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 9月29日(金)
■午前中、脚本アーカイブズの件で足立区役所へ。昼食をとるまもなく京橋の映画美学校での『ダーゥインの悪夢』の試写を見に行く。アフリカのヴィクトリア湖は以前は生物の種が豊富で「ダーゥインの箱庭」といわれたそうだ。ところが、半世紀前にある人物がバケツいっぱいの新しい魚を湖に放した。この種は肉食の魚でナイルバーチといい、繁殖力が強く、それまでこの湖に生きていた種をまたたくまに絶滅に近い状態にしてしまった。

■ナイルバーチは巨大な魚で食用にも適する。そこに目をつけた「資本家」が加工して輸出することを思いつく。地元の有力者は外資がからみ、世界銀行などからお金を借りて、湖の近くに近代的な工場を設立し、大もうけをした。その後、相次いで解体、冷凍する工場ができ、今ではナイルバーチという魚の加工業は地域の大産業になった。ナイルバーチ成金もでき、周辺地域は潤った。グローバリゼーションを見事なまで単純化して見せてくれるような図式である。
 映画はこの「現実」をふまえ、それがもたらすのは「繁栄」ではなく、じつは「悪夢」なのであると、事実の映像と声によって語らせる。
 安直な作りのテレビドキュメンタリーであったら、アフリカの湖の周辺の町が巨大魚ナイルバーチによって「蘇った」という視点のもとに、完備された調理施設や冷凍倉庫など、経済発展をなぞることに主眼をおくのではないか。光の裏にある影に迫るには時間が必要だし、危険もともなう。個人の情熱にもとずくドキュメンタリー映画でなくてはできなかったであろう。

■『ダーゥインの悪夢』の監督はオーストリア生まれのドキュメンタリー作家、フーベルト・ザウパー。「繁栄」がもたらす影の部分に鋭く光りをあて、容赦なく対象に迫る。
 一部業者やここに雇用された従業員は繁栄の恩恵を受けるが、ほかの農民や漁民らは環境汚染もあってそれまでの農業ではたちゆかなくなっていく。貨幣経済の浸透で、お金がなければ生きていけなくなるのである。ナイルバーチ以外にこれといった産業があるわけではなく、恩恵にあずかれない多くの人は、生きるぎりぎりのところに追いつめられていく。貧困をはじめ、売春、エイズ、ストリートチルドレン、ドラッグ中毒等々が急増した。

■ナイルバーチは主にヨーロッパに、ロシア人パイロットの手で運ばれ一部は日本にも運ばれる。先進国の市場で売るため加工設備等に資金を投入した分、ナイルバーチの値段があがり、地元の人は食べることができない。地元の人は解体処理され捨てられた残骸を食べるのである。ウジがはいまわる残骸を干して、頭を油であげて食べたり売ったりする。荒涼とした光景である。

■ナイルバーチをとる漁師たちの気持ちもすさみ、売春婦との交渉でエイズにかかる人が多く、早死にする。残された子供は、ストリートチルドレンになり、戦争直後の日本の都会の浮浪児とにたような生活を強いられる。背後には終わらないアフリカ諸国の内戦ががある。
 関係国の政府や反政府組織は、軍備の拡張に多額の費用を投入しているようだ。ナイルバーチを運ぶ飛行機はロシアやヨーロッパから飛んでくるのだが、積載荷物の中に武器弾薬をいれているという疑惑が生じる。
 武器弾薬をおろして空になった飛行機で、ナイルバーチをヨーロッパ等に運んでいくのである。「このあたりに住む人は戦争をやりたがっている。軍隊にはいればいい給料をもらえるし、食べていけるから」といった意味のことを、現地の比較的インテリの人が話していた。

■「早く戦争になればいいと思っている」とあっさりいう。怖い発言である。 
 EUの代表などがやってきて、タンザニアの現地の解体、冷凍施設などが優秀で、十分欧米市場の基準に達するし、これでタンザニアの経済が潤うようなことを演説しているが、なんとも空々しく響く。
 ちょっと視線をそらせば、饑餓寸前の状態で暮らす多くの現地人がいるのである。
 そんな場所や人について外に知られたくない関係者が撮影をやめさせようとするが、スタッフはかまわず、食べ物をあさましく奪い合ったりする子供や、売春したりする人々の姿や声を伝える。キリスト教の牧師なども登場させ、エイズの危険防止のためコンドームの使用を奨励しないのかと質問する。牧師は神の意志に反するからとコンドームを奨励しないと言い切る。かくてエイズにかかる人の率は高い。ストリートチルドレンはもちろん教育を受けることなどできない。貧困は祖父から父、子、そして孫へと受け継がれていくしかない。
 
