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 3月30日(木)
■NGO・NPOと宗教を結ぶ市民フォーラムというのにいってきた。全8回シリーズの7回目で、場所は青山の梅窓院。臨済宗の僧侶で芥川賞作家でもある玄侑宗久氏が「ボランタリズムから遊戯(ゆげ)へ」という題で講演した。
 ボランティアとは西欧のキリスト教の発想だが、これを受け入れたアジアでは東洋のボランタリズムがあるのではないかとして、極めてユニークな論を展開、蒙を啓かれる思いがした。

■ボランティアには3つの柱があり、ひとつは「自由意志」ひとつは「無償の行為」ひとつは「福祉目的にかなっている」であるが、日本の特に行政サイドでは「無償の行為」が浮き立ち、「自由意志」という点がないがしろにされている。ただ、「自由意志」というものも怖いもので、自分が「正しいこと」をやっているという思いこみが、当人が気づかぬうちに傲慢さをもたらしてしまう……等々、示唆に富んだ話をしていた。
 簡単には要約できないほど、多方面にわたり具体例をひいて、説得力のある論を展開していた。キリスト教文明には「スタンダード」があり、それは絶対的に良きもの(WELL)であり、例えば「福祉」という言葉も、英語ではWELFAREあるいはWELLBEINGと書き、人が「良きこと(WELL)」をしているという前提がある。

 そしてプロジェックションとコントロール、つまり予測してこれをコントロールするという基本概念があり、「ムダ」を省こうという合理主義がある。別の言葉でいえば「因果律」でものをとらえようとする。しかし、これを徹底すると「遊び」がなくなってしまう。鳥はさえずっているが、じつはなぜさえずっているのか、わかっていない。
 さえずりを、遊び心ととらえ、論理的に説明せず、あるがままを受け入れる。それが東洋の考え方である。

■要は東洋的なボランタリズムは「遊び心」であり、あなたのために私は良きことをやっているのですよ、というおしつけがましさを排するところに成り立つのではないか、ということだ。お互いが「楽しい」ということが、大切である。だから、ボランティアは「遊戯」の精神が必要である。
 なるほど「遊び心」が大事であり、いまの社会にもっとも欠けていることではないか。とくに教育現場に仏教のいう「遊戯」の精神が欠けており、因果律による西欧的な「規律」「規則」がはいりこみすぎている。
 日頃、宗教にあまり感心をもってこなかったが、この方面の勉強をしてみたい気持ちにかられた。たまにはこの種の集まりにも顔を出してみるものである。
 
by katorishu | 2006-03-31 03:01
 3月29日(水)
■世の中、「便利に便利に」という方向に流れていっているが、果たしてそういう方向に何もかもが怒濤のように流れていっていいのだろうか、と最近感じている。便利ということは「お手軽」の意味もある。情報はインターネットで、移動は車で、考え方、生き方はマニュアル本で……生きてから死ぬまで、「便利」なものの氾濫の中で暮らしているのだが、どうも便利さは、「生き甲斐」や「感動」につながっていかないようだ。

■むしろ「便利」さを排したところに感動や生き甲斐があるといってもよいくらいである。山に登るのに、便利なケーブルカーや車で登るのと、麓から歩いて登るのとでは、頂上に着いたときの感動は格段に違う。
 便利さのお陰で、われわれの周りには物があふれかえっており、物を手にしたときの感動が低下している。これは、もしかして加齢が原因かもしれないが、感動が本当に少ない。他人を見ても素直に感動している人を見ることも、少なくなっている。
 自然からあまりに離れすぎた生活をしているせいなのか。他人様は、日々どんな思いですごしているのか、一度本音の本音を聞いてみたいものである。

■携帯端末向けの地上デジタル放送「ワンセグ」が4月1日から始まる。これも「便利」さの最たるもののようで、移動中でも鮮明なテレビ映像が楽しめるのだという。さらにデータ放送からインターネット経由で番組の関連サイトなどにアクセスできる。
 つまり、「放送と通信の融合」というのだが、果たして「見るに値する」内容があるのかどうか。
 電気メーカー等は、熱い期待を抱いているようだが、移動しながらテレビ等を見なくてもいいと思うのだが。
 何か大事なことを忘れたまま、人間社会の歯車はどこか妙な方向に回転していっている、という気がして仕方がない。

