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下北沢のミニシネマ

 12月30日(金)
 夜20時30分より、シネマアートン下北沢で、「シャウトアブアジア」を見る。在日韓国人の玄真行監督の音楽ドキュメンタリー。シネマアートン下北沢は「すずなり劇場の隣にある小さな映画館で、ぼくは初めていった。
 アジア、とくに沖縄と韓国、中国に住む朝鮮族、それにインドネシアのロック歌手たちが、「シャウトアブアジア」という歌を共同でつくってコンサートに仕上げるまでのプロセスを克明に追っていく。127分の作品。
 
 終わって監督と撮影カメラマンとの質疑応答など。少ない予算のなかで、精一杯の表現をしていたといってよいだろう。忌野清志郎などの有名ミュージシャンもちらちら画面に顔をだしていた。
 すべてが終わると、もう夜も11半をすぎていた。関係者は近くの酒場などにいったようだが、ぼくは終電近い電車で帰る。
 マスメディアにのりにくい作品が、こういう小さな空間で上映されること自体に意味がある。
 東京でもまだごく一部だが、こんな小さな空間が、いろいろな場所に「穴ぼこ」というより「オアシス」という形で生まれ、そこでもっと多くの有為な才能が花開いていくことを願いたい。
by katorishu | 2005-12-31 17:12
 12月29日(水)
 午後、大森駅で鈴木正信さんにお会いし、近くの喫茶店で2時間ほど「取材、聞き取り」作業。
 中国の過去と現在、未来について、意見を交換する。
 小泉政権は中国「敵視政策」に傾いているが、今や両国は「もちつもたれつ」の関係で、経済的に深く絡み合っている。今のこの関係が良いのかどうか、よくわからない。
 このところ、中国関係の本や資料をかなり読み込んでいるのだが、読み込めば読み込むほど、中国人についてのイメージが拡散してしまい、つかみようがなくなる。

 良くも悪くも、大変な国である。しかし、中国の運命が日本の運命にも直結する事態に、ますますなっていくことは否定できない。
 こういう国に対するには、なにより、「大人の対応」「老獪」「老熟」等が必要なのだが、 私見ではどうも小泉首相の対中政策は、以上の観点に欠ける。
 危ういな、と思う。来年はどうなるのか。

 ところで、昨日、報道ステーションで、「小泉チルドレン」と称される20人の国会議員と古舘キャスターのやり取りを見たが、大半は日本の「選良」たるべき国会議員としては、まことに恥ずかしくなるような、軽くて無考えの持ち主に思えた。
 こういう議員が舵取りをする「日本丸」の進路は危うい。もっとも、彼等の大半は「小泉ロボット」であるが。第一、態度、物腰、発言、姿勢等々について、品格がない。今の日本に最も欠けている部分である。

 大井町のブックオフで中国関連の著書を8冊買って帰る。これで2000円にも満たない。本屋や出版社の不況が続くわけである。
 そのとばっちりは、ぼくのような零細な文筆業者に露骨な形で及ぶ。
 眼精疲労もあって、頭の働きも鈍っている。加齢故なのか、時代の空気なのか。それとも……。
by katorishu | 2005-12-30 02:43

ご用納め

 12月28日(水)。
 世の中は「ご用納め」の日。しかし、自由業というか「毎日が日曜日」の職業の人間には関係がない。この25年間、一日24時間、ほとんど自分の裁量で仕切ってきた。従って、人(他人)から自分の時間の使い方を制限されることもなく、ある意味で「動物的」に「自然に」生きてきたのかもしれない。

 本日は午前中に起きたかったのだが、早い時間に間違い電話が鳴ったり、宅配便がきたりと起こされ、寝たり起きたりの連続で、結局、床から出たのは午後2時過ぎ。おかげで、寝床で本を読めたが。
 昼食後、カミサンと品川図書館へ。先日と会わせて本を10冊借りた。3週間借りられるので都合がよい。ほとんどは執筆のための資料。
 2時間ほど仕事をして、更に近くのベローチェで3時間。帰路、北品川の飲み屋で遅い夕食をかねた一杯。どこの飲み屋も混み合っていた。「景気が回復した」との声がマスコミ等で流されるが、実感はない。それでも、暢気に酒など飲んでいる。
 こうやって年をとり、やがて、この世とおさらばしていくのだろう。
by katorishu | 2005-12-29 00:25