■この映画は2004年のヴェネツィア国際映画祭で受賞したりして海外で高い評価を得た。、グローバリゼーションの本質が、単純化された形で見事に浮き彫りされている。
 環境汚染と経済発展の視点ももっており、怖いと同時にこの世界について深く考えさせられる映画だ。日本での公開は、正月にシネマライズで。ぜひご覧になってください。見たら、外国ものの魚などを食べる気力がうせるかもしれません。

■夕方はさらにミュージカル劇団「ライアス」の公演を見に、新宿の「新宿村ライブハウス」にいく。小さな劇場はライブハウスが10いくつ固まって建っている一角で、再開発地域の一角にあり、あたりは原野のような広大な土地がある。
 出来具合については、後日関係者にあったとき、直接いうことにする――と記すだけにとどめよう。本日もほとんど仕事はできなかった。『北京の檻』が書店でどういう位置に置いてあるか書店を二軒みたが、目立つところではなく、あまり人のいかない歴史書のコーナーなどにおいてあった。こういうところにおかれると、売れないのが一般だ。この本もそういう経路をたどるのかどうか――。著者として「読まれない」ことが一番つらい。
by katorishu | 2006-09-30 00:40

時間の経過が早すぎる

9月28日(木)
■脚本アーカイブズの会議に出る。司会を担当し4時間休みなしのぶっ続けの会議だったので、寝不足でもあり疲れた。しかし、成果はあったものと思う。
 そのあと雑談したりするうち、時間がすぎ、結局、一日ほとんど仕事にならなかった。全員がボランティアで、それぞれ書く仕事をもっているので、いろいろな悩みがある。ただ、対外的に接する相手は給料をもらったりしている人なので、それなりの対応をしなければならない。ふつうであったら専任の職員を事務局として数人おいてやるべき「事業」である。ボランティアだけではどこまでできるか――いずれ専任スタッフをおく必要がでてくるだろう。その費用をどう捻出するか。むずかしい問題である。

■本日送るべき原稿のことを忘れていた。しかし、もう体力の限界。
 明日は8時半には家を出なければならないので、7時前に起きて「短期集中」で書くしかない。睡眠薬を飲んでもすぐ眠れるわけではないので、さてどうなりますか。

■パソコンで書き、メールで送るからできる芸当なのだが、昔のように手渡しや郵送の時代のほうがよかったという気がする。世の中の歩みがもっとゆったりしていたし、物質的には貧乏でも、それで不幸になることはなかった。日々を生きるのに、お金がそれほどかからなかった。昔インドネシアからきた観光団がいっていた。「日本に住みたくない。物はたくさんがあるけど、お金がかかりすぎて、あくせく働かなければならない。そういう国に住みたくない」
 彼らはとっても大事なことを指摘していたのだが、日本人はそんな声を馬鹿にして聞き入れなかった。今こそ真摯に受け止める必要があるのではないか。
by katorishu | 2006-09-28 23:40
 9月27日(水)
■このブログのエキサイトはどうも使い勝手がよくない。他のホームページに飛んだりできないようだ。で、近著『北京の檻』については下記の文字を1クリックで飛ぶことができない。本日あたりから本屋に出ているようだ。前書きと後書きを読んでくださった方から電話をいただいた。本の趣旨がよくわかり、面白そうといってくださった。
http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/3/68/43/4163684301.shtml
 興味をもっていただけましたら、お手数ですが、このURLをいれてみてください。
 まえがきの一部を読むことができます。ごく一部をのぞいて、堅い内容の本があまりにも売れないので、著者としても積極的にPRする必要があるようです。

■本日、文春ビルの中にある民放連にいき、脚本アーカイブズについて理解や支援等をお願いする。この時代、「文化」と名のつくものには、どこもなかなかお金を出したがらない。書籍でも「文化論」は「売れない」ので、専門出版社はともかく、一般書籍をあつかう版元では企画が通りにくい。マスコミに名前と顔が売れている人は別なのだろうが。
 ぼくは、率直にいって今の日本をあまり好きになれない。『脳内汚染』もますます広く深く進んでいるようだし、先行き悲観的ですね。
元来、ぼくはオプティミストなのですが、この10年ほどの日本を物書きの視点から見ていると、恐ろしくなります。

