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おごれる者久しからず

 10月29日(木)
 政官財の癒着といおうか、不祥事といおうか、普通の人から見たら「強欲」としかいいようのない「所業」を行ってきた人達の失脚が相次いでいる。
 日本一の発行部数を誇る読売新聞社の渡辺恒雄元社長や、西武鉄道の総帥といわれた堤義明氏、元総理の橋本龍太郎氏……等々。
 故人にさかのぼれば、ロッキード事件で失脚した田中角栄元首相、盟友の小佐野賢治国際興業社長……等々、晩節をけがした「元権力者」「元実力者」は多い。

 まだ背後で「院政」をしいている人もいるようだが、この人たちに共通しているのは、「金銭欲」「権力欲」が並はずれて強力なことだ。中には強欲としか形容できない個性の持ち主がいる。法の網をかいくぐり、権力にものをいわせ、大金を己のものとし、自らの権勢を誇る。
 権力の「うまみ」を一旦知った者にとって、その座は陶酔感さえ覚えるほど座り心地のよいものなのだろう。多くの人間の運命を、おのれの意志や気まぐれで、どうにでも左右できる。つまり、多くの人間の生殺与奪を握っていることに、生き甲斐を感じている人たちなのだと思う。

 その類の人間が、社会に幸福をもたらすこともあるが、恩恵に浴する人間をのぞいて、多くの人にとっては概して「困った」存在である。
 世の中、よくしたもので、この種の強欲の持ち主は、人一倍強い「欲望」のために成功してきたのだが、逆にその強欲さ故につまずき、失脚していく。
 ローマ帝国がなぜ衰亡したか。その要因は、帝国を隆盛に導いた要素のなかにある、とは歴史家の指摘するところだ。
 個人の人間にも、これはあてはまるようだ。その人を「出世」「成功」に導いた要素が、いつのまにか阻害要因となって、その人を滅ぼすのある。

「節度」とか「ほどほどに」といった日本人が伝統的に美徳としてきたことは、彼らにはどうも無縁のようだ。
 これが芸術やスポーツの分野なら、「ほどほど」や「適度」ではなく、全力で頑張り、群を抜いた成果をあげても、人の迷惑にはならない。例えば100メートル競走で、10秒を切り、さらに「欲」をだして9秒を切ろうと頑張り、これを実現したとして、彼の行為は多くの人間に感動と勇気をあたえることで、他人を不幸にしたりしない。

 絵や音楽、文学、映画の世界なども、同様である。よりよきものを目指して、功名心や虚栄心や自己顕示からであれ、頑張ってある高みに達する。それは多くの人間に望ましいことだ。

 一方、土地とか具体的な富となると、そうはいかない。なにぶんにも限られている対象なので、強欲な人が独り占めすれば、当然、その影響が他の人のところにおよび、人を不幸に陥れ勝ちだ。
 人間は幸か不幸か、他の生物とちがって、並はずれて欲望が強い生き物である。文明化がすすみ、最低限生きるために費やす時間やエネルギーは、昔に比べはるかに少なくてすむようになっている。
 となると、ありあまった欲望のエネルギーを、どこでどう発散させるかが問題となる。

 限られた資源しかない地球である。60億を超えた人間の欲望が物にむかったら、富の奪い合いになり、摩擦がおき、やがて戦いになり、究極的には「戦争」となる。
 そこで、芸術やスポーツの出番である。
 芸術とスポーツは、過剰な欲望、エネルギーをうまく吸収して、醜い争いや戦いを回避させる。人間がつくりだした見事な装置であると思う。
 
 この世を、すみよくさせるには、この二つの分野を充実させるしかない。
 しかし、政官財のリーダー層で、このことを心の底から信じ、汗をかいている人は、ほとんど皆無に近い。
 今、晩節をけがしつつある「権力者」たちが、もう少しこの分野に意を注いでくれたらいいのだが、悲しいことに彼らは、この分野をも、権力、金力を醸成する対象としか見ていない。つまり、金儲けの対象であり、おのれの権力欲を満たすための手段でしかない。

 彼らは常に人間を「利用すべき対象」としか見ていないようだ。悲しいことに、そう割り切って功利的に行動できる人間が、「成功者」になっていく。

 おそらく、これからも、やがて晩節をけがすことになる強欲な「成功者」が生まれてくるだろう。30半ばにして、大金を手にいれ、「強欲」が顔に書いてあるような情報産業の社長など、予備軍はすでに少なからずいる。
 彼らのほとんどは、世の中を「金儲け」の対象としてしか見ていない。そうでないタイプの人間をリーダーに期待するのは、木に登って魚をもとめるようなことなのだろうか。
by katorishu | 2004-10-29 01:45

意欲ある若者

 10月27(水)。
 最近の若者は「意欲がない」「覇気がない」「粘りがない」などと、よくいわれる。子供の数が減り、大勢の中でもまれ、喧嘩をし、取っ組み合ったりすることも少なく、「大事に」「我が儘」に育てられた子供が、以前とくらべ多いはずだから当然の結果とはいえる。
 全体としての傾向は、確かにその通りなのだろうが、意欲や覇気に富み、目標をかかげて、それに向かってエネルギッシュに行動している若者もいる。

 本日、早稲田の二文のシナリオ演習の授業で、自らの「自主映画」体験を披露した松崎香南子など、その一人。当初、自分が脚本・監督を担当した映画のPRをかねて話す時間を10分ほどもらえないか……ということだったが、面白いので授業の半分ほどは、彼女の「独演」となった。
 30分の作品で、すでにシナリオはインターネットを通じて、受講生に配布してあった。当初「モノローグ」というタイトルだったが、「洋梨のうた」に変えた。
 24歳のウエブデザイナーの清子という女性が主人公で、彼女は中学生のころより「女性器がしゃべりだす」という「特異体質」をもっている。
 清子の処女喪失体験を、回想をまじえて描いた作で、意欲作といえる。
 若い男性の性器が本人の意志とかかわりなく、反応して勃起するという「生理作用」が、女性にもあるのだということを、松崎嬢は何人かの女性にリサーチして調べたという。
 性というものの、不可思議さ、まがまがしさに、彼女なりの視点で迫っていこうとするもので、 これまで小説などでは、女性器がしゃべる……といった作はあるようだが、映像で表現した作については、ぼくは寡聞にして知らない。(ポルノや官能映画ではあるかもしれないが)。

