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<   2005年 09月 ( 13 )   > この月の画像一覧

 9月30日(金)
 早いもので、もう9月も終わり。いろいろなことが思ったように進まず、時間ばかりが徒に経過していく。
 脚本アーカイブ設立準備室オープンを記念したパーティが、足立区の文化施設「まなびピア」でささやかに行われた。文化活動を促進したいと願っている足立区が、日本放送作家協会の趣旨に賛同し、紆余曲折の末、「設立準備室」のオープンにまでこぎつけたのである。
 10月1日をもって、正式にオープンする。なにしろ貧乏団体なので、備品のパソコン等はリサイクルショップや100円ショップで購入したとか。

 テレビの脚本、構成台本などは、テレビ初期の「伝統」を引き継ぎ、放送が終われば捨てられる運命にあった。番組には玉石混淆、いろいろあるが、脚本家、台本作家が、精魂こめて書いたものも多い。それらは立派に「文化遺産」であり、散逸するにまかせるのは、あまりに惜しいので、とにかくこれを保存し、管理しようという趣旨でスタートした。

 タダでは収拾や管理保存は難しいので、行政や寄付に頼らなければならない。
 幸い文化庁も賛同し、少ないながら補助金をだすことになった。さらに足立区乗ったことで、スタートがきれた。関係する放送作家協会員は全員がボランティアである。(この件で、ぼくはほんのわずかの時間しかさけなかったが)
 ただボランティアだからといって「手抜き」をすることは許されない。ともかくスタートし、ぼくも収拾管理担当の委員長になったので、原則として毎週木曜日の11時から17時まで「まなびピア」の準備室に詰めることになる。
 足立区立図書館が1階から3階までをしめているので、あいた時間は資料調べや研究に利用させていただく。
 いずれ軌道にのり、「脚本アーカイブ会館」などが出来たとしたら、ボランティアではすまなくなる。強大な影響力をおよぼすテレビについて、番組の青図となる脚本、台本を一カ所で保存、管理し、誰でも自由に閲覧、研究できるようになれば、すこしは「放送文化」の向上に結びつくのではないか。
 自画自賛めくが、テレビ番組の質の低下がいわれている現在、意義のある活動だと改めて思ったことだった。
by katorishu | 2005-09-30 23:38

引っ越し

 9月29日(木)
 27日、品川に引っ越した。本や資料類が多いので、大変な作業だった。一カ所に定住するのはどうも面白くなく、いろいろな場所に住んでみたいと思うのだが、引っ越し作業の大変さを思うと、そうそうは引っ越しもできない。理想をいえば、5年に1回は住む場所を変えたいのだが。

 引っ越し後パソコンが動かなくなってしまった。メールアドレスなどのバックアップをとっていなかったので、パニック状態になったりした。幸い本日になって修復した。
 新住所は「りんかい線」の「品川シーサイド」が最寄り駅。昔は倉庫などがあった地帯なのだろうが、現在はIT関係の企業などのはいったビジネスビルが何棟もそそりたっている。
 駅から降りてくる人は、30代から40代くらいの比較的若い人が目立ち、いかにもIT関連といった雰囲気を漂わせている。
 一方、ちょっと歩くと、旧東海道があり、すぐ近くに京浜急行の青物横丁駅がある。この界隈は下町の雰囲気が残り、庶民的な町だ。「時代の先端」をいくIT企業の入ったインテリジェント・ビルや高層マンション群があるかと思うと、下町の雰囲気のふんだんに漂う一角がある。
 この「アンバランス」というか、一方に傾かない点が良い。

 金持ちがいれば貧乏人もいる、老人がいれば若い人もいる、頭の良い人がいれば悪い人もいる……等々、一方に堕するのではなく、いろいろな要素が渾然一体となって、組織なり町なりがつくられていれば、それが最大の「豊かさ」である。
by katorishu | 2005-09-30 00:30