忘年会

 12月27日(水)。
 夕方、渋谷で今年数少ない忘年会。7人の小規模な宴会だったが、役者、映画のカメラマン、プロデューサー等「業界関係者」ばかり。平均年齢は60近いのではないか。
 場所は昭和48年開店の昔ながらの居酒屋。壁に昭和30年代初期の渋谷の街の風景を写した写真が何枚も飾ってあった。

 それぞれ豊富な過去があるので、話しははずみ4時間ほどが、またたく間にすぎる。
 ここで話題なった映画に「三丁目の夕陽」がある。昭和33年の日本が舞台で、東京タワーができた年を背景に、懐かしい人間模様を描いていることのこと。実はぼくはまだまだ見ていないのだが。29日にキネカ大森に見に行くつもりだ。

 見た人はとっても面白かったとのこと。今年の日本映画の収穫ではないかと思う。この映画で印象的な演技をした子役は、ぼくがこの夏上梓した「子役という仕事」にも登場している。
 この集まりで初めて会ったドキュメンタリーのプロデューサーから、30日に下北沢で上映される「シャトウオブアジア」という映画と音楽をミックスした独特の作品のことを聞いた。アジアのロックミュージシャンが競演する作品で、面白そうなので見に行くことを約束。見終わって多分また飲み会になる。 27日で、今年の飲み会は終わりかと思っていたのだが、30日も、ということになった。

 話のあう人たちとちょっと酒を飲みながらの論断風発は楽しい。次作へのヒントもいくつか得られた。今の時代、五感のうち聴覚と視覚偏重のメディアが隆盛だが、人間も動物の一種なので、やはり五感を使わないといけない。
 その点、ナローキャスティングが今こそ必要な時はない。テレビやパソコンなどはブロードキャスティングである。つまりブロード(広く)にキャスト(投げる)するメディアである。これに対してナロウ(狭い)は、例えば寄席に代表されるように、演者の息や匂いなどが感じられる狭い空間で行われるものだ。
 飲み屋や銭湯も、その範疇に入るだろう。人と人とのコミュニケーションが希薄になっている時代だからこそ、一層必要であると思う。
 ブロードが広がりすぎることの弊害はすでに出ている。来年も狭い空間での人間的な営為を主体にした作をつくっていきたいということで、意見が一致した。
by katorishu | 2005-12-28 00:31
 12月24日(土)
 クリスマス・イブであるが、キリスト教徒でもないぼくには何の感慨もなく、いつもと同じ土曜日である。
 以前、昭和50年代頃までは、クリスマス・イブは例えば喫茶店に入っても「クリスマス料金」として普段の倍ほどの料金をとられたと記憶している。

 さらに昭和20年代、30年代は、クリスマス・イブといえば大人たちが盛り場で乱痴気騒ぎに興じる日であった。とんがり帽子をかぶった多数の酔い漢が街をふらふらしながら歩いていた。
 クリスマス・イブは「酔っぱらいの日」と子供心に思ったことがある。
 東京オリンピックが過ぎ、団塊の世代が大人になり家庭をもつようになってから、乱痴気騒ぎも影をひそめ、代わりにマイホーム・パパがケーキを買って帰る光景が、クリスマス・イブの定番となった。
 
 そんな「習慣」が今も続いているのかどうか。電車などでクリスマスケーキの包みをもっている人はひと頃に比べると少なくなった。
 そういえば、ひと頃はバーなどでクリスマスが近づくとホステスにクリスマス・パーティ券を買ってくれとせがまれたものだ。ぼくは滅多にホステスのいるバーなどに足を運ぶこともなかったが、一度か二度、高いパーティ券を買わされた覚えがある。
 恐らく「スケベ心」があったからなのだろう。結局、パーティに行くこともなかったが。