■エイズについてのミュージカルを書く予定なのだが、なかなか資料を読む時間がない。関係者への取材もしなければいけないのだが……。この調子では、いつ完成するかわからない。まだ劇場をおさえていないので、楽観はしているが。最近、あまりエイズについてのニュースがないが、これも「脳内汚染」と同じで、広く深く広がっているようだ。
 一見きれいに見える東京の町だが、一皮はぐと、惨憺たる状態になっているのではないか。「美しい国に」というスローガンをかかげた内閣が誕生したが、新大臣の顔がどれも美しくない。一定年齢をすぎると、心のありようは顔に表れるものである。世襲議員などが多いためか「面魂」といったものをもっている人がほとんどいない。

■良い悪いはともかく、田中角栄首相など相当の面魂をもっていた。池田勇人、大平透なども、それなりの面魂をもっていた。そういえば、俳優にも面魂をもった人が少なくなりました。モデル出身でスマートに見える人が「スター」になっていくからなのか。
 先日、テレビ関係者との話し合いでも出たが、「学芸会レベル」があまりにも多すぎる。どの分野でも聞かれますが、「プロ」がどんどん減っていることなのでしょう。機材等の性能があがったため、素人同然でも機材を使いこなしてしまう。それこそ「平等社会」の証という人がいるかもしれない。そんな金太郎飴のような人間ばかりの社会は住むにあたいしませんね。
by katorishu | 2006-09-28 00:37
 9月26日(火)
■一日中、かなり強い雨が降り続いた。水に弱い携帯パソコンを持ち歩かなくてよかった。15時と18時に、いずれもテレビ関係者とあう約束があり、移動するためちょっと歩いただけで、鞄にいれた新聞などがぬれていた。番組企画の件などで話し合う。テレビに関しては、ぼくの書くような枠がきわめて限られているので、企画を通すこと自体がかなりむずかしい。

■以前、ぼくが書いたノンフィクションをもとにした企画で「とっても面白い」と制作会社代表はいってくれたが、スペシャル枠でしかできない内容なので、果たしてこれを採用するところがあるかどうか。長年、下請けの番組会社で仕事をしてきてベテラン制作者たちの「悩み」「いらだち」を酒を飲みつつきく。長年、仕事をやってきた人たちの大半の関係者は現状を憂えている。

■日本の文化の程度がこの10年ほどで低下し、そのことを自覚していない人も多い。一応「民主的手続き」に基づいて選ばれる政治家と、数字を唯一の尺度にして制作されるテレビ番組に、如実に反映されているようだ。
「学歴」がある人は増えているが「学力」がともなっていない。とくに物事を深く考えたり、いろいろな角度から見ていくことができず、短慮に結論を出すひとが多いという気がする。
 最大の理由は、本を読まないからである。骨のある本をじっくり読む習慣をもっていない人が圧倒的に多い。反論はあるだろうが、ぼくは深く憂えている。

■テレビやインターネットで「雑多な知識」が手っ取り早くはいってくるので、多くの人は「物知り」になっていると思っている。しかし、断片的な知識をいくらつめこんでも、思考力を強くすることはできない。断片的な情報を整理し、抽出し、そこから意味を見いだす作業が大事なのだが。
 それができないので、テレビのクイズ番組にすぐ返答する人のような人間が増えていく。こういう人が圧倒的に多くなると、ポピュリズムの弊害が増す。「自分はものを知らないので、人の話を謙虚に聞く」という人が以前は多かった。ところが、簡単に細切れの「情報」が手にはいるので、「自分はものを知っている」と思っている「半可通」が多くなっている。