早起きは三文の得

 9月23(金)。
 連休とのことだが、「自由業」にはほとんど関係がない。このところずっと早朝、4時ごろ起きている。以前の夜昼逆転の生活の延長線上で、こういうことになった。
 続けて7,8時間眠ることはほとんどなく、3時間ほどを2回にわけて眠るような不規則な生活だ。比較をするのもおこがましいが松本清張さんが、そうであったとか。
 このところ、早朝の電車を利用させてもらっている。本日も、午前5時9分の始発電車に乗って、ほぼ完成した原稿を読む。新越谷まで60数分、往復で2時間強、ずっと原稿の点検をしていた。パソコンで書き印字できるからできること。さらに喫茶店で点検。

 早起きすると、一日が長く感じられる。数週間前は午後2時か3時、ひどい場合は夕方暗くなってから起きて完全に「夜光性」になっていたが、時間の経過が速かった。
 早起きは三文の得と、昔の人はいったが、実感することが多い。
 早朝の空気は都内でも、昼間では味わえない爽快なものがあり、心と体がなんとなく引き締まる気がする。こういう感覚を忘れていた。
 早起きを心がけ、会心の作を書きたいもの。

 帰宅してまたパソコン。昼頃までに、かなりの「頭脳労働」をし、脳が相当疲れているので、体を使わなければと27日の引っ越しの準備。本をより分けて段ボールにつめる作業だ。相当の時間と体力がいり、汗びっしょり。
 このブログを読んで引っ越しを知ったと、電話をかけてくる方も。本日は三軒茶屋に本拠をおくレクラム舎の鈴木一功さんから。「ご近所だったのに、引っ越してしまうんですね」と、少々残念そう。レクラム舎では10月はじめに小松幹生さんの「スラブディフェンス」という舞台を、近くの鉄工所で公演予定とか。
 すでに何度も公演している作品だが、まだぼくは見ていない。ぜひ行きたいのだが、時間の余裕があるかどうか。10月は取材その他で、相変わらずの「貧乏暇なし」。
 そういえば、このところあまり映画館に足を運んでいない。歩いていけたところにあった「三軒茶屋シネマ」や「三軒茶屋中央劇場」のような2本立ての古い映画を上映する映画館は東京でもほんのわずかしか残っていない。
 引っ越し先の品川周辺には、残念ながらその類の映画館はないようだ。
 しかし、住む場所をときどき変えることは刺激になる。引っ越しは大変だが、新しい場所で新たな人間関係もできる。
 「人生至るところに青山あり」と昔の人はいいことをいった。

 そういえば、最近、ほとんどテレビを見ていない。時間をさいて「見るに値する」番組があまりに少なすぎる。あんなつまらない番組に、みんなよくつきあっているものと、感心してしまう。よっぽど暇なのか、お人好しなのか。タダで見られるから見ているのだろうが、(じっさいはタダではなく、宣伝費などに多大の金を払っている)「タダほど高いものはない」のである。
 NHKも問題をいろいろとかかえているようだ。存亡の危機だが、中の人間に本当に危機を自覚している人が、どれほどいるのか。
 いずれにしても、あらゆることが「曲がり角」にきている。
 物書きとしては、この社会の「愚かしさ」「面妖さ」等々をじっくり観察し、記録にとどめておきたい。もちろん、誉めるべき点があれば、誉めたいのだが、その要素が少なすぎる。
by katorishu | 2005-09-24 00:41

早朝の電車内で仕事

 9月18日(日)
 久しぶりに早朝の電車の中で仕事をした。携帯パソコンをもって家を出て、5時半の電車に乗って執筆作業をするのである。30数分乗って錦糸町駅の先の押上げ駅までいき、プラットホームの椅子に座ってさらにキーボードをたたく。それから三軒茶屋駅までもどった。この間、2時間、ずっと執筆作業。 
 日曜日の早朝なので電車はすいていた。計60分の乗っているのに、運賃は1駅分120円。
三軒茶屋から駒沢まで歩いて、早朝7時から開いているベローチェで2時間創作。