 今の大人たちと、クリスマス・イブに乱痴気騒ぎを演じた大人たちと、どっちが幸せであったのだろうか。当時は今と比較にならないくらい物的に貧しかったが、将来に希望というものは今より比較にならないくらいあったように思える。
 昨日よりも今日が、今日よりも明日が、良くなるという思いは大事である。人はどんなに不幸の中にあっても、明日に希望があれば生きられる。逆に現在はそれほど不幸ではないにしても、未来が暗く閉ざされていると、まともな神経をもっていても鬱になってしまう。

 今年も恐らく自殺者の数は3万を越えるのではないか。その社会が健康で良い社会であるか、そうでないかをはかるバロメーターとして、自殺数というか自殺率をあげることが出来る。
 中国でも自殺者の数は20万を超えると、雑誌かなにかで読んだことがある。人口が日本の10倍であるから、この数字を信じるとして日本よりもましということになる。

 中国の統計には信をおけないところがあるので、この数字よりずっと多いのではないかと思われる。アジアの他の国の自殺率がどうなっているかわからないが、少なくともアジアの「大国」の日本と中国で自殺者がかなりの程度にのぼることは、深く考えさせられることである。

 ところで、クリスマス・イブとは貧しい者に持てる者が奉仕をする日ではなかったのか。「若草物語」にはクリスマス・イブにつくったご馳走を、姉妹の誰であったか、あるいは母親であったかが、自分達は敢えて食べずに貧しい家庭の子にもっていく、美しい場面があった。キリスト教徒のもっとも良い部分を象徴しているシーンであったと記憶している。

 クリスマス・イブという日は、ああいう「奉仕」や「自己犠牲」を、子供たちに教える日でもあって欲しいのだが、日本ではこの日こそ、自分たちが存分に楽しむ日になってしまっている。楽しむこと自体はいいとして、「奉仕」や「自己犠牲」について思いをめぐらし、ほんのちょっぴりでもいいから少しは行動で示せば、非キリスト教徒にとっても意味のある日になるのだが。
 テレビをちらっと見たが、クリスマス・イブにちなむ番組はどこもアホらしくて5分と続けて見ていられなかった。ああいう番組を見続けることを「時間の浪費」という。
by katorishu | 2005-12-25 00:52
 12月23日(金)
 ぼくは一応「仏教徒」なので、キリスト教の宗教行事であるクリスマスを浮かれて祝う多くの非キリスト教徒の行いについては、批判的に見ている。多民族、多文化をかかえるアメリカでは、クリスマスを「ハッピー・ホリデイズ」と呼ぶようになっているとのこと。
 ただ、「原理主義的」なものの見方も嫌なので、クリスマスにかこつけて集まるパーティや何かには時間の許す範囲で顔を出すこともある。大事なのは、人と人との出会いである。
 
 本日は押上のデザイナー氏の自宅で行われたホームパーティに行く。カミサンの知り合いで広告関係の仕事をしている人が大半。40代の夫婦が最も多かった。子供も含めて20数人で、その中でぼくは最年長。
 夫婦者は全員、子供を同伴。小学生が多かったが、その元気なこと。子供3人という人が多く「少子化」がいわれる中、意外に思った。
「子供3人という人も珍しくないですよ」と参加者の母親の一人。みんな仕事をもちながら、子育てをしており、たくましい。
 結婚している人は子供を持つ人が多いということか。問題は結婚しない、結婚できない若者層の増加だろう。
 一人っ子は静かだが、兄弟が多いとみんな動物の子供と同じで元気に動き回る。一人昭和30年代によくいた感じの丸坊主の子供がいて目立った。冬でも半袖で通すという。親が指示したわけではなく、本人がそうしているのだという。「目立ちたがり屋だけど、案外、小心なんですよ」と母親。
 子供たちが動物の子さながら激しく動きまわり、大声を出したりして遊んでいる様子を見ていると、日本の将来も「やや安心」という気もするのだが。

