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11月29日(水)
■乃木坂のはあとイン乃木坂で行われた第31回創作テレビ大賞の贈賞式にでた。最優秀作は「おシャシャのシャン!」の坂口理子氏で、30代の女性。佳作は「お宝さがし」、板東誠一氏で40代、「アニマル・ダンス」、村田珠子氏で50代。世代ごとに受賞者がでたのは珍しいそうだ。ぼくは「お宝さがし」しか読んでいない。式には3人とも出席して抱負などを語って緊張気味。これで「一人前の」脚本家になったわけではなく、スタート台にたったにすぎない。ねばり強く書いていき、プロの作家に育っていって欲しいものだ。積極的に見たくなるドラマが激減している傾向は依然として続いており、本日も脚本家仲間と、いずれ今のテレビはなくなるね――などと話した。報道とスポーツ中継だけになるかもしれない。

■報道も「ジャーナリズム精神」を放棄したとしか思えないものが多すぎる。「国民の多くが選んでしまったのだから、どうしようもない。安倍政権だって国民の多くが選択した結果だし、良い悪いではなく、この流れはとめられない。いきつくところにいくしかないんじゃないの」とはベテランの台本作家の言葉。

■昨年、受賞者の林一臣氏も出席した。林氏は50代で四国に妻子をおいて上京し懸賞ドラマに何度も応募し、これが最後のチャンスと思って応募した作品で大賞をとった。この作は「風の来た道」と改題され、2007年1月6日(土)、21時より、NHKで放送される。六本木の居酒屋での2次会までつきあい、帰宅すると、もう一日は終わり。
 毎度のことながら時間の経過の早さに唖然とする。
by katorishu | 2006-11-30 00:12
 11月28日(火)
■国会図書館で調べ物をした。昭和初年の「婦人公論」や「キング」など。戦前は「暗黒時代」であったと「戦後教育」では教えられてきた。一方、戦後はアメリカの「民主主義」のおかげで明るく豊かになった……と思いこまされてきたが、大正から昭和初期の雑誌類を読むと、今と類似している点が多いことに驚く。

■日本の文化、社会は、じつは「敗戦」によって切れてはいなかったということを、「婦人公論」などの雑誌を読むとわかる。もちろん、戦前は政治面、思想面では厳しく、とくに左翼関係者には「暗黒」でしかなかったであろうが、普通の庶民、生活人にとっては、悩みも喜びも悲しみも、今とそれほどへだたっていない。人々の好みの分野も今と同じで、グラビアなどにはハリウッドスターがよく登場し、モダンなもの、新規なもの、欧米のものへの憧れが強い。

■不良の女学生なども結構多く、何人かのグループが数人の少年を性的にもてあそんだり、「援助交際」という言葉こそなかったが、それに類することをする制服の女学生もいて、それをジャーナリズムが報じると、それでまた真似するものがでる。いまの「イジメ」の流行と同じである。年少者の自殺をジャーナリズムが報じることで、さらに自殺者の連鎖を産む。従って「ジャーナリズムが人を殺している」といった説を唱える識者もいた。
日中戦争が泥沼化する昭和10年代になると、「軍国主義」が強くでてきて、真珠湾以降は「総力戦体制」なので、新聞雑誌も厳しく統制され実情を伝えていないが。すくなくとも昭和一桁までの日本は、封建的遺制が残っているものの、かなりまともだった。(もっとも東北地方の惨状は別で、「婦人公論」であつかう対象は、多くが大都会であるようだが)

■最近、ケーブルテレビのナショナル・ゲオグラフィックやアニマル・プラネットなど動物の記録映像をよく見るが、動物の最大の関心は「食」と「性」である。いずれも種を維持していくために必須のもので、このふたつへの欲求、つまり本能だが、そのためにすべてを尽くす。それが「生きる」ということで、なんの虚飾もてらいもない。
 人間もこういう動物の縁戚なのである。今も昔も「いかに食べ」「いかに繁殖するか」が「人」の最大の関心事である。動物とちがって本能的な欲望を巧妙に包み隠す術を得ているので、一見、違って見えるが、根っこは同じである。「人は自然界の掟の中で生きる動物の一種」という認識は頭の隅にもっていたほうがいい。