■本日、脚本アーカイブズの委員諸氏と文部科学省にいき、小坂大臣に面会。脚本アーカイブズの趣旨には大賛成とのことであったが、お金の問題となると、そう簡単ではない。旧文部省は虎ノ門にあったのだが、東京駅の近くに移っていたのですね。
 世の中、悲しくも辛く淋しいことに、ゼニがなければ人も物も動かない。
by katorishu | 2006-03-30 02:22

自殺と人間

 3月28日(火)
■ろくに桜を見ないうちに散ってしまいそうだ。
 大森で、日中のはざで有為転変の人生を送った鈴木さんとお会いし、ノンフィクションの打ち合わせ。中国の現状と今後について意見を交換する。中国も極めて危ない時期にきているという点で意見は一致。13億の人口をかかえる大国の動きから目を離せない。

■例の偽設計図問題の姉歯設計士の夫人が自殺したとトップニュースで報じていた。殺人も、おぞましいが、自殺という「殺人」も、とくに本人の心境を思うと、なにやら暗い気分になってしまう。子供がいるそうだが、これからの先の人生、どうなってしまうのか。想像するだけで胸が痛む。

■これまで何度か、見知った人の自殺の報を聞いたが、その度に「万物の霊長」である人間の作り出す社会って、なんなのだろう、と思った。
 動物は自殺はしません。最近、ときどき深夜のケーブルテレビで「アニマルプラネット」という動物番組を見る。BBC制作の動物番組が多いが、見ていると、いろいろ考えさせられることが多い。命とは何かからはじまり、人間とはなんなのか……にいきつくのだが、結論は「よくわからない」である。
 他の多数の動物にとって、人間は悪魔、怪物そのものです。幸か不幸か、自分もその中の一匹に生まれついてしまったわけだが。
 いがみあい、傷つけあうことが、あまりにも多すぎる。人口が適正規模を越えたことも、理由のひとつかもしれない。

■作家村上龍氏のメルマガで、エコノミストの何人かが、団塊の世代の退職問題で、かなり甘い見通しを記していた。エコノミストというのは、どうも、あり得るケースの中で都合の良い部分をとりだし、こうなりますよ……と語り勝ちだ。悪い見通しを出すと、株価等に悪影響がでる、と思いこんでいるかのようだ。一方、宗教者は例外なく、起こりうるケースのうち「もっとも暗い未来」を指摘する。
by katorishu | 2006-03-29 00:52
 3月27日(月)
■昨日は世田谷で「ジョイントゼミ」。会場の鎌田地区会館にいくまで、バスを降りてから40分もかかってしまった。二子玉川からちょっと先の多摩川沿いだが、道がくねくねしていて番地も順番になっていないし、商店街もなく、どこか地方都市の新開地、僻地という雰囲気だった。まだ、東京にもああいうところがあるのですね。発見でした。

■土曜日、春の陽気に誘われ日比谷までいき「日比谷シネシャンテ」でアメリカ映画『クラッシュ』を見た。今年のアカデミー賞受賞作である。ロサンジェルスを舞台にイラク人、黒人、メキシカン、刑事たちが織りなす、人種差別と偏見を主題にしたヒューマンドラマ。群像ドラマであり、9,11以降のアメリカの現実をうまく浮かびあがらせていた。
 ヴィム・ヴェンダース監督の映画とともに、続けて見たアメリカ映画2作に感銘をうけたことになる。いずれも、ブッシュ政権と彼の取り巻き連中がつくる「リッチなアメリカ」ではない、多くのアメリカ人の生活の現実が描かれている。
 車、ピストル、多文化多人種。それがアメリカのキイワードであり、巧みな構成でそれらをとりこみ、最後まで引っ張っていく。『ミスティックリバー』に匹敵する佳作だと思った。
 なにより脚本がいい。映画もドラマも脚本がすべてを決するということを、改めて思い起こさせてくれた。
 それにしては脚本家は、特に日本ではあまり恵まれないようです。ぼくの同業者たちも悪戦苦闘して、労多くしてなんとやら……と嘆き節がよく聞こえます。