 松崎嬢は自ら企画し、シナリオを書き、いろいろな人間をまきこんで、制作や監督までこなして、ともかく30分の作品を作り上げた。
 ロケハンやキャスティング等々で、いろいろ苦労もしたようだが、学生時代に映画をつくるなど、夢のまた夢であったぼくらの世代からは「時代は変わった」と思わざるをえない。
 もちろん、フィルムではなく、デジタルのビデオカメラをつかったもので、照明や録音、整音、記録、助監督などもいて、かなり「本格的」な制作体制である。
 それでかかった費用は10万であるという。
 人の協力が得られれば、それだけで映画がつくれる時代になったのである。

 近々、30分の作品として仕上がり、学内で公開するとのことだが、教室でも参考上映するといいと、すすめた。
 彼女はすでに、商業用映画の美術スタッフ助手として、何本かじっさいの映画作りの現場を踏んでいるので、「まったくの素人」ではない。しかし、22歳で、周囲を説得し、まきこみ、人を動かし、自分ののぞむ方向で作品をまとめあげた。その経験は、今後の人生の豊かな土壌となるだろう。

 高校のころから、映像作家を目指していたとのことで、意欲と積極性、行動力、そして独創性は、大いに買えると思った。
「いろいろと大変なことがあったが、現場で出演者たちと議論しながら演出をすることに、一種の陶酔感を覚えた」とのことだ。
 題材が女性器なので、一歩間違えば下品になってしまうのだが、彼女の人柄なのだろう、鼻や口を語るように淡々と性器について語るので、嫌みな感じがまったくない。

 「女性器」が語る……というのを、映像でどう説得力ある表現にもっていったか、30分の作品を見てから、感想や批評を加えたいが、シナリオ演習の前期レポートからシナリオを起こし、それを作品として結実するまでのプロセスに、出席の学生たちは接することができたわけで、大いに刺激になり、勉強になったにちがいない。

 少数ながら、こういう意欲のある若者を目の前にすると、日本の将来を悲観的に考えてしまうぼくなど、少し安心する。
 当然、表現に幼いところはあり、批判するのは簡単だが、出始めた芽がうまくのびて、花をさかせるよう、温かく見守りたいものだ。適切なアドバイスや、ときに厳しい批評を加えることも必要になっていくだろうが。
 二文は「夜間部」なので、必ずしも若い学生ばかりではない。他の「中年の生徒」などもまじえ、大学の近くの酒場で、とりあえず「祝杯」をあげた。
 シナリオの撮影稿を、当ホームページの「招待作」に、いずれ掲載する予定です。
 「映像作家」としての松崎香南子嬢の今後に、期待したい。
by katorishu | 2004-10-28 08:11

天変地異を奇貨として

 10月23日(金)
 23日午後5時56分ごろ、新潟県中越地方を震源とする地震があった。震度6強で、何度も揺れた。このとき、ぼくは自宅近くの喫茶店の窓際のカウンター席で「仕事」をしていた。
 最初、目眩かなと思ったが、そうではなかった。天井からさがった照明器具が揺れており、隣りの客も妙な顔をしていた。ガラス窓の向こうの玉川通りには、いつものように車が走り、人が歩いている。
 一度ではなく、何度も揺れを繰り返すので、いつも持っている携帯ラジオをとりだし、イヤホーンを耳にいれてスイッチをいれた。アナウンサーが、新潟が震源地であり、被害が出ていると報じていた。

 今年は、猛暑、数多くの台風の襲来……等々、自然災害が例年になく多かったという気がする。天変地異である。
 昔の人は、人間の力ではどうにもならないことを、「天の意志」「神の意志」として、畏怖し、畏敬した。そこから、自らの傲慢さや、身勝手さを反省し、自己の欲望とのバランスをとっていたのだと思う。
 それが「科学万能」の時代になって、「自然」とは人類の英知で克服し征服すべきものと考えるようになった。
 当然、自然への畏怖心、敬愛の心などが、すっとび、己の欲望のままに、「開発」という美名のもとに、自然破壊をやりたい放題やるようになり、それが「進歩」であり「善」であると考えるようになった。
 アメリや日本をはじめとする「経済大国」がとくに急先鋒となって、この路線を推し進め、これからも推し進めようとしている。

 自然の「暴威」から自分たちの生活を守るため、河川などの改修工事をし、地滑り等の防止策を講じるまではよかったのだが、さらに川や海を埋め立て、山を削って、コンクリートで塗り込めたり……人間は偉大な存在であり、自然を克服、征服できるのだとばかり、「開発」という名の自然破壊をすすめてきた。
 その結果、他のいろいろの生物が住めない環境をつくってしまった。地下資源を掘り起こし、大量に消費し、消費が多ければ多いほど「幸福」なのだという価値観をつくりだしたのである。

 地球の自然や地下資源が無限であるのなら、それも結構かもしれないが、有限であり、このまま、開発や浪費を続ければ、早晩、枯渇してしまう。
 人類の英知は、そんなことを百も承知であるはずなのに、動きはじめた「文明の歯車」はなかなかとめようがなく、今や破滅に向かって大きく回転をはじめてしまった。
 心ある人がブレーキをかけようとするのだが、圧倒的に多くの人間や指導層は、もっと「豊かに」もっと「便利に」もっと「快適に」なろうとして、アクセルを踏み続けている。

 それがどういう結果をもたらすか。乱獲が絶滅をもたらすのと同じで、昔の人はよく知っていた。だからこそ、自然を畏怖し、これを敬愛し、己をおさえて、共に生きようと知恵を働かせてきたのである。

 最近の天変地異は、昔の人のように「天の声」「神の声」であり「天の怒りと受け止めるべきだろう。
 他の犠牲の上に成り立つ「幸せ」など、本当の幸せなどではなく、いずれ他の「犠牲」はマイナスの刃となって、自分たちにふりかかる惨禍になるのだということ。それを強く自覚して、「便利さ」「快適さ」ばかりを追求する生活習慣から脱却するべきだろう。