■だからといって、人間が動物のように「弱肉強食」で、欲望を全開させていいというわけではない。逆である。「想像力」と「悪知恵」を獲得してしまったからこそ、欲望も過剰になっている上に、科学文明の発達によってそれまでの自然界ではあり得なかった過剰な力を発揮できる。考えてみれば文明の利器をもった人間は極めて恐ろしく危険な存在である。だからこそ法律やモラルなどで厳しく律していかなければとんでもないことになる。

■古い雑誌をマイクロフィルムやマイクロフィッシュで見ていくと、時間の経過がじつに早い。19時の閉館時間がすぐきてしまう。21時ごろまで開いていてほしいものだ。最近、区立図書館のなかには21時まで開いているところもでている。
 いずれにしても、国会図書館は知識の宝庫であり、日本文化の精髄がぎっしりつまっています。税金で成り立っている施設であるし、なるべく利用したほうがいいですよ。

■国会図書館の建物をでると、向いにライトアップされて国会議事堂が建っていた。ここで国民にさまざまな縛りをかける法律をつくる「先生」たちも、もっと過去の豊かな文化にふれる努力をして欲しいものだ。国会図書館は国会の補完機構としてつくられた施設であり、国会議員は時間に縛られずに利用できる。本日もニュースで報じられた自民党の「郵政民営化」での「復党」問題、ご都合主義もいいところですね。次の選挙まで、このご都合主義を脳の記憶のとどめておき、投票行動に結びつけないといけない。過去の記憶を記録していくことを「アーカイブ」というが、先進国では日本が最も遅れている。 
by katorishu | 2006-11-29 00:23
11月27日(月)
■20代男性の1週間のテレビ視聴時間はどのくらいだと思いますか?3時間という調査結果がでたというのである。1週間である。7で割ると1日30分足らず。それではどの世代がもっともテレビを見ているかというと、70代以上である。この世代は1日の視聴時間が10時間だという。某放送関係者の話であり、どの程度信頼できるかわからないが。

■あるいはウエブ上の調査で得たデータかもしれない。通例、新聞などの世論調査とウエブ上の調査では相当の開きがでるし、ウエブ上の調査が統計的にどの程度信頼性があるかどうかわからない。ただ、ひとつの目安にはなる。
 ぼくが接する若者を見る限りでは、確かにテレビ離れが若者を中心に進んでおり、長時間見ているのは老人ばかり。これが事実だとすると、テレビや広告関係者にとって衝撃である。

■その時代、時代のもっとも「おいしい部分」をつまんで急成長してきた地上波テレビも、経営的に大きな壁につきあたりつつあるということである。ある時期からタイタニック号化した船にのっていたのに、これまで気づかなかったということだろう。今も気づかない関係者がいるようだが、すでに世間の風向きは変わっている。このへんで大きくカジを切らないと……結果は明らかである。

■ただ、テレビ離れが良いことなのか悪いことなのか、簡単にはいえることでもない。テレビを見ていた時間が携帯やインターネットやテレビゲームにかわっただけだというのなら、あまり感心しない。五感をつかうことに、もっと時間とエネルギーをさくことが必要だろう。そして脳の力を鍛えるのなら、毎度いっているように読書である。

■テレビ離れが進むと、活字離れ以上に深刻な事態が今後生ずるこになる。視聴者が離れればスポンサーが離れる。すると、なにが起きるかといえば、流れるオカネが減る。予算の急減の影響の大きさは活字の世界どころではない。良書を個人で出すことだってできるし、資本も経費も少ない小規模の出版社が、意味や意義のある本をだし続けている例はいくらでもある。ところが、映画もふくめ映像制作の場合、厖大なオカネがかかるという宿命をもっている。

■作品にかけるオカネが削減されれば、なにより良い作品を創るために大切な要素である「時間」をかけることがむずかしくなる。ドラマの場合であったら、良い脚本がそろわない。良い役者を使えない。セットなども貧弱になり、ロケも限られ、当然、内容もお粗末で、安直になる。こうなると「劣化の連鎖現象」で、必然的に「時間」と「オカネ」のかからないお手軽番組のオンパレードになる。この数年、すでにその傾向が強くでてきているのは、テレビをよく見る人が一様にあげる声である。