■マスコミ関係者にもこのタイプが多くなっているのは、特に憂慮すべきことだ。
 そんなことをふくめて、「心ある」放送関係者といろいろ話し合った。「なんとかしなければ」とみんな思っているのだが――。流れを食い止めることは、なかなかむずかしい。
 安倍新内閣が成立したものの、顔ぶれから見てあまり期待できそうにない。小学校では「学級崩壊」といった現象が起きているそうだ。これに「脳内汚染」がくわわると、ますます社会性のない人間や、深くものを考えられない人間、短絡的にものを考える人間が増え、モラルは低下し、文化の程度もどんどん落ちていく。「美しい国」にするなどと新政権はいっているが、何をもって「美しい」か。中身を吟味しなくてはいけない。
by katorishu | 2006-09-27 10:24
 9月25日(月)
■小泉内閣の「改革」の仕掛け人、竹中平蔵氏がさきごろ、議員辞職をしたが、本日発売の『週間ポスト』によれば、「ヒルズ族献金疑惑」隠しの「仕組まれた引退セレモニー」であるという。竹中氏の『経済塾』と安倍晋三後援会の「安晋会」は、いわば「兄弟組織」として裏でつながっており、竹中氏の疑惑を追及することによって「安晋会」の闇が照らし出されるので、小泉氏が竹中氏に議員辞職をするよう勧告した……とのことだ。

■さもありなんと思う。週間ポストによれば、「安晋会」の番頭格は、政治団体「21世紀政治研究会」の代表の杉山敏隆という元マンション販売を手がけた人で、バブル崩壊により350億円もの負債をかかえたという。この人のかかわる資金の流れが不透明で、政治資金規正法に違反している疑いが強いそうだ。竹中氏の「経済塾」についての資金についても不透明な部分があり、官邸は疑惑を封印するため竹中氏の参議院議員辞職を演出した、と週間ポストは書いている。

■告訴されるおそれがあるので、ポストとしても相当の裏付けをとって報じたに違いない。
 安倍氏についていろいろスキャンダル情報が噂されていたが、そのひとつがこの問題である。安倍政権が発足し党の3役も決まった本日、有力な対抗馬であった民主党党首の小沢一郎氏が「検査入院」したとのこと。政界は「一寸先は闇」といわれるが、この秋から冬にかけて、いろいろな問題が噴出するに違いない。
 日本国民の「一部」ではなく、「多くの国民」が幸せになってくれればいいのだが、どうもそうなりそうにない。相変わらずマスコミのニュースの中心は厭なことばかり。「良い」ことは報道されないのかもしれないが。

■皇居脇の国立公文書館に初めていく。脚本アーカイブズの件で、元理事のアーカイブの専門家に貴重な話やアドバイスをお聞ききする。大変興味深い話であった。
 帰路、三田でおりて、仕事の打ち合わせ帰りのカミサンと合流。携帯パソコンで仕事をしたあと、「慶応振興会」という古い商店街、というより飲屋街を歩いた。昔、慶応大学を受験したことがあるが、この商店街を歩いたのは、そのとき以来だ。運良く受かったのだが、当時は国立大学のほうがずっと費用が安かったので、慶応にいかなかった。もし、こちらにいっていたら、その後の人生はずいぶんと違ったものになっていただろう。受けたのは経済学部だった。当時は一次試験、二次試験があり、二次には面接があって、最近どういう本を読んだかと聞かれた。アンドレ・ジードの『狭き門』ですというと、試験官は笑っていた。

■あのとき、一緒に経済学部を受験して合格した、同じクラスのT君は今年病気で亡くなった。午前の試験が終わって昼食を学生食堂で食べたとき、ぼくはあまり食欲がなくカツ丼を半分ほど残してしまった。すると、T君は「それ、食べていいか」というので、「いい」というと、残らず食べてしまった。ぼくは人の残したものを食べたことがなかったので、少々驚いた。T君は体操部にいたハンサムボーイで、快活でとても気持ちのいい青年だった。

■そんなことを想起しつつ、ぶらぶら歩いた。この飲屋街で目立ったのは「立ち飲み」の店だ。目についただけで3軒もあった。客が一人もいない、やや高そうな店と違って満員盛況だった。案外庶民的な雰囲気の店が多く、面白い町だと思ったのだが。
「お母さん」を売り物にする居酒屋にはいった。手料理をだす店ということであったが、日頃、足を運んでいる店に比べ、勝るところは何もなかった。値段も高く、味も期待したほどではなかった。客はよく「知って」いるようで、広い店なのに一組しかはいっていなかった。ほぼ満員の店とガラ空きの店が際だっていた。