 キーワードは他と共に生きる。つまり「共生」である。他とは必ずしも人間とは限らない。動物であり植物である。生きるために、他の命を殺して、これを摂取することは許されるべきことだが、そこには節度や、限度というものがある。
 日本語には「ほどほど」という言葉がある。 一部、強欲な権力者や成金などは別にして、普通の庶民の間には日常の生活意識として根付いていた言葉である。
 現在、地球の人口は60億。10年、20年後には80億にふえ、さらに増え続ける見通しだという。増えすぎた人類が、さらに「便利さ」「快適さ」を目指して、欲望全開の生活を目指そうとすれば、どういうことになるのか。
 一部企業家やビジネスマンは物が大量に売れて儲かるので大歓迎かもしれないが、やがてとんでもない事態に至るのは目に見えている。欲望と欲望がぶつかりあい、争いが起こり、それがエスカレートして戦争へと発展することだろう。
 戦争こそ、「快適さ」の対極にあるもので、なんとか英知を発揮して避けるべきことである。
 一人一人が「共生」をキーワードとして、これまでの「右肩あがり」の経験則から脱して、新しい生き方を実践していかないと、大変な事態になる。
 天変地異を奇貨として、現在の文明社会のあり方について、根本的に考えてみることが、今ほど必要なときはない。
by katorishu | 2004-10-24 02:43

権力は腐敗する

 10月22日。
 社会保険庁などの職員が、出版物などで監修料を受け取っていたことが問題になっている。新聞報道によると、2003年度までの5年間で、延べ877人に上り、総額は7億4850万円になるという。
「長年の慣習」で受け取っていたと、職員はいいわけをしているということだが、とんでもないことである。

 対象となった出版物の中には、年号が変わるだけで内容がほとんど改訂されないものや、似たようなパンフレットを表題と体裁を変えて大量に刊行しているケースもあった。
 業者が支払う「監修料」は、各課の担当係長に一括して払い込まれた上で、一度は本人に手渡された。しかし、その後、それぞれの職員が「拠出」し、課ごとにプールされることが慣例となったという。
 これらは、残業時のタクシー代が約4億円、深夜の夜食代が約7000万円。税金分1億5000万円を除き、残りは職員どうしの懇親会の費用として使われたというが、ほかに、約4億6000万円は社保庁の職員に支払われた。彼らの「役得」になっていたのである。

 官僚組織のなかで、おそらくこれは氷山の一角だろう。
 敗戦後、いろいろなシステムの改革、改善が行われたが、官僚制だけは手つかずに保存されてきた。官僚統制も戦後の復興期には、それなりのプラスの役割も果たしたのだろうが、今は阻害要因ばかりだ。
 天下りの問題、特殊法人のファミリー企業の問題……等々。彼らがどう理屈をつけようが、要するに、国民の税金を「合法的に」かすめとって自分たちで分け合っているのである。
 骨抜きの政治資金規正法などもその典型だが、形の上では一応「合法」というシステムをつくりあげているので、なかなか犯罪として告発しにくい。
 
 権力を握る自民党は財政難を解消するため、 社会保障費の削減を党の方針にもりこみ、国・地方財政の三位一体改革の流れの中で、約20兆円ある地方向け補助金のうち、6割近くを占める社会保障関係の補助金を見直すとのことで、生活保護費や市町村に交付している国民健康保険(国保)の「調整交付金」を削減しようとしているようだ。
 それも結構だが、それをいうなら、官僚や官庁、それに準じる組織に寄生している人たちの「経費」「給料」などの削減を同時に打ち出すべきだろう。

 ソ連や中国清朝が滅びたのは、硬直した「官僚統制」が主な原因のひとつである。
 人間、弱いもので、利権や権限をもった地位についてしまうと、よほど強い克己心や自己抑制をもたない限り、自分でも無意識のうちに「特権」を行使して、己れを利する行為をしてしまうものである。
「市場経済」「自由経済」がベストだとは思わないが、官僚統制国家より、透明度が増すし浄化作用もより多く働く。
 官僚を数年交代で変える……というのが理想かもしれない。しかし、現実的に無理なので、とにかく資金の流れや給料、特権、利得、余禄……等を、納税者が監視し、検証できるシステムをつくっていくしかない。

 犯罪の防止策などといって、現在、街の至る所に監視カメラなどが設置されているが、税金を「かすめとる」、「盗人」への監視システムの構築のほうが、より大事な気がする。 ただ、警察も検察も官僚組織であり、上にいけばいくほど「官僚支配」のシステムができあがってしまっているので、自分たちの不利になるようなことはなかなかしない。
 天下りや高額な退職金など、税金を「かすめとる」、一見「合法的な」悪事を、どう監視し、これにブレーキをかけていくか。
 時代の閉塞感を打ち破るためにも、ぜひ必要なことで、そのためには、まず政権交代によって、積年にわたって癒着した政官財の垢をこそぎ落とすことである。
 これが、浄化のための第一歩。
 政策に関して、大同小異だとしても、すくなくとも政権が交代すれば、前の政権に付着していた「垢」は、すくなからず、こそぎ落とされる。
「権力は必ず腐敗する」
 歴史を読めばよくわかるが、残念ながら、これが「歴史の真実」である。
by katorishu | 2004-10-23 05:06

今、必要なのは節度

 10月20日(水)
 また大型台風が接近、激しい雨が降っている。「観測史上初」といった言葉が天気関連の記事に頻出する。それほど今年は、異常な気象つづきである。
 早稲田の事務局から連絡があり、本日の夜の講義は交通機関の乱れが予想されるので、休講にするとのこと。

 夏の猛暑が去ったと思ったら、まるで梅雨を思わせる雨降り。多分、昔の人なら、こういう異常気象をさして「天の怒り」と解釈して、我が身の行いを顧みて反省したり、行動を慎んだりしたにちがいない。
 科学文明が「万能」だと信じている現代人は、自分たちこそ地球の「王様」と思っているので、そんな反省をすることもなく、日々、限られた天然資源の浪費に明け暮れている。
 
 異常気象の原因がなんであるのか本当のところはわからない。しかし、素人考えながら、どこかで天然資源の過剰な消費と結びついていると思えてしまう。
 現にペンタゴンの秘密文書が、温暖化の悪影響を指摘している。
 今のような石油資源等の消費がつづけば、温暖化がすすみ、例えば海流の流れに変化がおきて、ヨーロッパはシベリアなみの寒冷の地になる……等々、危険性を指摘している。テロなどよりずっと深刻な事態が目の前にきていると報告しているのである。
 このままでは、人類は大変な事態に遭遇する。「天の怒り」と畏怖し、節制を心がけ、自然環境の保護にもっと意を尽くす……このほうが賢明な生き方だと思うのだが。