 巷には、子供なしの成年男女が多い。そもそも彼等は「ホーム」パーティなどに出席せず、盛り場にくりだすか、家で一人でゲームをするかテレビでも見ているのか、どうか。
 帰宅して見たテレビニュースによると、東京の盛り場の夜は昨日と今日、まるでバブル期を思わせるほどのにぎわいであったという。タクシーがひろえない人も多かったとのことだが、恐らく大都会の一部で起こっている「プチバブル」に違いない。
 地方の商店街など、シャッターをおろした店が相変わらず目立つという。最近、「地方」にいったことがないので、自分の目で確かめたわけではないが。

 シャンパン、ワイン、日本酒などチャンポンで飲んだが、水も多量に飲んだので、それほど酔わなかった。みんな手料理を持参したり、その家のキッチンで自らつくったり。タコスや麻婆豆腐の元となった雲南の豆腐汁等々、初めて食べる料理も多かった。たまには、こういう集まりもいい。今年は忘年会の類にはあまり行かなかった。
 舞台公演の案内がいろいろとくるのだが、すべてにつきあっていると、自分の時間がなくなってしまうので、一部をのぞいて足を運ばなかった。関係者の方々、ご理解ください。
by katorishu | 2005-12-24 00:23
 12月22日(木)
 11時より17時まで脚本家アーカイブスの準備室に。アルバイトのF君と二人。F君は某放送局の「受信料聴取」関連部門(と書いただけでどこの局かわかってしまうが)でアルバイトをしながら、放送作家を目指している。
 とにかく、何事にも好奇心をもって、フットワークよく動くように……とアドバイスをよくしている。希望がかなって欲しいものだが、そう簡単ではない。
 帰路、執筆のため喫茶店に入ったが、睡眠不足なので頭が働かない。昨日なかなか寝付かれず、朝方睡眠薬を飲み3,4時間の短い眠り。早々にあきらめ帰宅し、仮眠をとる。

 テレビのニュースなどで、日本の人口が減少したことを大々的にとりあげていた。地球上に人口が多すぎるので、人口が減るのは結構なことだと思うのだが、日本の場合は、「高齢化」が進んでいるので、早いスピードの人口減は問題を起こす。
 そもそも若い人が結婚をしなくなった。結婚式に呼ばれることは、友人知人、親類縁者を通じても、ほとんどなくなった。
 以前は、いわゆる「出来ちゃった婚」が多かった。とくに結婚する必要もないのだが、子供ができ、おろすのも嫌なので、それじゃ結婚する。第二次ベビー・ブームのころはそんなカップルが多かったという気がする。

 一方で、結婚しても、意識的に子供をもうけようとしてセックスをしたのではないのに、妊娠した。それでは産もう、といった夫婦も多かったはず。 ところで、何かの調査で日本人夫婦はセックスの回数が一番少ないという結果が出たという。先進国の中であったか、記憶が定かではないが、これも少子化に通じている。
 少なくとも、戦後のベビー・ブームのころの夫婦は、そんなことはなかったと思う。恐らく飢えていたようにセックスをしたのではないか。他に娯楽がなかったので、そういうことになったのか。
 
 動物は飢饉などで生命の危機にさらされると、本能的に「種」を残そうとする。種を残すには、性欲が嵩じなければならない。戦後のベビー・ブーム時代や戦時中は、貧乏で飢えており更に生命の危険にさらされていた。「産めよ増やせ」と国家が拍車をかけていたこともあるが、動物の生存の原理に忠実に従って、「渇望感」の強さが「子だくさん」につながっていた。

 今でも発展途上国ほど、多産の傾向が強い。こうした経緯から、「少子化」の原因は、暖衣飽食にあるといえそうだ。人間も動物の一種だということを、多くの人は忘れている。
 日本の「少子化」を食い止めようとしたら、簡単な方法がある。日本を今のブラジルかポルトガルほどの「貧しい」国にすることである。
 一家に一台のマイカーなどとてももてず、せいぜい自転車ぐらいにし(健康にいい)、食べ物も昭和39年の東京オリンピックのころの水準(健康的には理想の食べ方)にもどせば、「種の保存」の原則に従って自然に子供は増える。

