぼっていく。亜矢は尾行をつづけた。妖しい気分が体の芯からわきあがり、手や足の隅々にまで伝わっていくようだ。今、ハンドバッグにナイフかなにかが入っていたら、確実にそれを使ってしまうにちがいない。
 歩道橋の下で拓郎が走ってきたタクシーをつかまえて乗った。雅也は見送る姿勢で深く丁寧に頭をさげた。
 雅也が拓郎を「脅迫」したのだとしたら、態度振る舞いがおかしい。逆であるはずだ。一層不可解のものが募り、風景が歪んで見え始めた。タクシーが走り出した。亜矢は雅也の背後からしのびよるように近づいた。肉食獣が獲物に飛びかかる寸前の姿勢になっている、と思った。呼吸を整えてからいった。
「出雲くん」
 雅也の肩がびくっと震えた。ゆっくりと振り返った。
「ちょっと、話しましょう」
 亜矢は有無をいわせず雅也の腕をとるようにして、先ほどのカフェに連れ戻した。

by katorishu | 2010-02-19 14:48 | 連載小説
大人の童話 メロドラマ その15
 三月末の金曜日、午後の二時から「児童心理学」の講義があるのだが、雅也のことで気持ちが落ち着かず記憶の乱れが生じたのか、講義の時間を一時間近くまちがえてしまった。 なんだか自分の拠って立つ基盤が崩れていきそうで亜矢は怖くなり、SOSの意味をこめて映子の携帯にに電話をかけた。
「じつは私も亜矢に電話しようと思ってたところ。今渋谷なんだけど会いましょうか」
 映子は弾んだ声でいった。
 三月の末にしては汗ばむような暖かい日であった。ガラス張りのコーヒー店で、外を行き交う人々を見渡せる。映子はカルチャー・センターの文学講座で知り合った六〇歳の男と、もっか恋愛中だと嬉々として語った。b0028235_20514572.jpg
「年齢より一〇歳若いのよ。都庁のお役人だけど、定年でいっさい仕事をやめて趣味に生きるんだって。奥さんは五年前、病気でなくなっているの。その奥さんに、わたしが似ているんですって。趣味が広くて、資産家みたい。結婚しようなんて迫ってこないし、面倒じゃなくていい。アッチのようも、ばりばりの現役。一晩で二回もオーケーなの」
 そういうことをおおっぴらに語れる映子の屈託のなさ、敢えていえばおめでたさが、羨ましいと亜矢は思った。子供がいないことも、映子の気軽さを助長させているようだ。
「ご主人に悪いと思わないの?」
「べつに。結婚して二二年たつけど、一緒に住んだの半分もないもの。いまは札幌に単身赴任だし、彼は彼で適当にやってるんじゃないのかしら。人生は短いんだし、せいぜい楽しまなくちゃ」
 映子と別れたあと、デパートにでも寄っていこうと道玄坂のほうに歩きはじめたときだった。道路の向こう側を歩いている人物に目がいった。ラフな黒いブルゾン姿で、背筋がすっと伸びている。五分刈りに彫りの深い横顔。歩幅も大きめだった。
 出雲雅也ではないのか。
 亜矢は立ち止まり目を凝らした。まちがいなかった。こんな時間、どこへ行くのだろう。気がつくと亜矢はあとをつけていた。
 雅也は宇田川町の交番横を歩き、NHKのほうに歩いていく。周囲の店や街頭の有線から流れる音楽がうるさく、耳が痛い。尾行することに亜矢は後ろめたいものを覚えたが、雅也がどこへ行き、誰に会うのか確かめないと気がすまなくなっていた。信号のところで雅也は右に曲がった。そこからゆるい坂になっており、パルコのほうに伸びている。雅也は脇目もふらず確乎とした目的をもった人のように歩いていく。辺り一帯、聴覚が鈍磨した者に聞かせるような過剰な音量の音楽があふれ、太腿をさらした恵美ほどの年齢の女の子が熱帯の鳥のようなキーキー声を発しながら跳梁跋扈している。この界隈に職人風の雅也は似合わない。一体、どこへ行くつもりなのか。坂を二〇メートルほどいったときである。
「パパ」
 という声が空気を震わせた。雅也の脚がとまった。右手の路地から一〇歳前後のジーンズにセーター姿の少年が二人して飛び出し、何か叫びながらジャンプして雅也に飛びついたのだ。両側から雅也の腕にぶらさがるようにして、キャッキャッと声をたて明るく笑っている。
 あとから、小太りの女がゆっくりと雅也に近づいた。雅也の「元妻」にちがいなかった。丸顔でボブカットの頭をしており、年の頃三〇の半ばであろうか、目がくりくり動き愛嬌のある顔をしていた。彼女は雅也に近づくと、すっとブルゾンの襟についたゴミをとった。ごく自然な仕草だった。
 それから、雅也を中心にして四人は肩をよせあうように坂の上に向かって歩き出した。雅也の隣に「元妻」がならび、両脇を二人の男の子がかためる形だった。どこから見ても仲の良いファミリーそのもので、他人が割ってはいる余地などはない。
 亜矢はあり得ない光景に接している気がした。とっさにこれは夢のなかの出来事である、と自分自身に言い聞かせた。夢ならさめる。さめて欲しい。しかし、さめる気配もなく、四人は横一列に並んで歩いていく。幸せな人の歩みは早く、幸せでない人の歩みは遅い。亜矢は早く歩こうとするのだが、足がうまく動いてくれない。
 四人との距離を縮めようと歩幅を大きくしようとしたとき、不意に腿のあたりにしびれがきた。同時に目に映る風景が陰画フィルムのように白茶けて見えてきた。胸の動悸が激しくなり額に冷や汗がにじんだ。負けずに一歩を踏み出そうとしたとき、頭の芯に鈍痛がわいた。このまま、頭がおかしくなってしまうのではないか。立っていることに耐えられなくなった。意識が薄れ始めたとき、右手から誰かが支えてくれた。
「ダイジョブデスカ」
 北欧系の白い肌に鼻の高い長髪の男で、年のころ四〇前後であろうか、すでに亜矢の肩を優しく抱くような姿勢になっていた。男の背景は動きが止まり書き割りの絵のように見えていた。
「ありがとう」
 というつもりが、
「タスケテクダサイ」
 という言葉になっていた。一気に体が男のほうに傾いた。そこから先の記憶が薄れている。気づいたとき、すでに黄昏れていて、亜矢は池のある公園のベンチに一人座っていた。隣に座っている紺絣の着物を着た白髪の老女に、ここがどこであるかを聞くと、老女は池の面を見つめたまま、
「松濤公園です」
 といった。妙にしわがれた声だった。水面が乱れスーッと黒い影が走った。周囲が暗くなったが、ベンチのあたりには外灯の光があたっていて比較的明るかった。白髪の老女がこっちを向いた。目も鼻も口もないのっぺらぼーの女だった。亜矢は叫び声をあげようとするのだが、声が喉でくぐもってでてこない。身体的な恐怖を覚え、何かに全身をぶつけた。どこか遠くから声が聞こえた。
「あ、気がついた」
 ゆっくりと視界が晴れてきた。顔が見えた。女だった。老女ではなく若く艶のある肌をしていた。
「恵美……」
「ママ、だいじょうぶ」
 恵美が心配そうに覗きこんでいた。どうやら、病院のベッドのようだった。