 もちろん、ぼく自身を含めてだが、人類のやってきたことはロクでもないことが多い。最大の被害者は、他の動物であり、植物等である。例えば牛や豚の目から見たら、人間はヒトラーも顔負けする「悪魔」である。
 動物の中には肉食動物も多く、彼らの「犠牲」になる草食動物もいる。しかし、彼ら動物は自分が食べる以上の動物を、決して大量に殺戮したりはしない。 「食物連鎖」の範囲を守って生きており、誰から教えられたのでもなく「足(たる)を知っている」のである。
 人間だけが、とどまることのない欲望を全開させ、他の生き物の迷惑を顧みず、欲望の全開こそが「幸せ」なのだと思いこんでいる。

 とくに先進国の人間が問題である。他を殺して食べて生きる。これは人類がずっとやってきたことで、そうやって種の保存に努力したからこそ、現在まで続いているのだが、以前はまだ節度があり、他を殺すことに、ためらいや憐れみがあったはずである。そこから敬虔な気持ちが生まれ、他への供養もしばしば行ってきた。
 もっとも、インカ文明などを滅ぼしたスペインや、インディアンを駆逐したアメリカ人など、「帝国」や「繁栄」した国は、大量の人間を無造作に殺戮してきたのだが……。
 独裁的な権力者や「帝国」を自称する指導者などが、己の欲望の実現のため、どれほど多くの人間を殺しまくったか、歴史をひもとくと溜息がでる。
 ただ、少なくとも、庶民レベルでは、「欲望」もささやかで、日々の暮らしに節度があったはずである。

 己の欲望実現のため、例えば「朝鮮征伐」などという愚行を実行した豊臣秀吉など、一部権力者は論外だが、圧倒的多数の庶民は、他を殺して食べるという「現場」を子供のころから見てきたはずである。
 そこから、命を失う者に対する憐憫の情があったと思いたい。
 ところが、いつのころからか、とくに先進国の人間は、影を覆い隠し光の部分にのみ関心を向けてきた。一例が屠殺の現場である。一般からほとんど隔離されてしまっているので、他の命の犠牲の上に生きているのだという実感が薄くなる。

 モンゴルの遊牧民などは、可愛がって育てた羊を自分で殺して食べる。彼らは子供のころから命の失われる現場を見ており、そこから、生きるとはどういうことか、人間とは動物とはいったいどういう存在なのか……等々、いろいろと学ぶにちがいない。
 以前は日本にも存在した「マタギ」などの狩猟民も同様で、森とそこに住む動物への畏敬の念を常にもっていた。

 ところが、現在のように、口当たりやすく加工されたハンバーガーの類ばかりに接していては、なにも学べないし、「成人病予備軍」を大量生産するだけである。
 自然への畏怖の欠如。これが問題である。
 そして、イマジネーションの貧困さ。映像の氾濫も、想像力の欠如を助長させているようだ。 与えられたイメージにどっぷりつかり、自ら考えることが希薄になっているのである。想像力を涵養させるには、読書が一番なのだが「活字離れ」とかで、本を読まない。
 読んでも、安易なノウハウ本の類。物事を根本的に考えたり、想像力を働かせる力は、どんどん弱ってきているような気がしてならない。
 
 ところで、「他の身になって」考えることは、じつは想像力の問題である。他の身になって考えれば、己の欲望にも自然、ブレーキがかかり、そこに節度が生まれるはずなのだが。
 現代の日本人に一番欠けているのは「想像力」であり、そこから導きだされるはずの「節度」である。
 政治や経済、社会のリーダーこそ他にさきがけて節度をしめす必要があるのに、現実は逆である。リーダーが驕り高ぶって己の欲望を全開することに意を注いでいる。己の欲望がより強く、「他人の迷惑」を考えない人が、リーダーになっているのかもしれない。
 最近、引退を宣言した某鉄道会社の実質的支配者など、その典型である。彼には「インサイダー取引」疑惑など数々の疑惑がもちあがりつつある。
 
 節度を失った社会の行き着く先は見えている。
 人類の絶滅の時期を遅らせるためにも、今こそ、「節度」という価値観を、とくに先進国の人間の中に根付かせるときだ思う。
 社会のシステムを変えないで、急に国民が「節約」をし、消費を抑えてしまったら、さらに企業が倒産したりして、もっとも弱い層にしわ寄せがいくだろう。
 それでは、どういう仕組み、どういうシステムにしたらいいのか。理想のシステムなどありようがないのかもしれないが、一人一人が、この問題を真剣に考える時期にきている。
 まともに、真剣に考えれば、日々の行動も、すこしは変わるはずである。少なくとも、ぼく自身は変わった。正確にいえば、変わったと思っている。
by katorishu | 2004-10-21 01:05

パソコンの脆弱性

 10月19日(火)。
 また超大型の台風が近づき、日本を縦断しそうだという。
 早稲田の文学部36号館で行われた国際シンポジウム「東南アジア映画の現在」に顔をだした。タイとマレーシア、フィリピン、インドネシア、シンガポールから若手の映像作家や評論家などが参加し、自国の映画製作の現況について語った。
 面白く、なるほどと思ったことなどいろいろあり、帰宅してから、この道草日誌に感想などを記した。そこまではよかったのだが、このところかなり疲労しており、脳の判断が衰えていたのだろう、プレビューの段階で、すでに「書き込み」をしたと思ったようでパソコンを閉じてしまった。
 数時間、仮眠をしてパソコンを開いたところ、せっかく記したものが載っていない。「受信」のボタンを押していなかったので、すべて消えてしまったようだ。やや長めに詳しく記したので、ガックリきてしまった。
 このシンポジウムについては、あらためてエッセーの項目に発表したい。

 それにしても、今のパソコンはしばしば動かなくなったり、せっかく書いたものが、一瞬にして消えてしまったり……と、手書きであれば考えられなかったミスが起こる。
 じつは先月、これも疲労のためか、ちょっとした操作ミスで、アウトルックにあった受信のメール、1000通ほどが一瞬の間に消えてしまった。
 1年ほど前には、ウインドウズのアップデイトを画面の指示通りに実施していると、これも送信と受信のメールがすべて消えてしまうという「事故」があった。
 なかには、知人からのメールや、仕事上の大事なメール類もあった。帰宅して火事にあったような気分で、しばし呆然としてしまった。
 パソコンに詳しい人の話では、アウトルックよりずっと安定性の良いソフトがあるという。そっちに乗り換えようかどうか、迷っている。
 