 そんなことは「非現実」と思っている方々、今に見ててください、日本はいずれそういう社会になりますよ。そうなるまで惨憺たる状況になるかもしれないが、惨状を克服したとき、日本は改めて「再生」するのではないか。
 今、景気が上昇したとか、株価が上がったとか報じられているが、そんなものは一時的な花火のようなもの。これから5年から10年後に、お隣の中国で混乱が現実化すると、その余波は大津波のように日本を遅う。
 中国を「大破綻」から救うためにも、日本外交はもっと巧妙な外交をやらなければいけないのに、「中国脅威論」にのって、敵視政策をとるばかり。ボーダレス化時代なのだし、国家の壁をお互い低くする方向で努力すべきなのに、政治家はその反対のことをやっている。
 
 その前に「東海大地震」で多くのマンション、戸建てが壊滅してしまうか。例の耐震構造を偽造して建てられたマンションクラスの建物が、都内には無数にあるようだ。一階部分が駐車場になっているマンションをよく見かけるが、危ないなと思ってしまう。素人目でも危ない建物は散歩をしていると、無数に目につく。
 余談ながら、高校時代、「建築家になろう」と思ったことがる。中学のとき、将来こんな家に住みたいと、自分で「理想の家」を設計したことがある。今思うと、まことにいじましい設計であったが。

  生来オプティミストのぼくでも、近頃の「世相」を見ていると、悲観的になってしまう。
 どこかで記したが、昔、ぼくの敬愛する孤高で、かつ無頼派の系列に位置する作家、石川淳は30年ほど前に「そろそろ人類は滅びてもよさそうだ」とエッセイに書いていた。
 博覧強記で人間の本質を見通していた石川淳先生の慧眼は、当たっていると考えるべきなのだろう。

 今夜は久々に石川淳の小説やエッセイを読みつつ、眠りにつこうか。と思ったのだが、引っ越しのドサクサで、本がどこにあるかわからない。あるいは八王子の、以前、大型の犬が住んでいた犬小屋に入っているかもしれない。段ボール箱、5,60箱にビニールをかけてある。それと裏のボロアパート(現在無人で震度5で倒壊の恐れあり)の納戸のようなところにも、何十箱という本や台本がいれてある。取り出すこともなく、朽ち果てるのでは……と家人は思っているのだろう。
 インドかどこかであったら、死んだ場合、そんな本で焼かれて骨にして欲しい、などと遺言をするのだが。
 万が一、書いた本がベストセラーにでもなって多額の印税でも入り、「グランドステージ」クラスの広い住居を買うことができたら、引き取ろうと思って捨てないでいるのだが、これは宝くじに当たるようなものかもしれない。
by katorishu | 2005-12-23 01:52
12月21日(水)
 足立区学びぴあで、脚本アーカイブスの委員会会議。10月から3ヶ月たった準備室の活動の中途報告。みんなボランティアでやっている割には、かなりの成果を出したと言える。
 午後4時からは足立区の関係部署の職員も参加し、会議を続行した。「思っていた以上に、進んでいる」と職員の責任者。
 著作権の問題等、いろいろクリヤーしなければならない問題が多いが、その中で最大の問題は資金である。足立区一区でまかなえる規模ではない。
 テレビ放送がはじまって50数年、膨大な脚本・台本がつくられた。かなりの部分は廃棄されてしまっているが、残っているものでも数十万の単位であると思う。
 原本を保存するとともに、デジタル化して保存し、一般公開するのが理想だが、そのためにはお金がかかる。

 文化庁など国家機関の協力がなければ、とても出来ることではない。
 終わって、忘年会をまなびピアの7階レストランで。
 二次会に、北千住の居酒屋を案内してもらったが、それほど多くは飲み食いしなかったものの、割り勘で一人、1000円。これは安いと思った。さすが北千住、と思った。
 他の盛り場であったら、席料でその程度とる。まぐろの刺身、鰯の丸干し、薩摩揚げ等々、結構つまみもとったし、生ビールや日本酒も飲んだ。
 それでこの値段。北千住が気にいってしまった。
by katorishu | 2005-12-21 23:25