■シネシャンテは宝塚劇場の地下にあり大画面なので、迫力があった。映画館にはいる前、劇場前には200人は超すかと思われるオバサンの群れ。宝塚劇場の公演が終わった直後で、出てくるスターをまちかまえているのだろう。50歳前後の女性が圧倒的多数だ。
 宝塚の公演は20年近く前、汀夏子の公演を一度見ただけだ。ぼくの書いた昼帯ドラマに彼女がレギュラー出演していたので、その関係で渋谷公会堂に見にいった。ほとんどか彼女のファンで、ちょっとした動作、台詞に、みんな拍手喝采するのだが、こちらはどうも拍手できなくて、汀さんには申し訳なかったが、手をじっと膝の上に置いていた。
 しかし、ファンというのはありがたいものですね。「お客様は神様です」といった演歌歌手の言葉は真実です。

■本日は品川神社にいったあと、品川図書館と、近くの喫茶店で計6時間、執筆。それで脳の疲労は極限に達した。帰路はカミサンとふらっといつもいく安居酒屋に。50台後半の客が圧倒的に多い店で黙って坐るとボトルキープしてある焼酎が出てくる。いつの間にか常連になってしまった。注文するものも、肉じゃがや冷や奴、キャベツの味噌炒め、ウドの酢みそといった類のもの。最後に鮭おにぎり。

■カネはないが、そこそこ健康で仕事が出来る「平和なニッポン」にとりあえず、感謝するべきなのだろう。ただ、最近気になることは「言論統制の波がひたひたとやってきていると思われることだ。日曜日のテレビ朝日のサンデー・プロジェクトで3回連続で特集するので、その一端をうかがい知ることができる。
「共謀罪」など一連の「言論統制」につながりかねない法律が今国会で、多くの国民の知らない間に通ってしまいそうなのである。番組では尾行、張り込みなど公安警察の現状をルポしていた。公安は起訴は問題ではなく、国家権力に刃向かう者をとにかく逮捕して、関係者にガサイレし関係資料を押収することが最大の目的のようだ。
 水面下ではこういうことが行われているのだが、圧倒的多数の国民は気づいていない。

■公安警察は「闇の勢力と同じだ」と新右翼の鈴木邦男氏などもインタビューで語っていた。
 今の日本は前期ファシズムである、と元外務省職員の佐藤優氏はどこかの雑誌に書いていた。国民の知らない間に通る法律は怖い。監視の目をしっかり開けていないと、気づいたときはクビに真綿がまとわりついている……。
by katorishu | 2006-03-27 23:58
 3月25日(土)
■物事、特に数字を伝える場合、誇張したり逆に過小にしたりする場合が多い。よく反政府系の集会やデモについて、「主催者側発表」と「警察側発表」では倍ぐらい違うケースがある。
 「南京大虐殺」の被害者数なども、日中の学者研究者によってかなりの差がある。当初、3万人といっていたのを、10万20万と増えて30万というのが今の中国当局の「公式見解」である。一方、そんな多くの「非戦闘員」があの当時、南京城内にいたはずがないという意見が日本の研究者、ジャーナリストなどから出て、まだ論争は続いている。

 戦時中の、それも公式の記録が残っていない出来事について、特に「数字」を特定することはむずかしい。しかも、何十年という時間がたってしまうと、関係者の記憶も曖昧になる。
 3月24日、興味深いニュースを読んだ。
 第二次大戦中、リトアニアの領事代理として、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して多くのユダヤ人を救い「「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関することである。

■氏は「6000人」のユダヤ人を救ったとされ、映画やテレビドラマになり、「日本の誇るべき人」として世界に広まっている。杉原氏は本庁の了解ももとめずユダヤ人にビザを発行したことで外務省から「懲戒処分」された、と杉原氏関係の本ではなっているが、このほど政府は、「定説」であった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。
 24日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示したとのことだ。
『1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため47年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。
 これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした上、杉原氏は「47年6月7日に依願退職」したとしている。
 退職理由をめぐっては、91年に外務省が「終戦直後の人員整理の一環だった」と表明し杉原氏の名誉回復を図っているが、答弁書は「確認するのは困難」とした。
 また杉原氏が実際に発給したビザについては「保管文書では、杉原氏は『リトアニア人とポーランド人に発給した通過査証は2132件、そのうちユダヤ系に対するものは約1500件と推定される』と報告している」と明記した。』(共同)