 「群衆の中の孤独」といったような言い方があるが、どうもざわざわした中、不特定多数の顔があり声がする中でのほうが、集中力が増すのである。精神を集中すると、まわりの音が消える。「いろいろな仕事をやってエネルギッシュですね」などといわれるが、ぼくは本来極めて怠惰な人間である。
 余裕があったら、どこか避暑地でもいって、好きな本を読んだり、自然を眺めたり、昼寝をしたり……で、ぼんやりと時間を過ごしてしまうに違いない。10代の終わり、「作家」を志したときからそうだが、常に怠惰な自分を叱咤激励し、書く方向へ精神を傾注し、集中させるために、一種のセレモニーが必要だった。
 喫茶店をわざわざはしごをして書くのも、そうだし、音楽やコーヒーでまず「雰囲気」を作るのもそう。怠惰な自分にエンジンをかける上で必要な装置である。ワープロ機械を早期に入れたのも、そうである。原稿用紙に一字一字書いていく作業は、そう長くは続かない。現在、ほとんどパソコンで書いているが、これもぼくには「セレモニー」の一環である。

 脚本、ノンフィクション、小説と、3つの分野で書いているのも、本来、自分が「熱しやすく飽きっぽい」ので、そのマイナス面を補う意味がある。
「この道ひとすじ」とか「原理主義者」とは、恐らく対極にあるのかもしれない。
 要するに「アバウト」なのである。子供のころ家で「いいかげんぶし」とよくいわれた。新しもの好きで、すぐ熱中するが、飽きるのも早い。続かないのである。続かせるための「セレモニー」を随所に仕掛けていかなければ、中途で挫折する。
 敢えて「貧乏」になっているわけでもないが、「裕福」でないというのも、ハングリー精神が発揮され、書く意欲につながる。結構な額の年金や株の配当、遺産、家賃収入などが「もしあったとしたら」恐らく日々「楽しく消費」するほうに流れ、結果として何も書かなくなる公算が強い。
(比較をするのもおこがましいが、バルザック、ドストエフスキーなど借金返済のために猛烈なエネルギーを発揮して書いた。広大な農地を所有する裕福な貴族のトルストイは、それでも書いたが、こういう人はぼくから見ると「聖人」である)
 モーツアルトの手紙を読むと、借金の催促ばかり。「芸術家」というのは概して貧乏である。金銭感覚が鈍く、ギャンブルその他で、敢えて「貧乏」になる方向に堕しやすい性格なのだが。

 執筆作業はマラソンや登山などと同じで、決して楽な作業ではない。ただ、仕上げたあとの達成感、充実感は、安易に楽に得た消費の感覚とは違う。汗をかきかき頂上まで登って口にするいっぱいの水は、どんな名水や飲料にもまして「うまい」のである。
 ただ、最近、「頂上」にのぼったあとに飲む水が、あまりうまくなくなった。加齢故の生命力の枯渇なのか。あるいは会心の作が出来ないからなのか。
 現在、午前2時半。このまま起きていて、始発の電車にでも乗って、うだうだ考えよう。本日は終点の東武動物公園駅までいってみようか。60,70分かかるのではないか。
by katorishu | 2005-09-19 02:41
 8月16日(金)
 近々、品川に引っ越すので、終日、その準備。見積もりにきた引っ越し会社の人が、あまりの本の多さに苦笑していた。「これだと段ボール箱200でも足りないですね」。 カミサンの分も含めてだが。。
 かなりの本を処分したほか、すでに八王子に送って保管してもらっているのだが、「断腸の思い」で本を捨てつつ段ボールにいれる作業をつづけた。夜が明け、気がつくとお昼。10時間以上、続けていた計算になる。それでも、まだ一部。足腰が痛むが、良い運動にはなった。
 仕事の必要上、関連図書を5冊、6冊と買うことがあるが、多くは本屋にいき、書き出しや後書き、目次などを読み、ぼくなりに「厳選」して買っているので、1冊1冊に愛着がある。整理をしていると、「これも読みたい、あれも読みたい」という思いがつのり、じつに捨てるのにしのびない。ブックオフは「きれい」な本しか引き取らないので、10年、20年前の本は増え続ける本を前に捨てるしかない。神田の古本屋などを呼べばいいのかもしれないが。
 なかなかこちらの都合の良い日に来てもらえない。