 現在、外付けのディスクをつけ、バックアップを心がけているが、CDなどに書き込みをしたあと、「使用不可」になり、そこにいれてあった情報をとりだせなくなる……と、いったことが何度もあり、パソコンは常に危険と同居している。
 便利さ、使い勝手の良さは、常に脆弱さと同居しているということのようだ。

 ぼくが最初にワープロを導入したのは、確か1982,3年で、機能は今と比較にならないほど悪かった。用紙も両側に丸く穴のあいた、つながったもので、当時の価格で70万円ほどしたと記憶する。プロの文筆家になって間もないころだった。

 字が汚く、読みにくいこと、原稿用紙に向かうとひどく心理的な圧力がかかって、文字を埋める作業が苦痛になっていた。
 弱ったなと思っていた。欧米の作家はほとんどタイプライターで書いている。日本にも、そういう利器がないものかと思っていたとき、、当時、関取の高見山をコマーシャルに使っていた雑誌かなにかを見て、「和風タイプライター」の「ワードブロセッサー」なるものがあることを知った。
 すぐさま芝公園の近くにあった富士通のショールームにいって、じっさいに手にさわったり、係の人に機能を聞いたりし、これだ……と思って、購入した。
 当時としては思い切った「設備投資」だった。

 1995年、ウインドウズ95が出たときも、かなり早めにパソコンを買ったのだが、問題があった。富士通の「親指シフト」なる、日本語入力については画期的ともいえるシステムに指が慣れてしまっていたので、なかなか別の入力システムに適応できないのだった。そのため、せっかく買ったパソコンはほとんど使用せず、埃をかぶったままだった。

 親指シフトのワープロは4台目まで使用していた。ずっとこれを使っていくつもりであったが、ウインドウズ98がでたころから、ワープロ機械の製造そのものをやめてしまうメーカーが多く、不具合になったのを契機にパソコンに乗り換えた。
 親指シフトに慣れきっていたので、苦労して今の「一般化」されている入力システムに慣れた。不思議なもので、このシステムになれてしまうと、以前あれほど習熟していた親指シフトの操作ができなくなってしまったのである。
 入力の早さも、親指シフトのほうがずっと早く、例えば取材テープを起こすときなど、テープをあまり止めずに流しっぱなしでも、かなり正確に入力できたのに。
 ピアニストのように「指が覚えて」いたのだった。それが、まるでできない。このときは愕然とした。

 それはともかく、パソコンがさらに普及し、社会のすみずみまでこのシステムが行き渡ると、確かに便利で効率的にはなるものの、ガラス細工のように極めて脆弱な社会になるような気がしてならない。
 「サイバー・テロ」なる言葉もある。ハッカーなど典型であるが、極端に言えば、数人の人間で世界を大混乱に陥れることが、現実のものになる可能性がる。
 便利さも、ほどほどにしておいたほうが「自然」なのかもしれない。
by katorishu | 2004-10-20 05:03
10月19日(火)
 日本歯科医師連盟からの自民党への「献金」が疑惑を呼んでいる。
 田中角栄型利権政治はいい加減終わりに……とはかない期待を抱いているが、相も変わらず「賄賂政治」が横行している。政治腐敗をなくすため、政党助成金などができ、政治資金規正法も改正された。なのに、またぞろ、「献金」という名の賄賂が送られ、政治を金力でねじまげようとした。この罪は重い。さらに罪の上塗りをするように、元総理までがからんでスキャンダルを握りつぶそうとしている。
 連盟の会長が逮捕されたことでもわかるように、これは自民党の関係者がどう言いつくろうと「賄賂」である。これを「賄賂」と言わなかったら、なにを賄賂というのか。
 政治や権力に「賄賂」はつきもので、「売春」と同じく、人類社会ができたころより生まれた古い「慣行」なのかもしれない。他の国でも、賄賂、汚職は絶えないが、「先進国」と称する中では、日本は「賄賂度」といったものが、かなり上位にある国だろう。

 外見がどんなに立派で華やかそうに見えても、賄賂が横行している国は「後進国」というべきである。政治権力が強くマスコミなどの批判が弱い国では、実質的に賄賂が横行していても、これを摘発できない。従って「我が国は汚職などほとんどない」とうそぶいている言論統制国家も、なきにしもあらずである。そんな国よりすこしはマシではあるが、いやはやという感じである。
 1億円といえば気の遠くなるような大金である。それを料亭などで無造作に受け取り、受け取った記憶がないという感覚。それで国民を納得させられると彼らは思っているのだろうか。まして日本の総理経験者である。

 長年、永田町に住み、権力のうまみを知ってしまうと、感覚がどこか麻痺してしまうのだろう。脳が一部壊れているのである。受け取りのとき、同席していたとされる野中元幹事長には、ぜひとも記者会見でも開いて「申し開き」をしてもらいたい。自民党議員の中では比較的、骨があり、日頃から「弱者の味方」や「正義」を口にしている人で、ぼくはそれなりに評価のできる人だと密かに思っていた。
 被差別部落出身であることも公言し、現在の日本について強い危機感を表明している人である。雑誌等のインタビューや人物評などを読む限り、それなりの「人物」であり、「策士」であり「壮士」の趣がある。こういうときこそ、勇気をだして、真相解明に力を発揮するべきである。このまま口を閉じてしまったら、「やっぱり、お前もか」になってしまう。
 
 こんな政治風土にしてしまった主な原因は選挙民にある。人に頼まれたから投票する。ご馳走になったから、就職のお世話になったから、仕方がない、あの人に……といった「事情」で投票する人がいかに数多いことか。
 そんな政治風土を見ていると、日本はまだまだ封建時代の残滓をひきずる「後進国」としか言いようがない。じっさい、旧態依然とした、もちつもたれつの「村社会」の論理は今も根強く生き残っている。
 もちろん、人間同士、「もちつもたれつ、あい助け合って」生きることは悪いことではない。しかし、そこに「利権」という虫がはびこると、これはもう「民主主義」を阻害する何ものでもない。政治に限らず、ビジネスやマスコミ、芸能、スポーツにまで、この体質は根付いているので、変えるのは容易ではないが、この悪しき「しがらみ」から抜け出さないと、日本はあらゆる面で劣化していくだろう。