■それでも、1日に3,4時間以上テレビを見ている人の数は膨大であり、テレビは消費行動ばかりでなく、選挙での投票行動にまで強い影響をあたえている。一般にテレビをよく見る層ほど本を読まないし、情緒的な反応をする。テレビを仕掛ける側から見れば「あつかいやすい」対象である。そのため、この層のとりこみに企業も政治家も今なお必死である。ニュースのエンターテインメント化など、その傾向の端的な表れである。

■インターネットはまだ出来たばかりで、ブログなどの情報発信が今後、人々の精神にどういう影響をあたえていくのか、わからない。善し悪しはともかく、インターネットというメディアができ、普及している事実は否定しようがない。利点も数々あるので、期待感もあるが、金太郎飴のような画一的な価値観を醸成する方向に堕する恐れもある。現に「個性的」という名の「非個性(画一)的」価値観が日本列島をおおいつつある。多様な価値観を許容し、異なった文化や価値観をもつ者が違いを認め尊重し共生していく……それこそ21世紀の価値だと思うのですが、事態はどうも逆の方向にいっているようです。
by katorishu | 2006-11-27 23:45
 11月26日(日)
■職業がら本をよく買うが、必ずしも資料として買うわけではなく、多くは衝動買いである。本屋に寄り目的の本を買う「ついで」に別の本を買ってしまうことがある。そんなに買い込んで読めるのかといわれるが、確かに読めない。多くの本は「ツンドク(積んでおく)」である。図書館から借りた本は期限がきたら返さなければならず、たいては資料として使うことが多いので、必要な箇所をコピーしたりして返却する。実用の要素が強い。

■一方、自分のお金で買った本は、何年かしてふっと手にとって読むことが多い。昨夜、たまたま文庫の棚から手にとった文庫本はリリー・フランキー著『日本のみなさんさようなら』だった。最近、映画化もされたベストセラー小説『東京タワー』の作者である。ベストセラーはなるべく読まないようにしているが、パラパラとめくると、どうもB級映画評の本のようで、寝床で読み始めた。雑誌『ピア』に毎週一回連載された短い映画評で、独特のユーモアのある文章で、この書き手、なるほど「売れている」ワケがわかった。1963年生まれでイラストレーター、コラムニスト、構成作家などの肩書きがある。

■173本の映画があつかわれていて、新作にかぎったことではなく、数十年前の小津作品などもでてくる。前書きに日本映画が外国映画に比べて厳しい目で見られているとし、理由を「言葉がわかる。役者がわかる。風景がわかる。間がわかる。わかればわかるほど厳しくなる。また、わからなければわからないほど甘くなる」と記している。「自分の妻」と「会ってまもない女性」を比較して、どうしても「自分の妻」に厳しくなるケースを紹介したあと、そう記していて、納得させられる。イラストもいれて見開き2ページの短い評だが、かなり本質をとらえていて、ユーモアがある。

■映像に関係してきた人間にしては、ぼくはあまり映画を見ていないと思っていたが、リリー・フランキーがとりあげている作品の4分の1ほどは見ていることに気づいた。今村監督の『ええじゃないか』や伊丹監督の『お葬式』、中原俊監督の『櫻の園』、原一夫監督の『ゆきゆきて、神軍』、川島徹監督の『竜二』等々。寅さん映画や小津監督作品、今村監督の『復讐するわ我にあり』など「B級映画」としてくくるのはどうかと思うが、結構見ているのだな、と改めて思った。

■「B級映画」であるからこそ見ているのかもしれない、と思った。ぼくの中の「ささやかな反骨精神」なのか、権威をおちょくりたい気分が「基層部分」にある。ついぞ「権威」にも「権力者」にもなれない「コンプレックス」の裏返しかもしれないと内省したりもするが、やはり「権威」や「権力」につきまとう「うさんくささ」が好きになれないのである。

■いずれにしても、本は買っておくものである。この本は自分で買った記憶がないので、カミサンが買ったか誰かからもらったりしたものかもしれないが、置いておけば、いずれ手にとるものである。10数年前に買ったものを、ふと手にとって読みはじめ、やめられなくなることもある。書く作業は決して楽しいものではないが、読むことは面白い。この面白さを知らずに一生をすごしてしまう人が増えているようだが、せっかくこの世に「人」として生を受けたのに「もったいない」ことである。読書は文明化された人間だけが享受できる特権である。しかも他の数多の「特権」と違って、この特権はいくら行使したからといって、他に害をおよぼさないのが、良い。
by katorishu | 2006-11-27 00:13
11月25日(土)
■国内で廃棄された年間100万台を超す使用済みパチンコ台が香港に中古品などと偽って輸出され、リサイクル処理不備のため転売先の中国で健康被害を引き起こしている――と新聞で報じていた。それも問題だが、国内で廃棄される使用済みパチンコ台の数が年間約300万台という数に驚いた。業者はどんどん新しい機種に変えないと生き残れないので、そうするのだろうが、なんという資源の無駄づかいか。