 ぼくなど一種の「活字中毒者」で、本を読まない日は1年365日のなかで、病気などをしたときだけだ。(最近、ほとんど病気をしないので、とにかく暇があれば読む)
 外出の際にも必ず本を重い鞄の中にいれていくし、枕もとには常に数冊の読みかけの本がある。電車の中などで10分時間があれば、本を読むことが多い。
「とにかく、本は面白い」。映像時代だなどといわれ、なんでも「絵」がないと、つまらないと思えてしまう人が増えているようだが、活字の本のもっている「豊饒さ」にはかなわない。なにより「想像力」「空想力」が刺激されると同時に、深くものを考えさせてくれる。

 1冊でも本を書いた人ならわかると思うが、つまらないと思える本でも、1冊を書き上げる労力は相当なもので、著者の「怨念」「感動」「怒り」「喜び」……等々、いろいろなものがこもっている。言葉のことを「言霊(ことだま)」とはよくいったものである。まして「面白い」「感動した」労作となれば、書いた人の心からの思いや、費やした膨大な時間、研究の成果等が、紙背から伝わってきて、卒然となるときもある。

 過日、筑紫哲也ニュースででフィンランドの子供たちの学力の高さ(世界1)についての報告をやっていた。学力の高さの根底にあるのは「読解力」で、それは読書によって養われるとのこと。
 「受験」などに役立つから読むというのではなく、とにかく読書の面白さ、楽しさを子供のうちから身につける教育をしている。「人的資源」しかない国だから、そうしているのだとフィンランドの首相は話していた。
 同じく「人的資源」に頼るしかない日本はどうか。日本の子供の学力は年々後退し、11位であるという。とくに読解力が弱い。大学生などでも、、「次の×項目から選べ」といった「選択方式」では比較的、良い成績をおさめるものの、「これについて思うところ、意見、考えを記せ」といった問題になると愕然とするくらい落ちる。紋切り型、類型的な答えしか出てこない場合が多い。
 創造力、批判力が弱いのである。とにかく自分の意見をいわず、みんなに合わせる人が大人でも多すぎる。自分がこう思ったら、100人が違った意見であっても、「自分はこう思う」と主張する勇気が欲しい。ヒステリックに感情的に自己中心の意見を無理強いするのは論外であるが。
 他と違う意見を述べ、その意志を変えない人は、これまでの日本的「村社会」では、往々にして「奇人」「変人」の部類にいれられてきた。
 先の総選挙で小泉首相への「人気」が圧倒的に高かったのも、多くの日本人と違って「強く自己主張」する点が、「欲求不満」「時代閉塞感」を日々感じている層に受けたのだろう。
 ただ、相手と徹底的に議論して「感情」ではなく「論理」で説得して人気を集めたのならいいのだが、芸能人の人気投票ではあるまいし、テレビ映像で煽りに煽って得られた結果には、ぼくは落胆と同時に深い危惧を感じざるを得ない。

 10数年前に読んだ小泉氏の郵政民営化の本にはなかなか説得力があった。光文社のカッパブックスであったと記憶している。
 総理になってから「殺されてもいい」という決意のもとに打ち出した今度の「民営化」など本当の意味の民営化ではない。骨抜きの「表面的な民営化」であり、財務省の官僚と竹中平蔵氏、それに旧弊な自民党議員の「妥協の産物」でしかない。
 民営化の中身を問えなかった野党第一党の民主党も頼りなかったが。連合などの労組への配慮がきいたのだろう、本来野党が訴えるべき「改革」が完全に小泉首相の「ワンフレーズ・ポリティックス」に吹き飛ばされてしまった。
 それにしても、多くの有権者は、なぜ、こんなカラクリ、騙しを見抜けないのか。本を読まないからである。本を読まないから、想像力、読解力が摩滅してしまうし、批判力も育たない。本を読むとは、世界を批判的に読み解くことでもある。
 
by katorishu | 2005-09-17 19:23
 9月12日(火)
 33,4度の高温の日々が続く。暑いのはどうも苦手だ。クーラーをかけることになるが、自然の気温とちがって、あの冷たさは体になじまない。
 眠りも浅くなるし、脳の働きは鈍化する一方で、執筆作業も進まない。