 恵美の説明によると、亜矢は恵比寿駅近くで倒れ、救急車で病院に運び込まれたのだという。恵比寿は山手線の駅であり、渋谷駅の隣の駅になる。亜矢にはそこまで歩いた記憶がなかった。もっていたハンドバッグは近くの公園で発見されたが、四万円ほどの現金が入っていた財布はなくなっていた。
 CTスキャンをとり、MRI(磁気共鳴装置)の検査をしたが、特に異常はないということであった。抗生物資の投与をつづけたものの三九度前後の高熱が続いた。二日病院に泊まり、駒沢ハウスにもどった。
 恵美に聞いた範囲では、その間、出雲雅也は駒沢ハウスにもどらなかったようだ。夫の拓郎は一度帰宅し、
「だいじょうぶか」
 と声をかけてくれたが、重要な仕事で飛騨高山にいく必要があるといって、四輪駆動車で出て行った。
 三日目の朝、ようやくベッドから起き上がることができた。しかし、頭の中が白濁していて思考がまとまらず、断片的な光景が浮き沈みしていた。光景の芯の部分に出雲雅也の顔や歩く姿態があった。雅也と家族を追っていこうとしてから病院にはいるまでの記憶を、どうしてもとりもどすことができなかった。
 熱がさがったので、階下のリビングにおりていった。絨毯が濡れているので、一郎にきくと、
「おじいちゃんがもらしてしまったみたい」
 といった。台所から雑巾をもってきて亜矢はお漏らしのアトシマツをした。このごろ義父は頻繁にトイレにいくので、尿の濃度が薄まっているはずであったが、鼻につんとくる不快な臭気は変わらなかった。そのことが妙に腹立たしかった。義父の作治がはいってきた。
「なにやってんですか、もう、いい年してエ」
 思わず罵倒する声が亜矢の口からほとばしってしまった。作治は最初ひどく怯えソファの背を手でつかみ防御の姿勢をとっていたが、テレビの横にあった木刀を手にとると、両手にかまえて亜矢に斬りかかる姿勢になった。作治の顔がグンと拡大され拓郎の顔に重なって見えてきた。負けない。負けたら負け、と思った。作治が一歩踏み出した。とっさに亜矢はテーブルの上の厚いガラスの灰皿をつかんでいた。もしそのとき、娘の恵美がはいってこなかったら、どんな惨事が起きていたかわからない。
「ちょっとオ、二人とも、なにやってんのオ」
 恵美の悲鳴に似た声で、作治はハッとしたように動きをとめた。そのままの姿勢で凝固してしまったようだった。恵美は静かに木刀を作治の手からとった。作治は途端に腑抜けたような顔になった。亜矢は床にへたりこんでしまった。フローリングの床が大きく波を打つような目眩を覚えた。
 今、我が家は土台がシロアリの波状攻撃を受けたように根底から壊れはじめている……。