■早々と店を出て、「口直し」に同じ商店街の「中華そば」を食べたが、これが最悪。一口食べ、古くなった油のような臭気がした。食べ物屋で残すことはあまりないのだが、ぼくもカミサンも半分以上残し、腹立たしい思いで店を出た。「どうもついていないなア」と嘆きつつ、「3度目の正直」とばかり三田駅の近くの宝くじ売り場で2000円分のスピードくじを買い、「運」をためそうとしたが、500円が1枚と100円が2枚当たっただけ。こんな日は早く家に帰るに限る。
by katorishu | 2006-09-26 00:52
 「宿場祭」とやら 
9月24日(日)
■本日、旧東海道を歩いていたら、北品川の「宿場祭」というのをやっていた。伝統のある夏祭りなどとちがって情緒がなくフリーマーケットのようなもの。やはり長い時間をかけて培ってきたものと、即席で商店街の関係者などが話題作りで行うものとでは、まったく違う。

■北品川商店街の一角でお囃子をやっており、これは伝統芸だけあって情緒があった。横笛を女性がふいていた。ひと時代前なら「男女同権」といっても考えられないような光景だが、時代はかわった。お囃子の前で関係者が縁台の感覚で座ってビールなどを飲みながら歓談していた。
 インテリジェントビルが建ち並ぶ一方で、こういう人間の生活のにおいのする一角が残っていることは歓迎したい。品川は戦災にあわなかったところが多く、戦前から住み続けている人も比較的多いのだろう。地方都市の雰囲気が若干残っている。

■地方都市の商店街と違うのは、いわゆるシャッター通りになっていないことだ。北品川地区はとくに飲み屋が繁盛している。いつ歩いても、どこも満員盛況で、東京は金も時間もある人が多いのだな、と感じる。もっとも値段の高い店はほとんど皆無のようであるが。地元民がいく店でぼったりしたら、その店は終わりである。

■デルのデスクトップパソコンの機能回復したものの、過去3年間の映像とメールが失われてしまったことは大きな痛手である。もちろん、仕事上必要なものもいろいろとあった。
 メールアドレスなど印刷すると60ページほどあるのだが、これをいちいち打ち込む気になれない。必要に応じてメールアドレスをいれて送信する。携帯パソコンにも一部はいっているのだが、圧倒的多くはデスクトップにいれていた。
 デルのミスでもあるのだが、何度電話をしてもマニュアル通りの答えしかかえってこない。こちらの疲れ待ち、なのだろう。ソニーのバイオに裏切られ、デルのデメンジョンに裏切られ、パナソニックの携帯パソコンもバッテリーを使うとときどき、画面がかすれて消えてしまうことがある。
 パソコンはあくまでツールの一部として、過度の期待をしないこと。一連のトラブルで学習したことである。国の基幹にかかわることを何でもかんでもデジタル化することは、危険である。
by katorishu | 2006-09-25 00:08
9月23日(土)
■都下・町田市の鶴川にいく。この駅で降りたのは何年ぶりだろうか。TBSの緑山スタジオがあるところである。過去2回訪れたが、いずれも「取材」の仕事がらみであった。
 本日はこの地にある和光大学に。大学のホールで「水俣・和光大学展」という水俣病関連のさまざまなイベントが行われており、本日は知人の役者の川島宏知氏が石牟道子氏作の一人芝居『海の魚(いお)』を見るため。

■水俣病の被害になった実在の人物をモデルにした「仮面劇」である。口を大きくあけてなにやらムンクの絵を連想させる悲しい人間の顔に似せてつくられた仮面が、独特の効果をあげていた。この芝居は砂田明という役者が1979年より1992年に病床に倒れるまで全国で566回もの公演をしたという。今回は砂田明を師とあおぐ川島氏が継承して、ライフワークとして上演していこうとするもので、その第一回。

■大学の、できたばかりの舞踏教室で、予算の関係もあってか照明が蛍光灯のベタ明かりであったので、仮面の「表情」がうまくでていなかった。光と影の対比の中にこそ「仮面の表情」が浮き彫りされるのだが。
 川島氏も相当苦労したとのこと。しかし、いかにも川島氏らしい暖かく包みこむような空気は醸成できていて、感銘を受けた。薩摩琵琶と篠笛が左右で演奏されたが、篠笛の人は素人で即席の練習しかできなかったいうことだ。この芝居には篠笛がよく似合うはずなのにあまり効果を出せていないなと思っていたが、素人とわかって納得した。

■十分な予算があればいろいろな試みができ、さらによくなるに違いにない。「今回は一歩を踏み出したということで、その点でも意義のある舞台だった」と申し上げた。来年は同じ時期に江戸川区で上演する予定だという。どう発展させていくか楽しみである。
 終わって小田急線で下北沢までいき、川島氏ほか関係者とビールなどを飲みつつ歓談。比較的若い人がボランティアで手伝っていて、やや希望をもてた。