 午後、六本木の放送作家協会で、「脚本アーカイブ委員会」の会議。放送台本や脚本などは本と違って保存されることもなく、散逸していってしまう。一部マニアか本人は捨てないで持っているものの、当人が亡くなったりすれば、家人は捨ててしまうケースも多い。

 ぼくもかなりの本数の脚本を書いてきたが、今、手元にごく一部の脚本しかない。八王子の実家の倉庫のようなところに段ボールにつめたのを置いているものの、雨が吹き込んだため、傷みも激しいのではないか。もう10年以上、そのまま放置しているので、開けるのが怖い。

 テレビ番組のほとんどは構成台本や脚本がもとになっている。玉石混淆にせよ、これは一種の「文化財産」であるから、これを図書のように保存し、後世の研究などに役立て、「放送文化の向上」に資する……という趣旨で、アーカイブを設立することになった。
 脚本アーカイブ会館の設立なども、将来的には視野においているが、先の先のことだ。台本や脚本は膨大なもので、どうやって集めどう保存し、一般の人に読めるようにするか、委員はこの種のことに「素人」なので、試行錯誤をしながら進むことになる。

 日本放送作家協会が主導することになる。ただ、この協会は会員が月に払う1000円の会費を主体に維持している貧乏団体なので、資金がほとんどない。そこで、文化庁などに働きかけ、ようやく「準備と研究」のための資金が少々おりた。
 それと足立区が区の文化向上のため……ということで区の施設の一室を、「脚本アーカイブ」設立の準備室として提供してくれた。
 10月からスタートする。約20人ほどの委員が、交代で準備室につめて、台本の収拾、管理などをどうしたらいいか「準備」「研究」する。
 全員がボランティアで、交通費とちょっとした日当がでる程度。「文化」は金にならないので、どうしてもボランティアに頼らなければならない。本格的に始動するようになると、ボランティアでは補いきれないと思うが。
 
by katorishu | 2005-09-14 00:21
 9月11日(月)
 総選挙での自民党の歴史的圧勝には驚いた。ぼくは「支持政党」は特になく、その時々で自分の考えにもっとも近い政策を打ち出している党の議員に投票してきた。

 それぞれ一長一短で、全面的に賛同できる党はない。今の日本、表面的に見れば、街も比較的綺麗だし、みんなたらふく食い、衣裳も豊かそうである。海外旅行などにも気軽に出かけていくし、テレビをつければグルメ番組やお気楽は生活情報番組のオンパレード。
 しかし、表面の「豊かそう」な光景の裏では、基幹部分が病み腐っている。
 長年の政官財の癒着の構造でやってきた「日本というシステム」が一種の制度疲労を起こしているのである。
 この旧弊な基盤の上にのっているのが自民党である。小泉氏がいくら「改革、改革」と絶叫しようが、自分たちがよりどころとする基盤を崩せるものではない。そこまで「自己否定」できる集団ではあり得ない。利益分け前集団として長年やってきた政党なのだから。

 本当の改革がそう簡単に進むはずもない。広く深く根をはった「既得権益層」の基盤を崩すことなのだから。日本国民の恐らく3割ほどは、この層にはいるので、そう簡単に崩れるものではない。
 一番の近道は、とにかく政権交代である。政官財の癒着の構造に距離を置いている野党が、政権党にとってかわるだけで、劇的に変わる。
 自民党と民主党は、ほとんど変わりがない、同じ穴のムジナという人がいるが、決定的に違うのは、民主党が政権についていないことである。つまり日本を実質的に統治している官僚システムに距離を置いていることだ。

 一気に急激になにもかもが劇的に変わるはずもない。それはもう「革命」であり、多くの日本人は望んでいない。

 小泉首相は圧勝をうけて、一気に自分の思う方向に日本をもっていこうとするのだろう。彼の狙っているのが、「市民による市民のために市民の政治」でないことは確かだ。
 弱肉強食で強い者はいよいよ強く、弱い者はいよいよ弱く……アメリカのブッシュ政権の追従政策を繰り出すことになるだろう。
 下手をすると「大政翼賛会」の社会になるかもしれない。
 今後の小泉政権の動きを注意深く監視していく必要がある。われわれにとって、なにより大事なのは「言論の自由」である。この自由を規制する法律が「人権擁護」は「個人情報保護」などの美名のもと、次々くりだされる恐れもある。
 そうなったら、正真正銘の「大政翼賛会」であり、日本は危ない。