(人形制作:箱石潤子)
by katorishu | 2010-02-18 20:53 | 連載小説
大人の童話 メロドラマ その14

 南国から早くも桜の開花予報が届く季節になった。
 雅也とは、その後も昼間なんどか三軒茶屋でコーヒーを飲んだりしたものの、あたりさわりのない新聞やテレビの話題などで三十分ほど時間をつぶしただけだった。雅也のほうに、亜矢と相対する時間をつくろうというより、そういう時間を避けようとしている気配が感じ取れた。そうなると、不思議なもので亜矢としては相対する時間をもっと頻繁に、しかも長くしたい。
 外食だと栄養が偏るからと、手作りのちらし寿司やまぜご飯を雅也の部屋にもっていったりした。雅也は亜矢のこころづかいに感謝をしたものの、依然として亜矢との距離を積極的に縮めようとはしなかった。
 昼食を渋谷の駅前ビルにある鰻屋でとったときである。亜矢が雅也の曖昧な態度にちょっと不満をもらすと、雅也は、
b0028235_1551839.jpg 「仕事に全力をつくすんで、終わると、もうくたくたなんだ」
 弁解気味にいった。
「出雲くん、わたしのこと、嫌い?」
 亜矢は率直に聞いてみた。
「嫌いだったら、こうやってつきあってませんよ。ただ話をしているだけで面白い人がいるけど、亜矢さんはぼくにとって、そういう人です」
「もしかして、他に好きなひといるのね?」
「いません」
「嘘おっしゃい。ねえ、正直にいっていいのよ。わたしは平気だから」
「ほんとに、いないよ」
「でも、なんか、おかしい」
「……」
「ねえ、出雲くん、わたしのこと、どう思っている?」
「いい先輩だと思っています」
「やめてよ、先輩なんて」
「正直にいうと、ぼくは、当分一人でいたいと思っているんです」
「そう。この間のことは、戯れだったのか……」
「戯れなんて」
 妙に、ぎこちない会話になってしまった。
「出雲くん、うちのダンナのことなんか気にしなくていいのよ。ダンナは適当に外で遊んでいるんだから」
 沈黙を破るように亜矢がいった。すると、雅也は一層真剣な顔で、
「亜矢さん、じつをいえば、ぼくは……ぼくが怖い」
「どういうこと?」
 雅也は亜矢から視線をそらし、どこか遠くを見る表情を浮かべた。
「ぼくは、亜矢さんが思っているような人じゃあないんです」
「じゃあ、どういう人なの」
 亜矢は言葉を切り込んだ。しかし、雅也は答えなかった。
 鰻屋を出たあと雅也は蕎麦打ちの講習会に参加するといって、去っていった。人混みのなかに消えていく後ろ姿を見つめながら、亜矢のなかに生まれた曙光が消えていくような気がした。
 あの横浜の一夜は一体なんであったのかと思った。酒の酔いがもたらした弾みにすぎなかったというのだろうか。弾みであるとしたら、思い出にもならないし、弾みで転んで膝小僧を傷つけたことと、どれほどのちがいがあるのだろう。なにか取り返しのつかない過誤を犯してしまったような気がした。
 拓郎は上海出張後、仕事が忙しいようで、家には寝に帰ってくるだけだ。ただ、以前のように事務所に泊まってくることはなくなった。そして、時間があると台所の洗い物などを手伝ったり、妙に亜矢に優しくなったのである。
 拓郎の態度の変化は、なにを意味するのか。
 もしかして探偵事務所に素行の調査を頼んだことに気がついたのだろうか。
 あるいは、雅也とのことを勘づいたのだろうか。

 中庭の池の脇に植えた二本の桜が花をつけはじめた。すでに七分咲きといっていいほどで、この時期の桜が亜矢としては好きだった。庭にでて、三メートルほどの高さに育った桜の木を眺めた。桜には青空より曇り空がよく似合う。
 草を踏みしめる音がした。振り返ると思いがけず雅也が立っていた。グレイのジャケット姿で、やや緊張した表情を浮かべ、こめかみに青筋が浮いていた。
「突然なんですけど、亜矢さん、話があります」
 亜矢は緊張して見守った。出雲くんが飛ぼうといってくれたら、わたしは飛んでもいいのよ。わたしにもまだ翼はあるの。
「なにかしら」
緊張を隠し、さりげなさを装って亜矢はきいた。
「じつは、ぼく」
 雅也は言葉を切り、次の言葉を探すように桜の花を見上げた。横側の輪郭が幾何学的な美を描き、相変わらずきれいだと亜矢は思った。雅也はそのままの姿勢で、小さくいった。
「自分は、名古屋にいくことになりました」
 最初、亜矢は真意がよく理解できなかった。雅也が「自分」などという言い方をしたのも初めてだった。
「名古屋って、出張なの?」
「いえ。向こうで、蕎麦屋を開こうと思って」
「蕎麦屋を経営するってこと?」
「この際だから、決断したんだ」
 決断したから、どうだというのだろう。このわたしも一緒にというつもりなのだろうか。亜矢の淡い期待を打ち砕くように雅也の唇が震えた。
「今月一杯で、ここを出ようと思う。短い間だったけど、お世話になりました」
 それはないんじゃないの、出雲くん。亜矢は肩すかしをくったようで、身の置き場がない。体の芯に焦燥のようなものが生まれ急激に育ってくる。
「もう、決めたのね」
 狼狽を隠すために、いわずもがなのことを亜矢はいった。
「はい、男の勝負だと思ったもんで」
 案外、古風なことをいうのね、出雲くん。わたしは、どうしたらいい?どうして欲しい?
すでにこの勝負は負けだ、と思いながら、なおも訴えるように雅也を見た。雅也は目をそらして、どもりがちにこういった。
「ぼくは、ぼくは……こ、後悔していません」
 当たり前だろ。
 後悔されたら、わたしの立つ瀬がなくなるじゃないの。
「それじゃ、仕事がありますので。失礼します」
 雅也は亜矢の機先を制するように頭をさげ、そのままゆっくりと去っていった。
 亜矢は茫然とした面持ちで雅也の幅の広い肩を見守った。屋根にのぼったのはいいが、突然、梯子をはずされた気分だった。