■自動式になってからパチンコはやらないので、現在のパチンコ台がどんな仕組みになっていて換金のシステムがどうなっているのかわからない。以前、週刊誌でパチンコ産業の売り上げは自動車産業の売り上げに匹敵すると紹介されていた。大変な産業である。駅前の一等地は以前であったら銀行がしめていたが、バブル崩壊後、合併などで店舗の数がへった。そのあとにパチンコ屋かカラオケ屋がはいっているケースが多い。

■ともに誰でもが楽しめる大衆娯楽で、決して悪いことではないが、これらの産業に投じられるオカネは膨大すぎる。1割でもいいから、本や演劇などにまわって欲しいものだ。読書や演劇は「言葉」を基底においた文化であり、脳髄の働きによく、思考を深める働きをする。一方、前者のふたつは、思考をゆるめる働きをする、とぼくは思っている。知り合いのパチンコファンの話では、今のパチンコはギャンブル性が強く、韓国ドラマの「冬のソナタ」などが台の映像として流れ、ビデオゲームなどと同様、興奮して「のめりこむ」ように仕掛けられているそうだ。つまり中毒になりやすく作られているのである。

■開店直前のパチンコ店の前にはよく若者を中心に数十人が列をつくっている。たぶん、パチンコを「仕事」にして、それで「食って」いるのだろう。一方、カラオケはスポーツに通じるものがあり、肺呼吸を高めるし、ストレス解消になるものの、私見ではカラオケが「ジコチュウ」人間の大量生産に大きく貢献している。それも悪いことではないのだが、こちらに投じられる時間とお金に比べ、本などに投じられる時間やお金が少なすぎる。オカネや時間の使い方がアンバランスすぎるのである。

■この15年ほど、日本人の「知力」が全体的に年々低下している、とよくいわれるが、その最大の原因は「本を読まない」ことだ。いわゆる「活字離れ」である。日本が戦後、「奇跡の成長」をとげたことの背景には「知力」があり、そのもとになったのは「読書」であった。日本人の「読書好き」はこれまで世界でもトップレベルであり、「エコノミック・アニマル」といわれながらも、知力には敬意を払われていたのだが、今はどうなのか。「ルック・ジャパン」などという海外のリーダーもいなくなった。いずれ「パス・ジャパン」になってしまいかねない。(いや、もうなりつつある)

■ぼく自身は、この先それほど長く生きないので、日本は堕ちるところまで堕ちればいい――と思わないこともないが、「しっかりした本」「深く考えさせる本」「目を開かされる本」などが売れず、パチンコやカラオケが盛況――という状況を見ると、情けない思いになる。本日、脚本アーカイブズの会議と勉強会で北千住にいき、そのあとシナリオ講義のため高田馬場にいったが、街で目にする人の人相があまりよろしくない。要するに知的でないのである。日本人はこんなに品のない人種であったかな、と思ってしまった。もちろん「見た目」であるが、人の本質はかなりの程度「見た目」に現れるものである。自分のことはさておき、すれ違う人の多くが醜く見えて仕方がなかった。(ハリウッド映画の『猿の惑星』はじつは日本人をモデルにしたものだが、それを思い出してしまった)本日、睡眠不足もあり、かなり脳が疲れていた。そのせいで、そんなふうに見えたのであればいいのだが――。
by katorishu | 2006-11-26 00:23
 11月24日(金)
■昨夜、アルコールがはいっているので、仕事にならず、手元にあった富士正晴著の『大河内傳次郎』を読み始めたところ、あまりに面白く寝床で読み続け、最後まで読んでしまった。最後まで読むと睡眠が不足し、また今日一日の予定が狂ってしまうと思いつつも、結局途中でやめられなかった。「女侠」といわれた女優、伏見直江の恋愛模様というより「恋愛事件」はとくに面白く、当時のマスコミでスキャンダラスに報じられた。この一件も含め、伏見直江、信子の人間模様をいずれ書いてみたい思いが募る。