■ぼくは杉原千畝氏についてのラジオドキュメンタリーに関わったことがある。構成者として昭和が平成にかわる時期にかかわったのだが、そのときのタイトルは、『ユダヤ人を救った1500枚のビザ』であった。この作は平成元年ラジオドキュメンタリー芸術作品賞を受けている。
 当時調べたり、杉原氏夫人にインタビューした(これは別の方がした)範囲では、「救ったユダヤ人の数は1500人ほどであった」ということだった。
 この作あたりが契機となり杉原氏の名は次第に世間に知られていき、夫人および関係者が著書をだし、映像化したりして今や教育の現場でも語られる著名人となっている。

■ところで、杉原氏本人は生前、ビザ発給のことを公にすることはなかった。第二次大戦後、杉原氏夫妻と数ヶ月起居をともにして日本に帰還した人にルーマニア人のタチヤーナさんという人がいる。タチヤーナさんは戦前、ルーマニアで日本人駐在武官と結婚し、その縁で戦後、日本に住むようになったのだが、タチヤーナさんは杉原氏の「美談」や終戦前後の杉原氏について、
「あまり良い感情」をもっていないようだった。
 じつはタチヤーナさんは、ぼくのロシア語会話の先生でもあり、以前、ノンフィクションの取材のとき、直接、杉原氏のことを聞いたことがある。

■杉原氏が「美談」に値することを行ったことは事実であるが、ぼくは数字がちょっと気になった。当初「1500枚」が、「4000枚」から、さらに「6000枚」にと、どうしてふくれあがっているのか。杉原氏は現在、イスラエルから「諸国民の中の正義の人賞」を受賞しており、イスラエルやアメリカでは「英雄」である。
 ところで、杉原氏関係の著書の巻末に杉原氏の経歴が載っているが、なぜかぼくがかかわったラジオドキュメンタリーの『1500人のユダヤ人を救った1500枚のビザ』は省かれている。ほかの著書などは記されているのに。
 一応、「芸術作品賞」をとった作なら、載せると思われるのだが、1500では都合が悪いと関係者が思ったのかどうか。残念ながら、そのときの杉原氏夫人の声を録音したテープや資料類はどこかにまぎれこんでしまい出てこない。
 杉原氏の件については、ユダヤ系アメリカ人の女性研究者からインタビューを受けた。その後、彼女は労作を本として仕上げ、贈っていただいたのだが、きちんと読む時間もないまま引っ越しなどのどさくさにまぎてれ、本がどこかにいってしまった。(部屋は資料類はごったごたなのです)

 1500人がなぜ6000人に増えてしまったのか。数字の誇張があったのか、なかったのか。あるいは、「新資料」が出てきたとでもいうのか。
 今回、外務省で出した「答弁」の内容は、平成元年当時、ぼくも把握していた。関係者はどうしても「期待値」が加わるから、「数」が実際より、上回ったり逆に下回ったりする。
「美談」の背後には何かがあり、作られたもの、仕掛けられたものが多い、というのが、ぼくの基本認識である。一人の人間をとっても、多面性をもっており、「悪そのもの」がいないのと同様「善そのもの」もいない。
 別に杉原氏の業績にケチをつけようというのではないが、南京大虐殺などの問題で「悪の数字」が変わっていくように、「善の数字」もかわっていくのだなア、と思ったことだった。
by katorishu | 2006-03-26 15:14

ラジオドラマは奥が深い

3月24日(金)
■乃木坂の「はあといん乃木坂」で日本放送作家協会の理事会。月1回行われいつもは六本木の事務局内だが、本日はそのあとのイベントがあるので、乃木坂で開催。
 16時から引き続き同じ建物内で「第34回創作ラジオドラマ脚本懸賞」公募の「贈賞式」。優秀賞の一人と、佳作の二人に賞が贈られた。大賞は30代半ばの女性。佳作は40代の主婦と30代の予備校講師。そのあと立食の地味なパーティになったが、3人とも挨拶がとてもうまかった。手練れのプロのようなうまさではなく、初々しさの中にユーモアを織り込んでしゃべる。脱線しがちなぼくなど真似ができない。