by katorishu | 2010-02-17 15:06 | 連載小説
 大人の童話 メロドラマ その13
 中庭の沈丁花が小さく可憐な白い花をつけはじめた。先日、青黄色い芽をだした紫陽花が、いつの間にか一〇センチほどの高さに伸びていた。
 中庭にでて草花や池に目をうつしていきながら、亜矢は横浜での一日の前と後とでは、自分のなかで微妙な変化がおきていることを感じずにはいられなかった。日ごろ見慣れた中庭の一本一本の木々の輪郭が鮮やかに浮き立ち、池の泥水が清水に思えてくる。鬱屈さはどこかにいき、空のかなたに曙光が見えるような気分でもあった。b0028235_21103995.jpg
 ただ、あれ以降、出雲雅也と顔をあわせることは、すくなかった。雅也は遅く帰ってきて、案外早くでていき、ときに帰宅しないこともある。
 在室しているときでも、他の入居者とちがってカーテンがしまっていることが多かった。疲れて眠っていると思うと、チャイムを押したり電話をかけたりするのも、はばかられた。雅也がすこしでも厭だと思うことは、差し控えたい気持ちが働き、行動にブレーキがかかってしまう。
 考えてみれば、横浜のホテルで体をあわせたものの、現在の雅也の生活についてはほとんど話をする時間もなかった。彼の過去についてはマドラスというバーで聞いたけれど、奥さんと別れた理由や、二人の子供のことなど雅也はほとんど何も話さなかった。
 結婚して一五年というし、別れるのはそう簡単ではなかったはずである。
 離婚に限らず男女関係が破綻した場合、ほとんどの人は相手を悪くいうが、雅也はそういうことはなかった。亜矢には、それも好ましいことで、あらためて出雲雅也という人間に典雅なものを覚える。ただ、依然として、大家と借家人の関係であることに変わりはなかった。
 一晩だけの弾みで結びついたような関係があるが、雅也との間はそんなヤワで場当たり的なものではない。亜矢はそう思いたかった。この関係を、丁寧に、大事に、しかも密やかに育てていきたい。雅也との関係が深まれば、当然の結果として、拓郎との関係がギクシャクすることになる。
 そのときは、どうするか。
 今は敢えて考えることを、やめた。
 川上理恵とのことで拓郎に対して嫌悪は募るものの、不思議と激しい憎悪にまでは至っていない。こちらも「秘密」をもったことで、精神のバランスがとれるのかもしれない。

 このところ、亜矢は忙しくなっていた。
 四月半ばに児童文学会の学会があり、亜矢は研究成果を発表することになっていた。城島教授がすすめてくれたのだが、その準備をするほか、児童雑誌から連載のエッセーを頼まれていた。幼稚園などで開かれる講演の仕事も増えてきていた。
 一方で、義父の作治の世話があった。惚けの症状は時折でるものの、小康をたもっており、まだ手を焼くようにはなっていなかった。しかし、早晩、惚けが進めば、家族はふりまわされ夜もおちおち眠れなくなる。
 静岡に住む女子大時代の友人が、自家製だという日本茶を送ってきた。雅也にお裾分けしようと思った。
 亜矢の子供のころ、剣道場を経営していた小田原の実家では、人からなにかをもらったり、五目寿司などのご馳走をつくったりすると、隣家にお裾分けをしたものだった。
 東京に出てからそんな習慣を忘れていたが、思い出した。
 玄関からいったん外にでて、中庭を横切り、駒沢ハウスの入り口近くまできて、気持ちをととのえ、雅也の部屋のドア・チャイムを押そうとすると、ドアが開き、カーディガンを羽織った雅也が顔をだした。
「出雲くん、お出かけ?」
「ええ、ちょっと」
 横浜での出来事のあと、一度外で会ったが、軽くビールを飲んだだけであった。昼間の明るい光のなかで、面と向いあうのは初めてだった。亜矢がお裾分けだといって日本茶の袋をさしだすと、
「これはどうも」
 雅也は恥ずかしそうにいった。
「洗濯物なんか遠慮なくだしてね。洗ってあげるから」
「亜矢さん、いいですよ。気をつかわないでください」
「いいの。わたしが、そうしたいんだから」
 亜矢は雅也の言葉を押し戻すようにいった。