■大河内傳次郎といっても、映画通やある年齢以上の人でないと知らないかもしれない。伊藤大輔監督のサイレント映画、『忠治旅日記』や『丹下左膳』などで一世を風靡した時代劇役者である。ややだみ声の独特の台詞まわしが特徴だった。大河内傳次郎が新国劇、それも沢田正二郎の「第二新国劇」の出身であることを初めて知った。
 伏見直江は大河内の相手役で、キレのいい啖呵や思いっきりのいい芝居で人気を得た。昭和初年の映画界のトップスター同士の「恋」だった。

■大河内傳次郎といえば京都の広大な土地をもつ私邸「大河内庭園」が有名で現在、一般に開放されている。ぼくも一度、はいってことがあるが、個人の邸宅としてはその広さに圧倒される。小高い丘ひとつがまるまる敷地で、この邸宅を見れば大変な「成功者」と思われるかもしれないが、希代のスターといっても他人にはなかなかうかがいしれない深い悩みをかかえており、自ら寂しい人生であることを何度も書簡などで吐露している。
 中津藩の儒者の家系で当時の多くの芸人の中では例外的にインテリ家庭の出であり、加えて家庭の事情から母親に溺愛され、とにかく母の意向にさからえない人だった。それと仏教に深く帰依し、「自分から母と仏をひいたら何も残らない」と公言していた異色の役者だった。

■一方の伏見直江は旗本直参の出でありながら、父親がドサまわりの芝居にいれこみ、一家ともども芝居小屋で暮らし、物心ついたころより「男の子」として舞台に立ち、おかげで学校にもいけず、文字が読めないまま大きくなった。父の死後、住む家を追い出され母と幼い妹とともに極貧を味わった。小山内薫のもとにあずけられ、小山内の指導もあって片仮名と数字は読めるようになった。小山内薫が主催する築地小劇場でチェーホフの『三人姉妹』に出たりした。小山内薫は「新劇」の基礎を築いた人で、一時は映画(当時は活動といった)にも興味を見せていた。

■伏見はそれまで台詞は耳で聞いて覚えたという。現在も大衆演劇などでやっている「口立て」である。
 まもなく、チェーホフやイプセンを演ずる新劇の空気になじめず、活動の世界にはいり、大河内傳次郎と組んだ時代劇で、人気が出た。コンビであった大河内傳次郎に迫られ、結局3年間一緒に暮らすが、大河内の母や親戚などから仲をさかれ――その後、有為転変の人生を送り、伏見直江一座を旗揚げし、女剣劇で名を売ったり海外公演も挙行した。しかし、興行主にだまされ海外で数年とどまって働く羽目にもなり、帰国後は女優をやめクラブのママになったりした。ぼくの子供のころ「伏見直江一座」の幟を何度も見た記憶がある。残念ながら芝居を見る機会はなかったが。

■大河内傳次郎も屈折した人生航路をあゆんだが、伏見直江と同じく女優になった妹の展子姉妹の人生はさらにドラマチックで、伝記作家なら取り組んでみたい素材である。
 著者の富士正晴も「いずれ誰かこの姉妹の物語を書いて欲しい」と記している。富士正晴は「隠者」のような生活をしており、本人が取材等で外にでてインタビューをすることなど考えない異色の作家だった。

■作家、富士正晴について、流行作家ではなかったので、知らない人が多いのではないか。すでに故人だが、大阪郊外、茨木市内の竹林に囲まれた「今にも朽ちそうな茅屋」に住んでいた「世捨て人」で、「竹林の隠者」と呼ばれていた。『バイキング』という有名な同人誌を創刊した人で、ここから直木賞作家なども出た。長いこと文学界の同人雑誌評をつづけていたので、昔、純文学雑誌を読んでいた人は記憶にあるかと思う。『桂春団次』などの好著があり、1992年、茨木市に富士正晴記念館ができたという。もっと読まれていい人だが、現在、ほとんどの本は絶版になっており、図書館でしか読むことが出来ない。