■ラジオドラマを聞いている人はマニア的な人に限られてきているようだが、意外に深い世界を描ける。(現実に放送されている作品が深いかどうかは別にして)テレビが現れる前はラジオが主役で、連続もの単発ものを問わずラジオドラマが毎日のように放送されていた。芸術的深い内容のものもあったが、大半は娯楽作品だった。例えば『君の名は』など、放送当時「風呂屋が空になる」といわれたほどだ。夜の8時台であったと思うが、その時間国民の多くが「風呂にいく」のをやめて聴き入ったのである。よく古き時代であったといってよいだろう。
 ぼく自身、記憶に残っているのは、第一回江戸川乱歩賞の受賞作『猫は知っていた』(仁木悦子)。確か連続ドラマで放送されており、猫の鳴き声が最初にはいり、それを聞いただけで怖かった。
 
 当時の視聴者は、みんな台詞と音楽、音で強くイメージを喚起させ、ドラマの世界にひたり、主人公と共に笑い共に怒り、共に涙したりした。受容力がそれだけ強かったのではないか。
 今、ラジオドラマを聴いて、当時の人たちのように「感受する力」があるかどうか。ラジオドラマは音だけでイメージを喚起しなければならないので、受け手の「イメージ喚起力」が影響する。感受する力がなければ、作品の良さなど味わうべくもない。

 イメージ喚起力に頼るということは、それだけ「抽象性」が高い証拠である。ラジオを「古いメディア」と考えている人がいるかもしれないが、とんでもない。「可能性のメディア」と敢えて呼びたい。さらに抽象度が高いのが活字で書かれた小説等であるが、こちらも、受け手の感受力が劣化しているようで、内容を十分に読み取れない人が増えているようだ。

 イメージを豊かに喚起する力がなければ、「猫に小判」である。ラジオと活字。ともに抽象度が高いメディアなので、より深い表現が可能なのだが……。
 現状は淋しい限りである。「映像時代」とやらでこの二つが軽視されつつある傾向はよいことではない。言葉や音を軽視するところからは、豊かな映像表現も生まれない。
 ラジオドラマをたまには聴いてみてください。残念ながらNHK以外はほとんど枠がありませんが。ラジオドラマがもうすこし見られるようになれば……というぼく自身、最近ほとんど聴いていないのですが。
 これを機会になるべく聴こうと思っています。
by katorishu | 2006-03-25 00:06

散歩の日

 3月23日(木) 
■12時起床。近頃ではわりと「早い」起床である。早寝早起きが体にいいのだが、どうしてもその逆になってしまう。この点では意志薄弱なのかもしれない。
 書くことに関しては割合しぶといのだが。本日は以前書いた「大長編」を半分に縮める作業をした。注文されて書いた作ではないので、どこかで出してくれるかどうか。短くしたといっても上下二巻になってしまう。

■天気がよかったので、20分ほど歩いて大井町駅近くまで。コーヒー店で5時間ほど執筆。世界からややはずれている気分になることもある。
 定年退職で年金生活をしている諸兄は、どんな気分で日々を送っているのだろうか。最近、あまりそういう人と会わないので、よくわからない。
 病をかかえていたり、家にじっと蟄居している人もいる。かと思うと、社会の第一線で活躍している人もいる。人さまざまだが、「生涯現役」というのが望ましい生き方だろう。
 
■聖路加病院の院長の日野原氏は90歳を越えているのに、現役で日々忙しい時間を送っている。若いし脳がしっかりしており、目指すべき生き方の「模範例」である。
 寿命や若さは遺伝子で決まる部分も多いが、食べ物と体を動かすこと、つまりエネルギーをいかに摂取し、いかに消費することであると、日野原氏はいう。
 野菜や穀類中心の食生活にし、太らず痩せすぎず、日々希望を持って生きる。そうすれば、人は90歳ぐらい十分に生き生きと生きられるはずである。

 見回すと、中年以降の人間に「小太り」「もっこり腹」の人がなんと多いことか。50の半ばを過ぎた人で、太っていて健康な人を寡聞にして知らない。
 限られた地球資源を、すこしでも維持していくために、昭和39年の東京オリンピックのころの食事にしたいもの。地球資源の保護という意味なら、最大の「貢献」は早く活動を停止し灰になることかもしれないが、「これをいっちゃあおしまい」ですね。
by katorishu | 2006-03-24 01:50