下請けの惨状

12月20日(火) 
 午後2時、起床。だんだん生活時間がずれていく。健康にはよくないのだが、朝方まで起きているので結果としてこうなってしまう。
 食事をして外に出ると、もう日がかげっている。冬の日は早いので、数時間で暗くなる。喫茶店を二軒まわり、4時間半ほど執筆して帰宅。

 ウエッブのニュースに日本のトヨタがGMを抜く、といった記事が出ていた。日産自動車もカルロス・ゴーン氏がやってきて「大改革」をやり、黒字に転じ、繁栄を謳歌しているようだが、その影で「泣いている」多くの下請け、孫請け業者がいることを、忘れてはいけないだろう。

 たまたま親類に、日産の下請けの、また下請けをやっている零細企業者がいる。車のシートをつくっているのだが、とにかく「単価の切りつめ」ばかりをいわれ、利益が出ないと嘆いていた。
 下請けのコストを生存ぎりぎりまで削って「生かさぬよう殺さぬよう」にしておいて、本体は繁栄を謳歌する。苛斂誅求に泣いた江戸時代の農民と領主の関係を思い描いてしまう。
 「いつかゴーンさんが下請けの集まりにきたことがあて、下請けの一人が、あんたのおかげでみんな青息吐息で泣いている。一人だけ、いい格好するな」と日本語でいったそうだ。ゴーン氏は苦い顔をして黙っていたという。親戚の下請け業者から聞いた。
 この構図はテレビ番組制作の現場にも、そっくりあてはまる。

 「国際競争力に勝つ」ためという大義名分で、下請けの犠牲の上に成り立つ繁栄。本社の社員と下請け、孫請けの社員とでは、給料なども大変な差が出ている。
 コストカットを下請けに要請する構図は、例の耐震設計偽造問題と根はおなじである。「いやなら、他に会社はあるんだから」という脅し文句。
 
「村社会日本」も嫌いだが、こういう「儲かりさえば」という構図も嫌である。「他を排除する」日本型村社会と、弱肉強食のグローバリゼーション。この中間の、「節度ある」経済システムというものは築けないものなのか。
ぼくは金勘定にうとい「文弱の徒」なので、素人考えと一蹴されてしまうかもしれないが、このまま貧富の差が開いてしまうことを、強く懸念している。差が開いてそれが、世襲などで固定化してしまうと、社会から活力が失われ、一方、ルサンチマンを抱く人間が増え、社会は極めて不安定になる。

この数年が勝負時であるという気がする。一部の「強者」に都合のよいシステムが「合法的」に出来て「完成」してしまうと、これを崩すのは容易ではない。今、国民の目の届かないところで、着々と「強者」に有利なシステムが出来つつある。
ぼくにいわせれば、国民の圧倒的多数派は、ぼくも含めて「弱者」なのだが、「弱者」のくせに、「強者」と思いこむか、思いこみたい人もかなりいて、彼等は「強者」の「お仲間いり」をしようと、忠犬のように強者に尻尾を振っている。
 その点、猫はあまり尻尾をふらず、「単独者」の趣があって、ぼくなど猫のほうが好きである。「犬族」が多い世の中で「猫族」がもっと増えて欲しい。猫族だからといって、夜起きて昼間寝ているわけでもないのだが。
 朝にならないと、なかなか眠れないのは、一種の宿痾ですね。
by katorishu | 2005-12-20 21:00

寒波到来

 12月19日(火)
 日本列島を異例の寒波が襲ったとのこと。お昼頃まで寝ているので、そんな寒さであるとは気づかなかった。
 午後3時ごろ、外に出たら風が冷たかったが、日差しはやわらかで歩行も進む。20分ほど歩いて大井町駅までいく。スターバックスにはいり、5時間半、創作。コーヒーを何杯も飲んだが、ひとつの店にこれだけ長くいるのは最近では珍しい。
 帰路、最近よく行く安酒場に入ってしまった。