 悪しき風土を変えていく上で、一番力を発揮しそうなのはインターネットである。
 インターネットの「害」はもちろん数々あるが、利点もある。なにより個からの情報発信が、安く手軽に出来ることである。しかも、流される情報は世界につながっている。
 インターネットが一般に普及したのは、ウインドウズ95が1995年に出現してからである。それからまだ10年もたっていないが、人々の通信手段は画期的に変わりつつある。もしかしてこれは、グーテンベルグが活版印刷を発明したことを上回る、革命的な出来事かもしれない。
 金のかからない、透明性のある政治は、おそらくインターネットから生まれるのだろう。
 今はインターネットは交通法規のないところに車があふれ出たような状況だが、やがてルールも定着し、試行錯誤を繰り返しながら、不具合やマイナス面も改善されていくにちがいない。

 日本でもブロードバンドがもっと普及すれば、「悪しき伝統」も次第に改善されていくだろう。ただ、ここに問題がある。「悪しき伝統」が駆逐されるのは大変結構なのだが、同時にインターネットの普及は「良き伝統」まで根こそぎ破壊しかねない。
 こうなっては元も子もない。インターネットに過度に依存することは危険である。インターネットは、究極の「ブロード・キャスティング」かもしれない。(ブロードは「広く」、キャスティングは「投げる」、つまり放送など広く多数に伝達するメディア。後述のナローは「狭く」である)

 これが一方の輪であるとすれば、もう一つの輪は、「ナローキャスティング」である。「寄席」や「銭湯」などにある五感を通じて人間と人間がつながる「ナローキャスティング」。これが欠落し、ブロードキャスティングばかりが普及することは、機能的な社会になるかもしれないが、一人一人の人間にとっては、索漠とした世界でしかない。
 国家や組織が栄えて人滅ぶ、では本末転倒もいいところである。ナローキャスティングを捨てさるか。これを維持しつつ、インターネットを普及させるか。今、日本は大きな岐路に立っている。
by katorishu | 2004-10-19 03:32

粗食のすすめ

 10月13日(水)曇り。
 新聞に、イタリアで子供の肥満児が36パーセントにも達し、このままいくと200年後には全イタリア人が肥満になる恐れがあるという。「美食」を売り物にしている国のなれの果てという気がする。たんに毎日うまいものを食べているというのではなく、量も多いのだろうが、そんな子供たちの行く手に、当然の報いのように「成人病」が待ちかまえている。
 肥満児の親に、肥満が多かったとのことであり、親の問題でもある。

 日本でも最近、肥満児が目立つ。肥満のオッサン、オバサンのほか、若いひとでも肉食や油っぽい食べ物の多用で、肥満している人が多い。過日コンビニにいったら、レジで三人ならんでいる30歳前後のうち2人が80キロか90キロほどありそうで、ハンバーグ弁当のほか照り焼きにフライドチキンなど、いずれもカロリーのありそうなものを買っていた。どう見ても一人で食べるようだった。
 
 大して暑くもないのに額に汗をかいて、もったりした感じで二重あごだった。あまり見栄えがよろしくないし、一種のビョーキだなとぼくは思った。
 最近、居酒屋などにいって感じることだが、揚げ物類がやたらと多く、以前はどの店にもあった煮しめやおひたしなど、メニューから探すのに苦労する。調理するほうも揚げ物のほうが楽だし、素人同然でもそれなりにマニュアルで仕上がる。そして、より多くはけるからそちらに偏っていくのだろう。
 コンビニ弁当はもちろん、ファースト・フードや総菜類も、とにかく油類が多く、全体に甘口である。アメリカ人の食に近づいているのだろうか。

 沖縄は長寿県として知られているが、最近、男子については平均寿命は都道府県のうち26位にさがってしまったとか。ハンバーガーなどアメリカ式の食生活になったことが最大の理由だという。
 沖縄は戦後しばらくアメリカが統治していたので、本土以上にアメリカ化が早かった。その影響で年配の人までが動物性のタンパク質や脂肪をより多くとるようになり、心臓病や脳梗塞などの病気が増え、結果として長寿県ではなくなってしまった。
 研究者は、いずれこれが時間差をおいて、本土にひろがっていくのでは、と危惧を表明していた。

 日本は依然として世界一の長寿国だが、長寿を支えている高齢者が子供のころとった食事は、「一汁一菜」という言葉に象徴されるように、つましいものだった。
 粗食である。昭和20年代の「粗食」は、すこしひどすぎるが、30年代の「高度成長」に入る前あたりの食事が理想なのだろう。
 米など穀類をおもに、根菜類や魚を食べることが多く、温室栽培も普及していなかったから、みんな旬のものを食べていた。その人が住んでいる近辺でとれた食物を多用し、外食など滅多にしなかった。
 つまり「ケ」の日を日常は生きていたのである。そうして、たまさか訪れる「ハレ」の日に、思いっきり羽をのばし、ご馳走を食べた。
 たまに食べるからご馳走であり、うまいのである。感激があり、たとえば羊羹をちょっと食べるだけで、幸せになれた。
 
 誰だって、まずいものより、うまいものを食べたいに決まっている。しかし、そこは欲望を抑えて、我慢して、つまり節制して、日々を生きる。ごく一部の支配者や金持ちをのぞいて、多くの人は何千年という年月、そんなつましい生活をしてきたのである。
 それが「高度経済成長」のころから、日本人は欲望を全開し、より多く欲望を満足させることが「幸福」であると思うようになった。
 食欲ばかりでなく性欲、物欲、名誉欲……等々、ここ何十年かの社会を見ていると、「欲」「欲」「欲」の氾濫である。「足るを知る」といった言葉など、すでに死語である。

 地球の資源が無限にあるのなら、それも結構。しかし、有限であり、そろそろ枯渇の時期が見えている。欲を前面に打ち出す社会の価値観、システムを変えていかないと、近い将来、深刻な食料危機に見舞われるだろう。
 よくしたもので「美食」のはてにあるのは、肥満であり、成人病であり、短命である。のんべんだらりと長く生きることが、いいことかどうかは別にして、同じ生きるなら健康で長寿でありたいもの。
 そのためには、とにかく腹八分目であり、粗食である。断っておくが、粗食イコール貧しい食事ではない。日本人が長い間、食べてきた食べ物を中心に食べるのである。
 米飯、みそ汁、納豆、小魚、豆腐、卵、根菜、昆布やキノコ類……。パン食に牛乳製品類を加えてもいいが、こういう「伝統食」を基礎に、時にちょっと色づけをする。
 そうして、時たま訪れる「ハレ」の日に、ご馳走を食べる。あとは適度の運動と、水を多むこと。そうすれば、健康でいられる……。
 これはじつは今年92歳になるぼくの親父が、いつかぼくにいった言葉である。特に水。水さえ飲んで、適度に腹をふくらませていれば、腹もでてこないし、健康でいられる。
 親父は90過ぎても一人で旅行もすれば、自転車にも乗る。電話でときたま話すことがあるが、まったく耳も声も衰えていない。