「戦争 ラジオ 記憶」

 3月22日(水)
■勉清出版から『戦争 ラジオ 記憶』という本が届いた。国際日本学研究センターに所属していた3人のメディア研究者がまとめた労作である。その中の「ラジオ著作研究シリーズ」の章に拙作『もうひつとの昭和』がとりあげられており、「自著を語る」を執筆した関係で、送ってきたのである。
 今はテレビ、そしてインターネットの時代だが、つい50年ほど前までは新聞とともにラジオがメディアの主役だった。ぼく自身の体験からいうと、ラジオのほうがモダンでずっと知的であったなと思う。今のテレビは、ほんとに「ダサイ」「品がナイ」。20本に1本ぐらいは「見るに値るす番組」もあるが、ほとんどは時間の無駄。特にゴールデンアワーと深夜に流される番組を見ていると、日本人て、こんなに品のない民族だったのかな……と思えてしまう。(ぼくが品のある人間かどうかは別にして)。「ながら族」なのでラジオは子供の頃からよく聞いていたが、もっと知的で品があったと思います。もっとも、古い記憶なので、ぼくの脳内で「美化」していることもなきにしもあらずですが。

 ところで、「20世紀はラジオの時代」といわれたほどで、政治、社会、文化に強い影響を及ぼした。本書では、「東アジア」と「戦争」に焦点をあて、ラジオが「電波戦争」としてどういう役割を果たしたかを、貴重な資料をもとに解析していく。堅い研究論文と一般書の中間を目指したと著者は記している。大著で3500円と定価も高めですが、今のテレビやインターネットというメディアの原点がここにあるという気がします。興味のある方はぜひお読みください。

■ 衆院懲罰委員会で元民主党員の永田議員が謝罪したとのことだが、彼に偽メールをもちこんだ「フリーライター」の名前は明かさなかった。週刊誌ではとっくの昔に明かしているのに。明かせない特別の理由(金銭の授受等)でもあるのかと勘ぐられてしまう。
 民主党内からも辞職の声が出ているというし、どうも最悪の選択をしそうだ。偽メールとわかったとき、前原党首ともどもスパッと辞めていれば、まだ浮かぶ瀬もあったのに。「政権交代」が必要で、民主党にしかその役割が果たせないので、消極的ながらも支持したかったのだが、ダメですね。マス(大衆)の心をとらえなければ、政治家としては落第です。

 大事な案件がひかえているというのに、これでは与党を追究できず、「小泉翼賛体制」が強まるばかりだ。「格差社会」等をつくったのは、必ずしも小泉内閣だけの責任ではなく、旧大蔵官僚や1990年から97年ごろにかけても政権担当者にも責任がある。
 しかし、小泉内閣が日本の「アメリカ化」の傾向を助長していることは明らかであるし、一人の日本人として賛成できない。もちろんアメリカの良さはいろいろとあるし、採り入れるべき点も沢山あるが、日本には固有の文化、伝統があるし、守っていかなければいけないものが沢山ある。車などに乗らず自分の足で町を歩けば、「日本が壊れつつある」ことがよくわかる。

 壊して変えていかなければならないものは、もちろんある。「世襲議員」などその典型だが、これは強固になっている。「壊すべきもの」が、より強固になって、壊してはいけない文化や伝統が壊れていく。
 今の日本が一番だとして「我が家の春」を謳歌している人には「何をかいわんや」である。そういう人には「おごる平家は久しからず」という言葉を送りたい。
 
by katorishu | 2006-03-23 00:35

王貞治監督

 3月21日(火)
■国別対抗野球大会で、日本チームが優勝した。「誤審」騒ぎなどもあったが、決勝に進出して強敵キューバを破った。テレビ中継を見たわけではないが、耳や目を覆いたいニュースが続く中、久々に明るいニュースだった。
 以前は高校野球をふくめプロ野球をよく見たものだが、この10年ぐらいプロ野球にまったく興味を失っていた。プロ野球ニュースがはじまるとチャンネルを変えていた。
 プロ野球をよくテレビで見ていたころは、今回のチームの監督を務めた王貞治が現役選手として活躍していたころだ。王の逆転ホームランは、気持ちをスカッとさせた。パフォーマンス上手の長島茂への人気が高いようだが、ぼくは遙かに王選手の求道的な姿勢を高く買っていた。