 予定より二日ほど遅れて、拓郎が上海から帰ってきた。
 雅也のことがなかったら、拓郎の顔を見るなり罵倒の言葉が噴出していたにちがいない。
「疲れたでしょう」
 玄関に入ってきた拓郎の日焼けした顔に、そんな労いの言葉が口をついた。いってから亜矢自身驚いた。拓郎は仕事がうまくいったようで、ひどく上機嫌で、
「これからは中国だよ。なにしろ日本の十数倍の巨大な人口をかかえてるんだから。ま、なんとか足がかりはつかめた」
 などといった。甘ったるく歯にからみつく中国菓子やニンジンエキスなどをお土産として買ってきた。事務所の人や関係者に配るつもりだった。学校から帰った恵美にもこういった。
「おい、恵美、恵美は絶対に上海の大学に留学したほうがい」
 亜矢は拓郎と目があうのを意識的にさけ、あたりさわりのない言葉以外、口にしなかった。拓郎の口ぶりから察して上海には、あの川上理恵という女は同行していないようだった。それはいいのだが、拓郎の腹のあたりが脂肪ででっぷりした体躯を前にすると、どうしてもそれとは対照的に引き締まった体の出雲雅也のことが思い出されてしまう。拓郎に紅茶をいれながら、不意に横浜での雅也のことが思い出され、手が震えた。心の乱れを覚られないよう、亜矢は講義の準備があるといって、二階の「書斎」にこもった。
 寝室の一角を仕切って、亜矢の「書斎」にしているのだった。パソコンや本棚、それに資料をつめこんだビニール・ケースなどをおいてある。鍵のついた机の引き出しには、調査報告書をいれたままだった。
 机のスタンドをつけ、亜矢は探偵事務所の作成した報告書を取り出し、あらためて眺めた。川上理恵と拓郎の関係は半年ほど続いているようだ。読み返すと、白々しく、索漠としたものが浮き上がってくる。

 今は出雲雅也の存在が救いだった。雅也がいなかったら、こんなにも平静でいられるはずはなかった。イズモクン。きみが頼りなんだからね。きみしかいなんいんだからね。亜矢はパソコンを起動し、横浜で拓郎が撮ったデジタル・カメラの映像を呼び出した。
 あのあと、雅也が映像の添付ファイルを送ってきたのである。雅也はパソコンをもっていないので、街のネットカフェから送ったとのことだった。亜矢のポーズをつけた写真のほか、亜矢が撮影した雅也の立ち姿が一枚あった。中華饅頭を売っている店の前に背筋を伸ばして立っている姿で、高校のテニス部時代を思い起こさせる凛々しいものが残っていた。
 亜矢はパソコン画面に顔を近づけ雅也の凛々しい顔に唇をあてた。そうしながら、一体わたしは何をやっているのかと思ったが、そんな昔の女学生のやるようなことこそ雅也との関係では相応しい行為と思えた。
 それにしても――。
 雅也との間にあった壁が崩れると、その後は一気に関係がすすんでしまうのでは……と期待とも危惧ともつかぬ気持ちで過ごしていたのだが、そういうことは起こっていない。写真だって、直接会って手渡せばいいのに、あまり得意ではないはずのインターネットを経由して送ったりする。どうも、出雲雅也らしくないのだった。
 あれから、一度、亜矢は田舎庵にいき、雅也の仕事を終わるのを待って、渋谷に飲みに誘った。
「いいですよ」
 と雅也は気楽に応じたものの、酒を飲み雑談をしただけで、亜矢をホテルに誘うそぶりを見せなかった。それどころかキスを求めようともしなかった。
 この人のなかには、なにか渇きといったものが欠けている。
 それとも、わたしは、ほんの戯れ、お慰みにつかわれたのであろうか。