 遺伝子の問題もあるだろうが、やはり「粗食」であると思う。 第一、普段、粗食をしていると、たまさか食べる「ご馳走」がじつにうまい。これは自然にかなっている。
 親父とは対立することが多く、ことごとく反発してきたが、これは全面的に受け入れた。
 おかげで、体重は20歳のときと同じで、血圧も正常、血糖値も悪くないし、かなり過労気味に仕事をしているのだが、今のところ、どこも悪くない。
 自慢じゃないけど、粗食のおかげである。

 食欲も性欲も動物に備わった本能である。「美食家」と称して食欲を丸出しにした人間がテレビなどにしゃしゃりでて「文化人」を気取っているが、ぼくにいわせれば、食欲丸出しの人間は性欲丸出しの人間と同じである。
 性欲だと「はしたない」といわれ、食欲だと脚光をあびる……。ちょっと、おかしいとは思いませんか。

 「武士は食わねど高楊枝」などという言葉もあったのである。食を楽しむのは結構だが、食欲全開で、太った豚のような体になった人は第一美しくないし、健康にも悪い。
 「太った豚」は随所に見受けられるが「痩せたソクラテス」は、年々少なくなっている。
 イタリアのような国になる前に、伝統にもどって今こそ粗食をして、生きる感動をとりもどしたいものだ。繰り返すが、粗食の日常があるからこそ「ご馳走」であり、うまいのである。感動もより強いのである。
 本当はじつに簡単なことなのだが、それがなかなかできない。現代人の脳は、自然から遠ざかった環境にあるため、どこか壊れかかっているのかもしれない。
by katorishu | 2004-10-14 02:40

憂うべき運動能力の低下

 10月10日(日)曇り
 11日の体育の日を前に、文部科学省が2003年度の「体力・運動能力調査」を発表した。それによると、20年前に比べ、例えば11歳の男女とも、運動能力が相当程度低下していることがわかったという。とりわけ低下が目立ったのは運動を「ほとんどしない」というグループである。
 以前は、ほとんど運動をしない子供でも、日常生活で体を動かす頻度が高かったということだろう。便利さ快適さが、子供の成長を蝕んでいる、としか思えない。
 運動を「ほんとんど毎日」するか「週に1-2日以上」というグループでも低下したが、落ち込みはそれほど大きくはなかったとのことだ。

 一方、40―79歳の中高年層では、握力や上体起こしなど7項目のテストの合計点が、男女とも全年代で5年前を上回った。とりわけ50―54歳の男性で5年前より11ポイントも高い41・1%が体力年齢が若かったという。
 「高度経済成長」の時代に入りつつあったとはいえ、まだ日本が貧しい時代に幼少期を過ごした世代である。現在11歳の子供というと、親はいわゆる「団塊ジュニア」の世代に重なる。バブル期に精神形成を遂げた世代であり、物質的な「豊かさ」のなかで生活習慣を身につけている。
 この世代の子供が運動能力が低下し、貧しい時代に育った世代が運動能力が向上しているというのは、いろいろと考えさせる問題を含んでいる。
 楽をして快適さをもとめようとする社会の流れとも関係しているのだろうが、一人っ子が増え、兄弟姉妹のいる子が減ったことと深く関係しているにちがいない。

 群れて生きる動物は「子だくさん」が普通であり、生育する課程で子供同士じゃれあったり、喧嘩をしたり、食べ物のとりあいをしたりして自然に運動能力や生きるうえの知恵を身につけていく。
 ところで、人間も動物の一種であり、いくら文明が進歩したからといって、自然の摂理から逃れられるものではない。子供同士、じゃれあって育てば、ことさらスポーツなどしなくとも、運動能力は自然に身につくはずである。

 都市化がすすみ、子供たちが群れて遊ぶ場が減ってしまったことも、一因かもしれない。
さらに、五感を働かせる遊びが激減し、ゲームなど視覚、聴覚に偏った遊びが増え、その上、ファースト・フードの氾濫である。社会も全体的に子供に甘くなっているし、子供がまともに生育する環境は年々悪化している。
 従って、子供の運動能力の低下は大人の責任、社会の責任である。
 
 麦踏みという作業がある。ぼくの子供時代、農民が畑でようやく芽をだした麦を足で踏む作業をやっていた。今はどうやっているのか知らないが、踏みつけるという一見、酷な試練を課すことによって、麦を強くするのである。
 
 子供の成育にとっても同じではないのか。一見、不条理に見えることが、長い目で見てその人の将来のためになる。獅子は子を谷に突き落として鍛える、といったこともいわれた。
 ぼくなど「年寄りっ子」で、幼少期、どちらかというと甘やかされて育った口なので、その後、社会に適応するうえでずいぶんと苦労をした。小学校にあがるころ、親父がシベリアから帰還し、甘い環境から一転して「厳しすぎる」環境に激変し、戸惑い、焦り、理不尽さに泣き……それが「トラウマ」になって、文学方面に走った潜在的動機であると思っている。

 ぼくを可愛がり、甘やかし放題にしたのは祖母であるが、祖母には感謝をすると同時に、「もっと厳しくしつけてくれたら」と恨めしく思ったことがある。
 何年か前、フランスである死刑囚が死刑執行をうけた。その男は刑の執行を受ける前に、「自分を甘やかした親を恨む」と語ったという。もっと親が厳しく育ててくれていたら、自分の人生行路はちがっていたはずで、極悪な犯罪を犯すことはなかったというのである。身勝手な言い分と思われる人もいるだろうが、ぼくは彼の言い分もわかるという気がした。

 幸か不幸か、ぼくは小心であり、かつ「文学」という「逃げ場」があったので、非行に走ることもなく今に至っているが、フランスの死刑囚の話は他人事とは思えなかった。ある高名な文学者も、自分はもし作家になっていなかったら、おそらく犯罪者になっていただろう……と語っていた。