なるべく血を流さずに旧弊をあらため、21世紀にふさわしいシステムを構築するには、少々の時間もかかる。
 
by katorishu | 2005-09-12 14:21

ボランティア活動の限界

 9月9日(金)
 渋谷で来年上演を予定しているミュージカルの打ち合わせ。まず「上演実行委員会」をつくって、経理などを透明化し、プロの参加者にはそれ相応の謝礼をだす。
 そのための資金集めが肝心である。

 ボランティア活動に頼りすぎるのは問題であることを、最近実感している。アマチュアのイベントならそれでいいが、プロが参加するとなると、ボランティア活動では壁にぶつかるし、参加者の間で感情の齟齬もきたす。
 より高いものを目指すには、プロ意識の横溢した人間が中核をしめないといけない。プロには相応の対価を払うことが必要である。プロはそれを職業にしているのだから。
 もちろん、ボランティアの人たちの協力をあおぐことは、とても大事なことであるが。その限界をよく知って実践に移すべきだろう。

 金銭的、時間的に余裕があり、実践力、能力面でも優れた人となると、残念ながら今の日本には極めて限られた人しかいない。
 ボランティアで「無償」でやっているんだからと、気まぐれに行動されては、事はスムースに進まず、いろんなところで破綻をきたし、後々、しこりを残す。
 今後日本社会がもっと成熟し、高い水準のボランティア活動者が輩出すれば、この限りではないが。

■それにしても、芸能方面に限らず、「人気」ではなく「実力」を兼ね備えた本当意味での「プロ」が、今の日本には少なすぎる。もちろん、自分自身もふくめてだが、たとえプロとしての力があっても、絶えず精進し自己研鑽につとめないと、「プロとしての力」はすり減っていく。
 しかし、いったん「プロ」として認められ、メディア等で人気を得てしまうと、力の減摩に本人もまわりのとりまきも気づかない。

 そういう人間が幅をきかせている分野が、今の日本の随所にある。
 政治家もそうである。人気取りの「政治屋」「目立ちたがり屋」が多く、「ステーツマン」という言葉に値する見識と政治哲学、指導力を兼ね備えた政治家となると、微々たるものだ。
 逆にそういう見識をもった人間が選挙に出ても、落選してしまう。
 まだまだ日本人が「市民」として成熟していない証拠である。

 
by katorishu | 2005-09-10 22:13

李香蘭。読書は快楽

 9月7日(水)
 午後起床するので、食事をして雑用をこなし、数時間原稿と格闘すると、もう一日が終わってしまう。
 仮眠をしたあと寝床で『李香蘭 私の半生』(山口淑子・藤原作弥著)を3分の1ほど読む。この著書が出た1987年当時、一度読んだのだが、忘れていることが多い。
 仕事の必要上、再読しはじめたのだが、過日読んだ『ワイルド・スワン』に劣らず、ドラマティックで面白く、国家と個人との関係を深く考えさせてくれる。

 日本人でありながら、満州映画会社の映画スターとして一世を風靡した李香蘭。実名「山口淑子」。女優誕生に到るまでの足取りを、克明に追っている。まだ5章までだが、今後の展開はもっとドラマティックになるはず。
 中国を舞台にすると、自然にスケールが大きく、悲しみも辛さも深く、山あり谷ありの劇的な展開になる。
 
 戦争は「ごく普通の人間」をドラマの主人公にしてしまうとよくいわれるが、山口淑子氏は「普通の人」ではなく「映画スター」であっただけに、山も高く谷も深い。
 「ワイルド・スワン」ほどの悲劇性はないものの、生まれ育った中国と祖国の日本との間で、激しく揺れ動く人生は劇的であり、この作をミュージカル化した劇団四季の「李香蘭」がロングランをつづけているのも、うなづける。
 このミュージカルを見たくなった。10月に再演するとどこかで読んだので、見にいってみようと思う。