■帰宅してテープにとっておいた『太陽通り』を聴いた。脚本の段階でもずいぶん削ったし、さらに収録後も長いということで削った。そのため、うまく内容の味が伝わるかなと一抹の不安もあったのだが、演出の小林氏がうまく処理してくれたので、映像が浮かび、悪くないできであったと思った。
 最初、脚本に書いた通りにやると、おそらく70分か80分の作になったかと思う。その長さであったら、さらに面白いものになり微妙な味がでたであろうが、50分の枠なので仕方がない。ラジオドラマ化向きでない「むずかしい」原作であったが、メールでの反響なども、まずまずで、ほっとしました。小林氏ほか関係者のみなさん、ご苦労さまでした。
by katorishu | 2006-09-24 02:34

最近作のPR

 9月22日(金)
■六本木の日本放送作家協会での理事会に出席。なにごとを行うにも、「先立つもの」が入り用ということを、改めて認識した。
 以下に最近作の情報をお知らせします。お時間があれば「聴いて」「読んで」いただけたら幸いです。

■『北京の檻 幽閉五年二ヵ月』(鈴木正信 香取俊介 著・ 文藝春秋刊、9月26日発売、税込価格 1,950円)。【戦後、満州で「留用」され人民解放軍と行動。国共内戦、朝鮮戦争の野戦病院に「医師見習い」として勤務。24歳で日本に帰国後、日中貿易に携わるが、文化大革命中、特務(スパイ)容疑で無実の罪に問われ幽閉された。「改革開放路線」後、日中貿易に復帰し、中国への初のODA無償案件に深くかかわった。そんな男の見た日中戦後史の「光と影」を描く】(当事者との共著です)

■ シリーズ・ドイツの現代文学:『太陽通り』。【放送日】NHK、FMラジオ、2006年9月23日(土)22時00分~22時:50分。原作:トーマス・ブルスィヒ、脚色:香取俊介、演出:小林武。【出演】進藤一宏 左時枝 沼田爆 水町レイコ、冷泉公裕 柳沢なな他。◎ドイツが東西に分裂していた時代の東ベルリンの高校生の青春をコメディー・タッチに描く。
by katorishu | 2006-09-22 22:23

感動はどこからくるのか

 9月21日(木)
■夕方、渋谷で行われた428会という勉強会に出席。今回はぼくが講師役。「感動はどこからくるのか」という題で90分ほど話した。脚本等の執筆を通じて割り出したぼくなりの「感動の作り方」についての話が重点になった。テレビやインターネットなどの普及によって「未知の部分」が少なくなるにつれ、素朴に感動するということも少なくなった。

■知らないこと、珍しいことに接したり、話を聞いたりすることでも、人は感動するものだが、テレビ等の出現で「未知のもの」が激減してしまった。日々、映像による刺激を受けているので、すべては「既知」のものになってしまい、素朴が驚きがなくなってしまったのである。
 本当は「既知」のものの中にも、「未知」のものが大量に含まれているのだが、多くの人はそれに気づかない。見る視点を変えて対象を凝視すれば、それまで「見えなかった」ものが姿をあらわしたりする。そういう手順をふまない人が増えている。だからこそ、作り手が仕掛けることが重要になってくる。

■情報が氾濫するなか、ある意味で「すれっからし」の視聴者、観客に、感動をどう仕掛けるか。苦労すると同時におもしろいところでもある。
 その前に人が感動するという経緯については原則があるのではないか。法則があるのではないか。そんな点について、民話や伝説などの例をひいたりして、体験から割り出したことを中心に話した。うまく伝わったかどうか。かなり盛りだくさんな内容であったので、やや散漫になったかと思ったが、終わって何人かから、「役に立った」「面白かった」という意見を聞いた。お世辞が含まれているのだろうが、ここは素直に褒め言葉をありがたく受け取ることにした。

■終わって主催するプロモーション・センターの事務所で懇談の飲み会。これはこれで楽しいものだった。20代から70代まで幅広い人が集まるというのも、面白い。ぼくは比較的若い人を選んで話した。イッセー尾形氏の海外でのプロモーションをしているフィンランド人には、いずれイッセー・尾形氏にインタビューしたいと、ついでにお願いした。芝居を離れたイッセー・尾形氏はシャイで、初対面の人と話すのは苦手とのことであったが。