 親が欲求不満のはけ口として幼児を虐待することなど論外だが、麦踏みや獅子の子育ての例(じっさいそうしたかは別にして)は大いに参考になる。
 なにも、このたとえは子育てに限らない。その道の「ビギナー」「新人」「新米」に対しても、あてはまるかもしれない。甘やかしは、その人をスポイルするだけである。

 かといって、「厳しい」ということも吟味しないといけない。「親」や「先輩」「先人」の中には、経験の浅い人間(子供はその典型)を「いたぶる」こと自体に、密かな愉悦を覚える人もかなりの程度いるのである。旧帝国軍隊の新兵いじめの古参兵のように。

 それと意識している人はまだいいのだが、無意識のうちに欲求不満のはけ口にしている人間もいる。優しさや思いやりの裏打ちがない「厳しさ」は、甘やかし以上に悪い。
 厳しさを他に課す本人が、そもそも自分自身を「甘やかして」いるのであり、そんな「厳しさ」に対しては「キレル」ことで抵抗する人間がでてきても不思議はない。

 運動能力の低下は五感の低下であり、生物体としての抵抗力、忍耐力の低下につながり、ひいては社会性や創造力の低下をもたらし、やがては民族の活力を弱めていくだろう。
 便利さ快適さを金科玉条のように、ひたすら求めてきた社会がもたらした、憂うべき統計の一例である。
by katorishu | 2004-10-11 03:11

ながら族

 10月9日(土)。
 昼間は喫茶店などで携帯パソコンで仕事をすることが多いが、遅く起きるので「昼間」の時間がすくなく、必然的に夜の時間が長くなる。一日平均、夜の時間が10時間ほどあるのではないか。
 以前とちがって飲み屋などへほとんど行かないので、おかげで読書と執筆の時間が長くなる。時たまある仕事の打ち合わせ、映画や芝居を見ること、それに家人との食事等の時間以外は、読書か資料の読み込みか執筆の時間である。
 自宅でパソコンに向かっている時間は、たいていラジオをつけっぱなしにしている。深夜なので、NHKの「ラジオ深夜便」を「ながら視聴」しながら仕事をすることが多い。午後11時からの筑紫哲也のニュース・ステーションはなるべく見ることにしているが、テレビはあまり見ない。ドラマやドキュメントなどで「見たい」と思う作品や、関係者がからんでいて「見ておいたほうがいい」と思われる作品は、ビデオに収録してあとで見る。
 
 ラジオを「ながら聴取」するようになったのは、高校二年のとき。それまで自分の部屋などなかったのだが、離れに居候していた叔父の一家が引っ越していったので、その脇に2畳ほどの空間ができた。納戸や押し入れのような狭さだが、自分一人の空間ができたときは嬉しかった。
 日本家屋ですきま風だらけの家であったので、深夜、家の人が寝ているとき、大きな音にするわけにはいかない。古く音の悪いラジオを耳から30センチほどのところに置いて受験勉強をしながら、よくラジオを聞いた。
 当時、ラジオ関東で「昨日のつづき」というのを毎晩、11時ごろ放送していた。15分くらいの短い番組で、永六輔と富田恵子(女優の草笛光子の妹さん)、前田武彦らの諸氏が、おしゃべりをする。内容は忘れたが、小粋でウイットのきいた語りが面白く、ほぼ毎晩聞いていた。そのほか当時は「人生論」風の番組が多く、読者の投稿による悩みに答える形であったか、女性の思い入れたっぷりな語りで聞かせる。なるほどと思ったり、そうは思わないと反発したりして、耳を傾けながら、幾何の問題を解いたり、英語の単語を丸覚えしていた。

 早朝6時半ごろ起きないと学校に間に合わないので、当然、寝不足になる。授業で居眠りをすることが多く、困ったなと思いながらも、深夜のラジオに耳を傾けてしまう。
 我が家にテレビがはいったのは、ちょうどそのころだが、深夜放送はやっていなかった。ステレオなどもなかった。で、とにかくラジオである。
 当時は高校の柔道部に所属しており、週に三日の稽古、土日は試合が多かった。
 家業の織物業の仕事もときどき手伝っていたので、自分の時間が極めて少ない。少ない時間で、効果をあげつつ、楽しみも享受したい。それが「ながら族」を促したようだ。
 とにかく、短い時間をどう有効利用するか。まだ、親父は「家業を継げ」と言い張っているし、成績をあげなければ、封建的な遺風の残る「機屋の親父」になってしまう。とにかく、そこから脱出したかった。集中力で乗り切るしかないと結論して、敢えてうるさい環境に身をおきながら、集中力を高めようと、茶の間で勉強をしたりもした。
 当時は今とちがって、「一家団欒」というものが、ごく普通に行われていた。大家族であったから、にぎやかな団欒で、夜も客が多かった。大人たちの世間話や噂話、金儲けの話などを右の耳でききながら、教科書や参考書を開いて意識を集中する。
 それが習い性になって、静かで改まった、たとえば「書斎」といった雰囲気の場所では、かえって落ち着かないカラダになってしまった。

 音楽が流れ、言葉が流れるなか、ときおり、そちらに気をとられつつも、執筆しているうち、やがて音声が聞こえなくなる。こうなるとシメタもので、集中力がまし、数時間があっという間にすぎる。その間、執筆対象にのめりこんでいるのである。
 そうして、昔なら雀、今はカラスなどの鳴き声で、朝になっていることに気づく。
 ある作家は昼間、雨戸を閉ざして真っ暗にして電気をつけて原稿用紙に向かっていたという。精神を集中させるために、人それぞれのやり方があるようだが、ぼくは断然「ながら」である。一時、テレビを見ながら仕事をしたことがあったが、これはだめだった。教育テレビはともかく、テレビはうるさすぎ、耳障りなのである。
 今もラジオ深夜便を聞きながら、執筆の合間に、「筆やすめ」で、これを書いている。先ほどまで広沢虎三の浪曲「天保水滸伝」のしぶい声が流れていたが、いつの間にかイブモンタンのシャンソンにかわっている。そうか、もう秋なのかとあらためて、季節の推移を感じさせてくれる。導き役のアナウンサーは加賀美幸子氏。この人のさりげなく、おしつけがましさのないい語りもいい。
 「ラジオ深夜便」がなくなったら、ぼくはおそらくNHKの受信料を払わない……。
by katorishu | 2004-10-10 03:23