 エース兼4番バッターとして春の選抜大会に出場し、ノーワインドアップで早実を優勝に導いたときの試合はラジオで聞いていた。
 新宿にある王の実家の中華料理屋にわざわざ食べにいったこともある。高校2年のときクラスに早実から編入してきた生徒がいて、彼は早実の野球部だった。上級生の王にかなりしぼられたと話していたことを記憶している。そういえば彼の苗字は「川上」だった。

■王、長島が活躍し「時代のヒーロー」であったころの日本が、一番良い時代であったのかなと思う。社会が今と比べてずっと「単純」であり、若い人が人口の圧倒的多数を占めていたこともあるが、活気に満ちていた。
 江川が違法すれすれのことをしてジャイアンツに入団したころから、プロ野球への興味を失った。あのへんから、日本社会は「豊か」になったのだが、かわりに何か大事なものが欠け落ちていったような気がする。

 読売新聞がジャイアンツをつかって拡販競争に走った時期に重なる。アメリカの占領政策によってまいたタネが実ってきたということもできる。つまり日本のアメリカ化である。
 アメリカ映画やアメリカ文学などには、好きなものが多く、アメリカそのものは嫌いではないが、「ブッシュのアメリカ」には嫌悪を覚えてしまう。
 それはそれとして、今年は一度ぐらい東京ドームへ足を運んでみようかと思っている。王の現役時代の爽快さは味わうべくもないだろうが。
by katorishu | 2006-03-22 04:18

アメリカ映画のすごさ

 3月20日(月)
■久しぶりに銀座にいった。松屋デパートで開かれている森小夜子氏の人形展「民族の賛歌、ときをこえて」を見るため。京都嵯峨野に在住の人形作家で、アジアの少数民族に似せた独特の雰囲気の人形をつくりつづけている。去年は中国楼蘭がテーマであったが、今年はタイ奥地の少数民族がテーマ。以前、NHKの人形教室の番組に講師として出演していたので、記憶にある方も多いかと思う。売約済みも多く、人気の高さが伺えた。

■ついでに和光裏の銀座シネスイッチで映画を見る。「アメリカ、家族のいる風景」。ヴィム・ヴェンダース監督、サム・シェパード脚本・主演。「パリ、テキサス」以来20年ぶりのコンビで、制作された映画。今はすっかり落ちぶれてしまったかつての西部劇スターが、新作の撮影現場から突然姿を消し、30年ぶりに故郷を訪れ、老いた母親に再会する。そこで20数年前、彼の子供を身ごもったという女性から連絡があったことを打ち明けられる。彼はモンタナにいき、その女性と息子、そうしてまた別の女に生ませた娘と会う。
 すでに男は60歳過ぎ、自分の人生を振り返って、そこに何の意味も見いだせなくなり、突然撮影現場から姿を消したのだが。
 男を演じるサム・シェパードの渋く、独特の表情、皺の寄り具合等々。さらに彼の実の妻でもあるジェシカ・ラングの名演技がすごい。男の孤独感、寂寥感が画面から強く漂い、胸に迫る。カントリーウエスタン調の音楽や、小道具の使い方も秀逸。

 ハリウッド映画特有のご都合主義や華やかさは微塵もなく、風景は荒涼としている。アメリカというと、ニューヨークやロサンジェルスの印象が強いが、砂埃の舞う郊外の町こそが、アメリカであるという気分にさせる。日本映画だと、べたっとした感じになりそうな「親子関係」を、クールに、しかも暖かく描いている。
 見終わって、ジーンと胸に迫るものがあった。脚本、演技、監督の持ち味が存分に出た映画として堪能した。さすがアメリカ映画であり、奥が深い。同時に、映画はやはり暗い映画館で見ないと、本当の良さはわからない、と思ったことだった。4月17日まで上映中です。「家庭劇」の変種だが、親子関係をあつかったものとしては、スペイン映画の傑作「オールアバウト・マイマザー」を見たとき以来の感動を覚えた。見て損はないですよ。
by katorishu | 2006-03-21 04:19