 「男装の麗人」といわれた川島芳子(清朝末期の王女で特務機関員などに利用されたりもした派手で奇異な性格の女性。東洋のマタハリなどといわれた)と李香蘭のの出会いなども面白い。

 目が疲れたので、本を閉じたが、おかげで目が冴えてしまって、すぐには眠れそうもない。
 ただいま、午前4時半。以前はこのまま起きていて始発の電車に乗って、社内で読書をしたり創を練ったりもしたものだが、今、その元気はない。 お茶でも飲んで、李香蘭の続きを読もうか。

 有為転変の人生を綴ったノンフィクションが面白すぎる。想像力を縦横に駆使できる読書が与えてくれる豊かさ、豊饒さを、あらためて思う。
 最近は読書人口が減っているというが、人と生まれてきて「楽しみ」のひとつを放棄したようなもの。もっとも、書店で売られている種種雑多な本の中で、「面白い」と感じられるものは、1パーセントもないのではないか。
 1日に200冊から300冊も出ているというのだから、すべてが面白いはずがない。
 比較的読書家のぼくでも、実際に読んで本当に面白く感動に値する本は10冊に1冊ぐらいか。芝居や映画でも、同じである。
 すべてが面白く感動するものばかりであったら、それにつきあうだけで自分の時間がすべて消費されてしまい、何もできない。もっとも、面白くなくとも役立つ本はあるのだが。役立つことと感動とは違う。今の世の中「役立つ」情報、ハウツーものばかりが流行っているが、本当の感動を忘れている人が多いようだ。

「こうすると感動できますよ」とノーハウを雑誌やテレビなどで教えてもらわないと、感動できないのだろうか。
 なにも海外旅行などにいかなくとも、 読書でも良い作品と出会い、そこに没頭すれば、実人生の感動に劣らないものを居ながらにして、しかも安価に得られるのに。
 読書の面白さ喜びを知らない人間は可哀想である、と本を読まない人にいいたくなる。
by katorishu | 2005-09-08 05:13
 8月6日(火)
 久しぶりに三軒茶屋まで歩く。携帯パソコンや本、資料などをいれた10キロほどもある鞄をもって。最近ではこれがぼくの唯一の運動になっている。
 現在、体重62キロ、身長169、5センチ。20歳のころとほとんど変わらない。「痩せたね」とたまに会う人にいい、病気では……と思っているようだが、体調はすこぶる好調である。

 放送人インタビューの原稿を完成。40枚近くになるのではないか。日本放送作家協会の放送人インタビューに近々載るので、ぜひお読みください。第一回は「北の国から」の演出家の杉田成道氏。
 日本放送作家協会のホームページのURLは以下の通りです。

http://www.hosakkyo.jp/top.html

 あとは資料読みと、若干の原稿執筆。それで1日は終わる。
 帰りがけ久しぶりに回転寿司にはいる。ひところに比べ、ネタがよくなっている。ひっきりなしに客が入ってきていた。外国人とか。目の前には腕に鮮やかな入れ墨のお兄さん。顔が童顔で優しいのが意外であった。
 近所の寿司屋が2軒つぶれたが、わかる気がする。ひところの寿司屋は高すぎた。どんな計算をしていたのかわからないが、「お勘定」というと、間髪をおかず「はい、1万2000円」といったりした。目分量と、客の態度、風体を見ていっているのだろう。
 バーやスナックなどでは、今も、飲み物代がいくらであるかわからず、「お勘定」というと紙に記した数字を出されることが多い。もちろん、居酒屋などに比べると、格段に高い。どういう計算になっているのか。ママの気まぐれで、サービス料プラスいくら……というようなこともあるのではないか。
 ひところは、ぼくも結構「実入り」がよかったので、「ちょっと高い」と思っても言われるまま払っていたが。 最近は「金欠病」という慢性病を病んでいるので、その類の店に顔を出すこともない。
 喜んでいいことなのか、悲しむべきことなのか。いずれにしても、時間はどんどん経過し、次第に「持ち時間」が減っていく。
by katorishu | 2005-09-07 00:53