(人形制作:箱石潤子)
by katorishu | 2010-02-16 21:14 | 連載小説
 大人の童話 メロドラマ その12

 分厚い木でつくられた細長いカウンター・バーだった。茶色のチョッキに蝶ネクタイをした六〇過ぎと思われるバーテンが、にこやかな微笑で迎えてくれた。五、六人の客がいたが、全員が外国人で、英語とフランス語がとびかっていた。ふと、マルセーユかなにかの、港町の船員が集まるバーにいるような気がした。亜矢はマティニーを注文した。
「ぼくも、同じもの」
 と雅也はバーテンにいった。二人で乾杯した。一口飲むと、体内に多幸感とでもいうべきものが安堵のようにひろがっていく。ブルーチーズの味も申し分なかった。お膳立ては完璧であり、会話が一層弾むかと亜矢は期待したのだが、雅也の口数が、なぜか少なくなっていた。
「出雲くん、どうしたの?」
「いや、なんでも」
 おそらくは、別れた妻子のことに思いをはせているのではないのか。亜矢の脳裏を上海に出張でいっている拓郎のことがかすめた。上海まで川上理恵という女をともなっていっているのではないのか。b0028235_5501116.jpg
「亜矢さん」
 雅也が注意を喚起するようにいった。
「なに?」
「亜矢さんは、偶然てこと、信じますか」
「むずかしい質問ね」
「最近、ぼくはこの世のなにもかもが偶然と思えるんです。商売がうまくいくのも偶然、男女の恋が成就するのも偶然」
「そんなふうにいってしまったら、身も蓋もなくなるわね」
「でも、人間存在の本質は、そういうことじゃないかな」
「出雲くん、ちょっとなげやりになってない?」
 それには答えず、雅也はマイルドセブンを取り出し銀製のライターで火をつけた。それから煙をゆっくりと吐き出しながら吐息のようにいった。
「嘘なんですよ」
「え?」
「ぼくたち、こうしていることが、嘘なんですよ。夢を見ているのかもしれない」
「夢……」
「そう。夢の中では、常識の壁がないから」
 暗示である。つまり現世の常識を超えて、純粋な男と女として夢のなかに遊ぶといいたいのか。亜矢は雅也の言葉を求愛の言葉と受け取ることにした。口にしたマティニーには適度の辛さがあった。すでに夢の入り口に立っているのだった。二杯目はドライ・ジンにした。そして三杯目に、ハーバーライトというこの店独特のマリン・ブルーのカクテルを飲み干した。急に酔いがまわってきた。雅也はブルゴーニュ産の赤ワインをボトルで頼んだ。
 雅也の舌が急になめらかになった。亜矢が自分の過去に触れる話をしたことをうけて、雅也はいった。
「ぼくの親父は、じつは船乗りだったんだ。でも、ぼくが八歳のとき自殺してしまって」
「そうだったの」
 三〇年ほど前、雅也は山下公園で、船乗りになりたいようなことを話していたが、そんな背景があったのか。マドロスという名のバーが深い意味をもってくる。
「その後、おふくろは再婚したんだけど、新しく父親となった男が酒乱でね、毎晩のように暴力をふるって。おふくろは腕を骨折したこともある。おふくろは結局、離婚して新しい男と一緒になったんだけど、ぼくが邪魔だったのかな、あるとき、ぼくを捨てて出ていってしまった」
「出雲くん、高校のとき、まったくそんな感じしなかったけど」
「ぼく、自分の本当のことは隠して、気持ちとは別に行動できるんです」
 雅也はアルコールに強いようで、亜矢の倍のペースで飲んだのではないか。最初に酔ったのは亜矢のほうで、すでに呂律がまわらなくなってきた。
 店を出て歩き出そうとすると、地面が傾き波をうつようだった。つまずき、よろけた。すばやく雅也の手が伸び、支えてくれた。力強くたくましい手に獣の匂いを感じた。
「出雲くんて、優しいのね」
 亜矢の手がのび雅也の首にからむようにまわった。自分の意志の制御をこえてひとりでに動いていくようだ。たくましい腕が亜矢の背中から腰におりてきた。唇もおりてきて、亜矢の唇に重なった。亜矢はファースト・キッスのときのように、夢中で舌をだし雅也の口腔にいれた。舌と舌をからみあわせながら滲出してくる液体をすすった。
 唇を離したとき、亜矢の口から吐息のような声がでた。
「どこか静かなところにいきましょ。いいわね」
テニス部の先輩の口調になっていた。
「はい」
 と雅也はいった。歩きながら、今、雅也とだったら、どこまでもいける。いってもいいと思った。地獄の果てだって、なんだっていい。現状をこわしてしまいたい。スクラップ・アンド・ビルト。破壊のあとに構築されるものに、全存在を賭けたい。足が半歩、地面から浮いている気分でもあった。
 プラタナスの木の下あたりで、雅也にもたれながら、亜矢は甘え声でいった。
「横浜グランドホテルにして」
 いってから、自分でない誰かが吐いた言葉のような気がした。一瞬、拓郎のことが脳裏をかすめたが、頭を強く振って断ち切った。

 広々としたツインのベッドルームだった。
 落ち着いた雰囲気で雅趣があった。見回しているうち、「駒沢ハウス」が思い出された。
あの家を建てるとき、設計者に、どんな雰囲気のものにしたいかと問われて、亜矢はこういったのである。
「たとえば、横浜グランドホテルってあるでしょう。あの雰囲気が、わたしは好き」
 昔、小田原から両親と一緒に、横浜グランドホテルにいき、一階のロビーの横のパーラーで、アイスクリームを食べた。なぜ急に出向いたのか忘れたが、そのときの光景が記憶の底にあった。モダンでハイカラで、なにか新しく開けてくるものが、漂っていたという気がする。
 横浜グランドホテルは、終戦直後、アメリカのマッカーサー元帥が一時、定宿にしていたホテルだった。占領の初期、進駐軍の司令部がもうけられていた……と亜矢は聞いていた。
 窓の向こうに薄闇にかすむ山下公園がひろがり、背後に黒々とした海がたゆたっていた。 背後に、あえかな息を感じた。首を三〇度ほどまわすと、五センチほどの近さに出雲雅也の顔が揺れていた。
「雅也……」
 亜矢は初めて出雲雅也の名前を呼んだ。雅也は無言で手をのばし、亜矢の体を抱き寄せた。さらに、雅也の腕に力が加わったと思った瞬間、亜矢の体はふわっと宙に浮いていた。それからベッドに横たえられるまでの記憶がない。衣服をはぎとっていく雅也の手つきは優しかった。丁寧に、封筒から蒸気で記念切手をはがすときのように慎重に、思慮深く、はがしていく。
「亜矢さん……」
 雅也は許可を求めるようにいって、亜矢の乳房に唇をはわせた。さらに下腹部に、静かに、丁寧に、慈しむように、おりていく。亜矢の口から吐息のような声がもれた。雅也は無言で唇を這わせた。一瞬、くすぐったかったが、我慢をしていると深い快感につながっていく。拓郎との間では味わったことのない快感だった。亜矢の両手がのび雅也の胴から腰、背中、そして首から頭に触れていった。腹の周辺にポークハムのように脂肪がついている拓郎とはちがって、雅也には、たくましさと、しなやかさがあった。犬であったらシェパード、ポインター、シベリアン・ハスキー。獣のたくましさが、優しさを裏打ちしている。今、わたしは雅也をこの手でしっかり抱いているのだ。手応えがあった。嘘。夢。なんだっていい。この一瞬、一瞬が、貴重だと思った。堅くしまった尻に両手をあて、自分に強くひきよせた。律動がじょじょに快感を高めていく。拓郎とまじわったときとはまったく別種の快感が背筋をそそりたてるように貫いた。
 朝までこのままにしていたいと亜矢は思った。雅也の愛撫に身をまかせながら、亜矢は雅也の言葉を、まるで子守歌のように聞いた。やがて、すとんと落ちるように眠りがきた。
 目覚めたとき、出雲雅也の姿はなかった。
 ベッドとベッドの間に見えるデジタル時計は午前八時三五分をさしていた。サイドテーブルにホテルに備えつけのメモ用紙があり、そこにボールペンで雅也の文字が記されていた。