■よく功成り名遂げた人が「自伝」を発行したりするが、その類の本で面白かったタメシがない。比較的裕福な家にうまれたり、多少「名門」の家に生まれた人間が、縁者の死や時代の変転で没落し、浮き沈みの激しい人生を送る。本人は懸命に、自分にも他人にも「良かれ」と思って努力をする。それが、何の因果か、マイナスにマイナスにと働き、奈落の底を見る羽目になる。それでもなお、生きようと努力する。が、むくわれない。そんな人の伝記には人生の哀感が漂い、面白く、人生についていろいろ考えさせてくれる。(ビジネス書の大半がつまらないのは、『成功物語』のオンパレードだからである)

■ぼくは関東の人間だが(係累もほとんどが関東)、大阪在住の作家のほうに、より強い共感を抱いている。「上昇志向」の強い人は一般的に東京に集まってき、そういう人が「成功者」になる率が高い。一方、関西の作家はもともと地つきの人が多く、「他をけ落としても自分が」という人は比較的少ないのではないか。最近の作家や文化人については知らないが、ひところまで関西の作家等はそれだけ粋な人が多かったという気がする。最近特に「上昇志向」「成功志向」「金持ち志向」の人間が嫌いになっている。彼らには粋や鷹揚さが欠けている。欠けているからこそ「成功」したのだろうが。
by katorishu | 2006-11-24 21:47
 11月23日(木)
■大学のクラスの同窓会が新宿のロシア料理店で行われた。東京外語のロシア科に昭和37年入学の人達である。当時は授業料が年間9000円で比較的安かったので、4年で卒業するのはもったいないという空気があった。で、40人のクラスで4年間で卒業したのは10人ちょっとではなかったか。1年から2年にあがる試験で、遠慮会釈なく落とされたということもあるが。5年在籍は当たり前で、6年から8年くらい在籍していた学生も少なからずいた。女学生は少なく、本日出席した18員のうち4人。

■良き古き時代であったかもしれない。ロシア語専攻であったので、時代を反映して社会主義に理想をもとめて入学してきた人とロシア文学に興味をもって入ってきたひとがいた。両者の割合は半々であったかと思う。当時、東京外語は「二期校」といって「一期校」に遅れて入学試験があり、一期校の滑り止めという位置づけでもあった。一期校の人気の大学といったら東大である。そのため、かなりの学生が東大を落ちた人で、多少屈折したものをもっていた。(今から考えればどうってこともないが)

■ただ、当時は今よりずっと学歴社会の趣が強く、就職試験の際も、いわゆる「一流企業」では10数校だけに受験生を指定してきたりした。外語もその中にはいっていた。下駄をはかせてもらっていたのである。学校によって給料が違った戦前ほどひどくはなかったが。
 当時から、「硬派」が7,8割で「軟派」が2,3割。硬派の生徒は教師になったり銀行や商社マンになった人が多い。一方、ぼくも含めた軟派系はマスコミにいったり、「フリーター」のような生活を送ってきた。(当時、フリーターなどという言葉はなかったが)

■60数年生きてくると、それぞれが固有の「歴史」をもっている。ぼくはどうしても、「作家的好奇心」が働いて、いろいろ質問する羽目になる。共同通信の客員論説委員をしているH君から、「香取のノンフィクションの材料になりそうな人がいる」との情報。台湾出身の女性で、戦中、戦後、有為転変の人生を送ってきたという。異文化摩擦を身をもって生きた人が、ぼくのテーマであり、ぴったり当てはまる。近々、取材をするかもしれない。

■高校の教師をしていた人が二人いたが、女性教師から、生徒の質が年々低下していると聞いた。基礎学力も低下しているし、モラルの荒廃も著しいとのこと。どこかで日本は「間違って」しまったのではないか。「村社会・日本」は今後、衰亡の道をたどるに違いない。その点で多くの人と意見が一致した。
 
■帰宅してBBCを見ると、イラクでの自爆テロで130人が死亡したという。アメリカ軍兵士の死者も増えている。すでに内戦である。かといって、ここまで混乱が進むと、アメリカ軍が引き揚げると、一層の混乱に陥るだろう。残るも地獄、退くも地獄である。ブッシュ政権はとんでもないことをしでかしたものだ、とつくづく思う。世界の超大国がこのテイタラクである。すでに人類は末期症状にあると考えたほうがいいだろう。
by katorishu | 2006-11-24 01:11