■『北京の檻』の見本が送られてきたので、428会に何冊かもっていったところ、瞬く間に売れてしまった。定価を割り引いて「売った」。本当はぼくが売ってはいけないのだろうが、知り合い同士なので、「売った」というより、差し上げたお礼として受け取ったということにしていただこう。

■以前、名刺交換をした同じ文筆家のKさんからメールがきて、ブログで読んだので買うとのこと。著者として嬉しいことである。他にも何冊か買って友人に配るといってくださる方も連絡をくれた。ビジネスから見たら本を書くことなど、労力、努力にほとんど見合わない作業なのだが、買ってくれた人、読んでくれた人がいることが励みにある。
 読まれてこそ本である。読まれなければ、本は「存在しない」も同然である。
by katorishu | 2006-09-22 01:24
 9月20日(水)
■午後、六本木での脚本アーカイブズの会議。そのあと、紀尾井町の千代田放送会館で「放送人の会」の人達と懇談会。「放送人の会」はテレビ界でプロデューサーやディレクターとして「テレビ史」残るような名作をつくった人たちが中心の集まりで、200人ちょっとの人数で構成されている。
 本日は、今野勉氏や大山勝美氏ら昭和40年代、50年代に数々のテレビの名作を創った人達が出席。放送作家協会側は市川理事長や南川脚本アーカイブズ委員長ほかが出席。脚本アーカイブズに理解と賛同を得られた。終わって乃木坂にある「コレド」でアルコールを飲みながらしばし歓談。

■出席者の一人が現在のテレビ視聴率は60代以上を対象外にしていると話していた。テレビを現在もっとも多く見ているのは60代以上の人達なのだが、テレビ制作者はこの層は「員数外」としてほぼ「無視」の状態であるようだ。
 この層を視聴率の対象にいれると、数字が相当違ったものになる。この層を排した結果が、今のテレビの「惨状」の原因といえなくもない。
「セットインユース」が年々落ちているという。セットインユースとはテレビをつけている家の割合のことで、視聴率が良いといっても、そもそもテレビをつけている家が少ないので、実際にテレビを見ている人の数は減っている。

■ほかの関係者から、現在の地上波テレビは実は「社会的弱者」向けのものとなっているとの意見がでた。必ずしも経済的弱者ではなく、情報面の「弱者」の意味も含む。つまり老人や子供、引きこもり等である。語弊がある言い方だが、今やテレビは「あまり知的でない人」が見るもので、いずれ「テレビをよく見る」というだけで、「下層の文化」を身につけた人……といわれるようになるかもしれない。
 テレビを多く見る人はますます知的に劣化し、読書をする人と知的格差は開く一方である。

■視聴率の実態が明かされるとスポンサーのテレビ離れはますます進み、番組の質は一層劣化していくに違いない。すると、ますます、少々知的な層からそっぽを向かれる。
 経済的な「格差」が云々されるが、情報面での「格差」、知的思考面での「格差」も相当進んでいるいるといえるだろう。

■今の民放テレビの経営を支えているのは消費者金融である。この一事をもってしても以上の意見が、うがちすぎとはいえないだろう。
 映画や演劇が盛んだが、有為な才能はこちらに流れていっているようだ。現在の映画界はちょうどテレビ創成期に似ているという。熱気と意欲、実験精神があり、自分たちの創りたいものを創りたい語りで創る。地上波テレビの番組では無縁のことである。
 一方、役者は舞台、とくに小劇場などでの芝居を主力にしており、中堅どころの劇団の役者は舞台公演だけで、なんとか「食っていける」ようになっているという。

■こういう情勢の中で、いかに作家性を発揮しつつ、一方で生活の資を得ていくか。その板挟みになって苦闘している脚本家も多い。
 今、水面下で進展しつつある新しい流れに注目したい。テレビばかり見ている人にはわからないが、新しい状況が水面下で静かに進展しつつあるといっていいだろう。

■本日、『北京の檻』(文藝春秋、定価1950円)の見本が届く。1年ぶりの出版なので、手にとり、しばし眺めた。表紙は地味ながら、良い仕上がりだ。9月26日、配本。書店でぜひお手にとって見てください。内容は保証します。
 
by katorishu | 2006-09-21 00:22