  『よく眠っているので起こしません。ぼくは、仕事で人と会う約束が
   あるので、お先に失礼します。素敵な夢を見ることができました。
   出雲雅也』

 亜矢は、なにか不思議なものを見るように、右肩あがりの特徴のある雅也の手書きの文字を見つめた。

by katorishu | 2010-02-14 05:51 | 連載小説
 大人の童話 メロドラマ その11

 雅也は白のタートルネックのシャツにグレイのジャケットを着て、渋谷駅のバスの発着場が見晴らせるカフェの窓際の席に座っていた。午後の一時丁度だった。
「天気予報じゃ、小雨だっていってたのに、はずれましたね」
 雅也はそういって白い歯を見せた。
「心がけがいいのよ、出雲くん」
「そういうことにしときますか」
 この日、亜矢は、大学の関係者のリクレーションにいくからと恵美にいい、おじいちゃんの面倒を見てくれるよう頼んだ。
「いいけど、お小遣いちょうだい」
 人の足下を見るように恵美はいった。いわれるまま亜矢は恵美の手に一万円札を置いた。「やったね、ママ、ダイスキイ」
b0028235_0275116.jpg 恵美の弾む声を聞きながら、亜矢は母親としてまったく誇れない行為であり、よほど雅也に電話をいれ断ろうかと思った。一方、ここで断ったら多分生涯の悔いとなって残るにちがいないと思い直した。たった一回しかない、かけがえのない人生ではないか。ここで本当に自分が心から思う方向に一歩を踏み出せるかどうか。それで自分の人生の価値が決まる。レールのように敷かれた軌道をはずれるのは怖いが、怖さを恐れていては幸せの果実は手にはいらない。幸せの果実などきっと幻想なのかもしれないが、ひとときでも幻想に酔っていたい。
 みなとみらい二一線に乗ると、自然の流れに沿うように渋谷から東横線経由で横浜の元町の中華街まで直通で四〇分足らずでいける。自然の流れにそって行き着く果てにあるものに自分の未来を賭ける。そこから何か新しい展望がひろがるのではないか。亜矢は車窓を流れる景色を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
 中華街は風水の思想に基づき、東を朝陽門、西を延平門、南を朱雀門、北を玄武門の四つの門で囲まれている。中国の地名をいれた幾筋もの小路の両側から中華料理の独特の匂いが漂ってくる。チャイナドレスの女性が何人も通り過ぎ、甲高い中国語の歌があふれており、亜矢は一瞬、天津かなにかの中国の街に踏み込んでしまったような気がした。
 関羽を祀ってある関亭廟の前で、ごく自然に亜矢のほうから雅也に腕をからませた。
「奥さんとも、こうやって歩いていた?」
「いや」
 と雅也はいった。腕をからませて歩いていると、これが「あり得た生活」「あり得べき生活」のような気がした。夫がいて二人の子供がいることを一瞬忘れた。忘れることにした。昼食は老正興菜館という落ち着いた雰囲気の店でとった。雅也によれば、中華街で初めて「排骨麺(はいこうめん)」を出した由緒ある店だという。食事のあと、ぶらぶら歩き、ポケット・ガイドブックを道案内に、まるで遠足にやってきた小学生のように、目を輝かせて見てまわった。
 ひごろ無口な雅也の口もよく弾んだ。
――雅也は小田原の城西高校卒業後、家庭の経済的事情で進学をあきらめ電気メーカーに就職したが、二年で退社。名古屋にあるG大学経済学部に入学し、卒業後は大阪の中堅商社に就職した。そして同じ会社で事務員をしていた女性と結婚し、大阪で家庭をもった。
「三年つとめたあと、大学の先輩のひきで、繊維の専門商社にはいったんだ。バンコクとシンガポールにそれぞれ三年ぐらい駐在したときが、晴れの舞台って感じだった。毎日がお祭りみたいだったけど、過ぎてしまうと、まるで夢を見ていたみたいだ」
「いい暮らしをなさってたのね?」
「東南アジアに駐在していた日本人は、ほとんど王侯貴族の暮らしだった。でも、所詮はつかの間の夢でね、会社も調子に乗りすぎて多角経営に失敗して、一年前、社員の半分が解雇。お粗末な話だ」
 元町からJRの石川駅を左手に見て、自然に足が山手の高台のほうに向かっていた。
「いろいろ、大変だったのね」
「え、まあ。亜矢さんなんか、順調そのものでしょう。羨ましくて目がくらくらするくらいだ」
「とんでもない。外から見ると、いいように見えるけど一歩内側にはいると、いろいろあるのよ。幸福に見えることと幸福であることとは別なの」