多文化時代の教育意識

 11月22日(水)
■夕方、渋谷で月一の「勉強会」。今回は情報教育研究所を主催する山岡テイさんの「多文化時代の教育意識の現状」についての報告。山岡さんは1年のうち7ヶ月ほどは海外にいき、幼児教育の現状について調査、分析をしている。2時間足らずの短い時間なので、活動の概略を語る程度であったというが、大変示唆に富んだ話だった。

■山岡さんによれば、現在日本に外人登録されている外国人は197万人で、これは人口の1,56パーセントだという。幼児教育の調査の主な対象は親で、意識調査が中心とのこと。日本で実施した園児の「他文化な保護者」調査では、中国語やタガログ語など12種類の言語で実施したが、日本と中国、韓国では親の意識についてかなりの違いが出たそうだ。育児において何をもっとも頼りにするかについて、中国では園の先生や育児専門書に頼る率がダントツで高いのに、日本では両方とも際だって低い。

■日本では近所の友人を最も信頼するというのが特長的であった。同時にもっとも不安を覚えさせるのも近所の友人であるという結果がでている。権威主義的な中国人と、他人の目を極度に気にする日本人との違いが際だっていたという。中国人は隣近所の目などほとんど気にせず、権威に頼る傾向が強い。

■そのほかいろいろと興味深いデータが示されれた。幼児教育に興味のある方は、以下のホームページにアクセスしてみてください。
 http://www.tabunkakosodat.net
他文化子育てネットワークです。
by katorishu | 2006-11-23 01:16
11月21日(火)
■元参議院議員で衆議院の事務局に長年勤務していた平野貞夫氏の意見には納得することが多い。総合雑誌に書いたり単行本を何冊もだしているが、「まっとうなこと」をいう人だ。小沢一郎氏のブレーンとしても知られるが、本日「朝日ニュースター」に出て、小泉、安倍政権の進めている「競争主義」の政策では資本主義体制そのものがおかしくなってしまう、と警告していた。

■自由競争は必然的に「格差」それも、今のような「てこ」の原理が働くシステムにあっては、看過できない大きな格差を生じさせる。環境問題などと同様、これは資本主義社会の枠組みを危うくさせる、従って野党として特色を出すには「格差をなくす」政策を強く打ち出すべき、と語っていた。「日本はすくなくとも野垂れ死にする人がいない社会」にしなければいけないと氏は語っていたが、その通りである。年間、3万人以上が自殺する社会がいいワケがなく、現政権はその改善策に果敢にとりくんでいるとはとても思えない。

■官僚主導のシステムや政治と宗教の問題にも、平野氏は果敢にきりこみ、マスコミが「タブー」にしていることにも触れ、批判すべき点をきっちり批判している。ぼくは「右翼」と同様「左翼」も嫌いなので、平野氏のような「まっとうな良識」の持ち主の論文を読むと、ホッとする。
 自民党は例の「郵政選挙」で離党した議員の「復党」を考えているようだが、こういう節操のない「ご都合主義」をリーダーがとっていて、教育がどうのこうのモラルがどうのこうのとよくいえたものである。子供たちに対し「しめし」がつかない。来年の参議院選挙で手痛いしっぺがえしを食うに違いない。
 
■国会図書館で7時間ほど調べものをしたあと、資料類に数時間目を通したりしたので、目がしょぼしょぼ。戦前の新聞など電子化されていて検索も楽なのだが、新しいシステムなので使い方がわからなかったりする。係員に尋ねると、官庁には珍しく懇切丁寧に教えてくれる。仕事の内容からあらゆる官庁の中で、もっとも知的な組織ではないのか。当然、所属する職員、アルバイトも比較的知的な人が多いのかもしれない。
 知的でいて、かつ「アンモラル」で「悪」の要素を色濃くもっている人もいるが、総じてよく本を読み知的な人は、穏やかだし、いい顔をしている人が多い。

■国会図書館は、他の官庁、組織と違って利権などもきわめて少ないにちがいない。大学時代の同じクラスの女性が卒業後、国会図書館の職員になったが、当時、国会図書館の職員になるのは司法試験に受かるよりむずかしいといわれた。彼女は、ぼくなどちゃらんぽらんで授業にほとんど出ない学生と違って、きちんと授業に出る「真面目」を絵に描いたような学生であった。(もっとも、当時から喫茶店ではよく本を読んでいましたが)