 師走なのだが、「毎日が日曜日」のぼくにはあまり関係がない。書き下ろしノンフィクションは締切があってないようなものだし、ドラマ等はまだ企画が通っていないので、書く態勢は整っているのだが、頭のなかであれこれこねまわしているだけ。小説も執筆しているが、直近に締切があるわけではなく、ゆっくり散歩をするような気分で書いている。
 こういう仕事のやり方をしていると、必然的に収入が途絶えてしまう。貯えがあるわけでもないので、慌てないといけないのだが、生来、小心ながら暢気な性格なので、なんとかなるさ……と構えている。

 ところで、例の耐震設計偽装問題だが、今表に出ているのは氷山の一角だという気がする。ヒューザーはじめ関連会社は小泉首相が所属する森派の政策研究会に660万円の政治献金をしているとマスコミが報じていた。
 ヒューザーの社長とともに国土交通省に赴いた伊藤公介代議士は森派に属しており、元国土交通省の大臣だった。
 過日の証人喚問でも、自民党議員の質問は大甘であったし、今後、政治家がらみの醜い関係が出てくる可能性が強い。

 ネットには首相秘書官の飯島氏が、マスコミにこの問題をあまり追究するなと圧力をかけていたとの情報が載っていた。どれほどの信憑性があるか定かではないが、ありそうな話である。
 政府は阪神淡路大震災の際「個人資産」には国が保証しないとしていたのに、今回は異例の早さで「保証」を打ち出した。
 「被害者」には気の毒だが、国民の公平感にかかわることでもあり、それも問題だが、ヒューザーはじめ関連業者が「真相」を暴露することによって、困る政治家がいるのではないか、と疑ってしまう。
 検察、警察は徹底的な捜査をし、「一党独裁」によって日本社会の随所に生じた「膿」を出してもらいたいものだ。
 だが、恐らく、適当なところで、ホコを収めてしまうのだろう。この問題に限らず、いつぞやの自民党首脳への歯科医連盟からの1億円献金にしても、おざなりの追究で終わってしまいそうだ。
 
 一つの党や勢力が長年にわたって権力の座に居座ることの弊害は大きい。「権力は腐敗する」は洋の東西を問わず真理である。 
 なのに、テレビを利用した「小泉マジック」とやらに、簡単にだまされる多くの国民。まだまだ、この国には「民主主義」は根付いていないと思う。
 中国などよりはマシかもしれないが、いわゆる先進国の中では、「長いものにまかれる」人間の比率が一番高いのではないか。
 
 封建時代に根付いた「世間」を気にする体質が、連綿と続いているのだろう。世間を気にし、世間から後ろ指をさされないような生活をするということは、悪いことではないが、過度に世間を気にするあまり、たとえ自分自身の意見、見解があっても、それを表明しない人が多い。表明をぜず、押し黙って耐えていると、そのうち意見や見解をなくしてしまう。異論、反論をもちながら、それを押し殺しているのは、精神衛生に悪いし辛いので、そういう見解を持つこと自体を放棄してしまうのである。

 言論の自由がかなりの程度保証され、情報も比較的得やすい環境なのに、恐らく精神的に怠惰なのか、あるいは急がし過ぎるのか、自ら一次情報を得ようとせず、テレビなどの口当たりのいい可もなく不可もない情報で事たれりとしている。
 そうして「勝ち馬」に乗ろうとする。

 「勝ち馬」に乗るのもいいが、強い者になびく者が多ければ多いほど、権力者や金持ちにとっては御しやすい社会になる。「勝ち馬」に乗るというのは、強者に媚びることであるのだから。
ぼくやぼくの周りにいる人はどうも「負け馬」に乗ってしまう傾向が強いようだ。 かくて、もろもろの権力からは排除され、金に縁もない。
 ただ、歴史を読むとよくわかるが、本当の意味の「改革」「変革」は、「負け馬」に乗った人たちから生まれてくる。
 「負け組」「負け馬」「負け犬」の範疇に入る皆さん、めげずに頑張ってください。未来はあたなたちの手にあるのです。
by katorishu | 2005-12-20 00:54