 すでに丘の上の外人墓地の辺りにきていた。日本のお寺の墓地とはちがって湿った雰囲気はなく、乾いて明るい空気が漂っていた。道路と柵の境に、なんという名なのか白い小さな花が咲いており、そこはかとない甘味な匂いを伝えてくる。薄曇りの天候であったが、その一角だけ陽光が燦々と降りそそいでいるような気がした。
 存在さえほとんど忘れていた出雲雅也と、再び横浜でこんなふうに一緒にいて、同じ空気をすい同じ匂いをかいでいることが、奇蹟のように思えた。人と人との関係が構築されることに必然性などありはしない。偶然、あるいは奇遇が、人と人とを呼び寄せ独特の空気を醸成するのである。もしかして、それはカミサマの意志なのかもしれない。
「まるでおのぼりさんね、私たちも」
 港が見える丘公園でさかんに写真を撮りあう人たちにまじって、デジカメの写真を撮りながら亜矢は陽気にいった。雅也のカメラにむかって、モデルのようにさまざまなポーズをとった。
 教会横の洒落たカフェでコーヒーを飲み雑談をしたあと、坂をゆっくりとくだり、そのまま山下公園まで歩いた。亜矢と雅也の歩く周辺はなぜか男女のカップルばかりで、そこだけスポットライトがあたっているようだった。
 なにか人智を超えたものが、二人を庇護してくれている。亜矢はそんなふうに思った。水の守護神、かもめの水兵さんの歌碑などを順に見ていった。さらにメリケン波止場とよばれた桟橋など、典型的なデートコースを歩いた。そんなお決まりのコースを歩くことで、時間を過去に過去に遡らせることができる。それが妙に嬉しいのだった。
 氷川丸の前にきたとき、三〇年近く前の時間が一気に逆流するようで年齢を忘れた。
「出雲くん、昔、二人でここにきたこと、覚えてる?」
「もちろん」
 いつの間にか、日が落ち海が赤紫色に染まりはじめていた。十数羽のカモメが夕日の残光をあびてときおりオレンジ色の輝きをみせていた。
 刻々と変化していく海を見ながら、亜矢はいった。
「あのあと、わたし、出雲くんにラブレターを書いたのよ」
 雅也はだまって海をみつめていた。沖には三〇年前のときのようにタンカーは航行していなかった。かわりに、ちいさな漁船が数隻、波をけたてて横切っていくところだった。亜矢は深く息をすいこみ、ゆっくりと吐き出すように、
「でも、出さなかった」
「どうして?」
「だって」
 と言葉を切ってから、亜矢は一気に、
「ファースト・キッスだったのよ、あれが」
「そう」
「そのことを手紙に書いたんだけど、恥ずかしくなって破いてしまったの。もし、あのとき、あのままラブレターを出雲くんに出してたら、状況は変わったかしら」
 雅也は海から視線を亜矢にもどした。
「さあ。昔のことだから」
「今は昔、か……」
 雅也は海のほうを見て、形の良い唇を震わせた。
「就職してからも、ぼくは亜矢さん、どうしてるかなって、ずっと気になってた」
 亜矢の胸のあたりにいがらっぽいものが、かゆみのように立ち上ってきた。海風で亜矢の髪が乱れ、雅也の肩のほうに流れた。雅也の太い指がのび亜矢の髪に触れた。亜矢は心臓がキュッとしまるような気がした。雅也は拓郎より一〇センチほど背が高い。甲斐のないこととは思いながら、どうしても拓郎と比較して考えてしまう。小太りな拓郎に対して、雅也は贅肉もなく、なによりストイックな印象を濃厚に漂わせていた。経済的には不遇であるが、かわりに拓郎などがとっくになくしてしまった求道心が残っている。
 磁力にひきつけられるように、亜矢の腕が雅也の腕に触れた。
 そのまま、腕をくみ、歩いた。ただ歩くことが、悲しいほど嬉しい。右に五十メートルほどいき、左折して百メートルほど歩いて右折したり……。どこをどう歩いたのかわからない。明るい路地をへて、暗い石畳の路地にはいり、再び大通りに出た。いつの間にか靄がかかって街全体が夢幻的に見えた。そこが横浜であることも、亜矢の意識から消え、どこか遠い外国の港町にきているような錯覚さえ覚える。
 黄昏が夜へとかわっていく時間だった。逢魔が時。黄昏。行き交う人々の顔に目や鼻がなく、のっぺりしたものであっても、驚きはしない。海の方角から腹にひびくような汽笛が聞こえた。
「喉、かわいたでしょう」
 と雅也が亜矢の顔をのぞきこむようにしていった。
「ええ」
 亜矢はしおらしい姿勢になっていた。まるでおあつらえむきのように道の向こうの街路樹の蔭に「マドロス」というバーの看板が見えた。
「あそこに、はいりましょう。素敵な感じのお店」
 二人は腕を組んだまま道を横断し、厚い板でつくられた扉を押した。ドアの上部につけられた小鈴がチリリンと典雅に響いた。

(人形制作:箱石潤子)
by katorishu | 2010-02-12 00:29 | 連載小説