■「真面目さ」とものを「創る」こととは必ずしも結びつかないものの、真面目で誠実な人間に接するのは快いものである。ユーモアと遊びのセンスがあれば申し分ないが、それは「ないものねだり」というものである。
by katorishu | 2006-11-22 00:39

善と悪は紙一重

11月20日(月)
■昨日、一日雨が降り続いたので本日は秋晴れの天気に恵まれるかと思ったが、期待は外れ、じめじめと湿った天気だった。そうでなくとも鬱陶しいことが多いのに、早く秋晴れの空をのぞみたいもの。ボランティア活動の件で一日の大半はつぶれる。某所で興味深いことを聞いた。韓国情勢のことだが、物事には光があると必ず影があるものとあらためて実感する。文化面にも政治や宗教がはいりこんでおり、「なるほど」と合点したことだった。

■裏がとれないので安易に記すわけにはいかないが。物事の「本質」や「真実」は、案外深いところに隠れていて見えてこないものだ。日米戦争に日本がつきすすんでいく経緯について仕事の関係で文献を調べているが、「旧左翼」や「右翼」がいっている状況とは、かなり違う側面がいろいろあり、もう少し時間が経過してみないと「真実」はわからない。日本の公文書でも未公開のものが相当あるし、まして一党独裁の中国は未公開文書だらけである。将来、共産党一党独裁が崩れるとき、興味深い資料がぞくぞくと出てくるはずだ。

■欧米列強の植民地主義が猛威をふるっていた当時の情勢を考慮にいれないと、なぜ日本が満州に侵出したか、本当のところはわからない。旧ソ連のコミンテルンが背後で戦争を煽っていた可能性も強く、あれやこれや、政治や経済情勢が複雑にからみあって、日本が「戦争に追い込まれた」という側面も否定できない。だからといって侵略の事実を否定することはできないが。日米戦については「追い込まれた」という側面が強い。そうして中国の主張している「歴史認識」は多分に「政治キャンペーン」の要素が強い。清朝が倒れ辛亥革命で中華民国ができたころの中国は、馬賊が跳梁跋扈しコミンテルンや欧米列強が複雑にからみあってしのぎを削っており、じつに複雑怪奇な情勢である。

■何をいいたいかというと、時間の経過とともに、一見して「善」に見えたことが「悪」に、「悪」に見えたことが「善」に転化することは、歴史上いくらでもあるということである。最近、子供の自殺がしばしば報道されているが、自殺をしかねない人間に対する周囲の対応の仕方も微妙である。世間常識に従い「励ます」ことが、結果として自殺を「後押し」することになることは、専門家などからしばしば指摘されていることだ。「がんばれ」とか「われわれがついている」「しっかり」などという声援は、一般的に「思いやり」があり、「友情」があり「愛情」があるとみなされる。なにしろ、その人のことを思って励ますのだから、励ましをあたえる人は「良いこと」をしていると思っている。それが、自殺へと追いやる「きっかけ」になるという皮肉。励ましを与えた人は自分の鈍感さに気づかないのである。

■われわれは自分の気づかないところで日々、「善意の刃」をふるっているのではないか。このこと頭の隅おいておいたほうがいい。じっさい、「自分は正しく清いことをやっている」という「善意の持ち主」ほど、始末におえないものはない。自分は正しいこと、正義を行っているという意識があるので、そういう人に限って自分の言動に対して「反省」がない。

■人間はどんな高潔で清廉潔白な人間でも、過ちを犯すもの。過ちを改めるにためらうなかれ、というが、自分が絶対的に正しく清いことをやっていると意識している人間は、過ちを決して認めようとしない。なにしろ、「正しいこと」をやっていると思いこんでいるのだから。個人のレベルでも、この種の人間は困った存在だが、その種の人間が権力をもってしまうと、一層始末が悪く被害も甚大になる。

■悲しいことに、大衆(マス)というのものは、「俺は絶対的に正しい、ついてこい」という勇ましく一見強そうな人間になびくものである。人を組織や国におきかえてもいい。あなたの周囲を見回してみてください。必ず一人や二人、「自分は絶対正しい」と思いこんでいる人がいるのではないですか。おうおうにして、その類の人がリーダーになるものです。
by katorishu | 2006-11-20 23:43