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 2月27日(火)
■本日、午前10時半に仕事の打ち合わせのため渋谷の「フランセ」という喫茶店にいった。先方はすでにやってきていて店の前に立っていた。フランセの入っているビルそのものが「工事中」なのである。左隣はプラネタリウムなどがあった旧東急文化会館で、ここも解体中である。
 少し歩いて、渋谷に何件も店をもつ「ルノアール」に落ち着いた。打ち合わせそのものは建設的であり、いずれ「作品」として成果をお見せできるかと思うのだが、喫茶店、コーヒー店を「街の仕事場」としてきたぼくには、喫茶店等がブルドーザーに押し倒される立木のように消えていくのは、嘆かわしも腹立たしい。

■報道によれば都心はバブル再来の様子をテイしてきており、そんな中、利潤のでない喫茶店や個人の個性ある店などがどんどんつぶれていっている。一等地にある喫茶店はバブル紳士やバブル企業の格好のターゲットとなり、買われていくのだろう。
 スタバに象徴される大資本の安価なコーヒー・チェーン店の前で、旧来の喫茶店は敗れ去っていく。利用者にとって「選択の幅」が狭まることであり、安価だからといってこの傾向を素直に歓迎できない。

■六本木などこの一年で地下が倍になったとのことだ。以前のバブルでは資金の出所は銀行であったが、今回のバブルの資金はどうやら「外資」であるらしい。ありていにいって「日本が売られている」のである。ごく一握りの人間やハゲタカのような外資が、土地を買いあさり高値で売り抜けたりして濡れ手で粟の利益をあげる。そうして、下請けを安くこきつかったり低賃金で働かせて膨大な利潤をあげている一部大企業。
 その陰では、生存ぎりぎりのところまで追いつめられている人がいる。

■小泉・竹中改革の必然の結果だが、どう考えても、これは「まとも」ではない。まともに戻すには政治の力がいる。野党の役割であり、具体的には野党第一党で「政権交代可能」な政党を標榜する民主党がやらなければいけないことだ。ところが、安倍政権が連続して「敵失」をしているのに、小沢党首の「事務所費問題」などもあって民主党の政府への追求に、どうも迫力がない。
 一方、都知事選挙が一ヶ月後に迫っているのに、石原現知事に「勝てそうな」候補を擁立できない。政権交代によって積年の「膿」を洗い清めて欲しいと思うのだが、結局は「ないものねだり」に終わるかもしれない。かといって共産党では――。社民は存在感が限りなく薄いし――。
 さて、統一地方選、参議院選等々、どういうことになりますか。
by katorishu | 2007-02-28 01:54
 2月26日(月)
■仕事の打ち合わせで久しぶりに三軒茶屋にいく。以前、ここから歩いていける圏内に住んでいたので、よく足を運んだ町だ。若者と老人が混在している町として東京でも比較的住みやすい一角である。パブリックシアターやシアタートラムなどの劇場があるのもいい。

■打ち合わせが終わって、以前よく執筆をしたコーヒー店で3時間強仕事をしたあと、三軒茶屋シネマで映画『マッチポイント』(ウッディアレン脚本・監督)を見た。夜間割引きで700円という値段設定もいい。昭和30年代を思わせる古びた映画館でロードショー落ちの映画を2本立てで上映している。椅子はボロボロで固く座り心地は悪いが、ここで見た映画は味のあるものが多かった。隣の三軒茶屋中央劇場での上映も含め、毎週1本強は見ていた。

■以前と同じで、本日の観客も10数人。しかし、ウッディアレンの映画「らしくない」ラブサスペンスの味わいのある作品で文句なしに面白かった。イギリスの上流家庭にはいりこんだアイルランドの貧しいテニスのインストラクターのラブサスペンスである。テニスのネットにぶつかったボールが「向こうに落ちるか」「こちらに落ちるか」は運であるが、それによって窮地においつめられた人生が、ドンデン返しとなる。巧みな伏線がもたらすラストは鮮やかで、うなった。ウッディアレンの従来の作にあった「衒学趣味」が姿を消し、「これがウッディアレンの作品か」と訝るほどの異色作で、緊張感があり、存分に楽しめた。

■ニューヨークが舞台にすると、どうしてもウッディアレン自身の分身が登場し、コミカルな味わいか哲学的な味わいのものになるのだが。ロンドンが舞台なので思い切って違う味わいのものに仕上げたのだろう。
 あらためてウッディアレンの才能に驚嘆する。省略をきかせたキレの良い演出と、味のある台詞、巧みな構成。アメリカ映画といえば「ハリウッド的ご都合主義の大作」が目につくが、こういう意欲作も数多くつくられている。なんだかんだいいながら「アメリカのすごさ」を改めて感じる。

■ネオコン主導のブッシュのアメリカや金融資本家などにつらなる「成金」には嫌悪を抱くものの、アメリカ文化の多彩さ豊穣さには敬服する。
 ボーダレス化の進むなか、この先、どこの国でも多文化、多民族化がすすむだろう。多用な価値観が混在し、多彩な選択肢のある社会こそ、願わしい社会である。「覇権主義」「成金主義」からアメリカが早く脱出して欲しいもの、と映画館を出たとき思ったことだった。

■アカデミー賞に地球温暖化への警告をテーマにして「不都合な真実」が長編ドキュメンタリー部門で受賞したという。作品賞のグランプリは「ディーパーデッド」だった。ぼくはミュージカル映画「ショータイム」か硫黄島をあつかってクリント・イーストウッド監督作品がグランプリを受賞するのではと思っていたのだが、はずれた。「不都合な真実」の受賞は環境破壊に警鐘を鳴らす意味で、よかったと思う。受賞作はいずれも見ていないので、近々見るつもり。
by katorishu | 2007-02-27 01:22
 2月25日(日)
■政治評論家の森田実氏のホームページに驚くべきことが載っている。2002年2月、小泉元首相がアメリカを訪問し、ブッシュ大統領と会談したが、その際、小泉元首相はアメリカに対し「日本がもっている国債は売りません」と約束したとのこと。以下、森田氏がつい最近ホームページに発表した文章の一部を引用させていただくと、

《日本では明らかにされていませんが、事実です。ブッシュは帰国後、興奮して「アメリカ外交の勝利だ」と言ったそうです。 そのことを教えてくれたチェイニー副大統領のスタッフに、「小泉は『あるとき払いの催促なしでいいよ』と言ったのか」と聞いたのですが、「アメリカには、そんな曖昧な表現はありません」と言うのです。「ブッシュの報告は、どのように理解されたのか」と聞くと、「“いただいた”とアメリカ側は理解している」と言いました。
 「アメリカはただただ奪うだけではないか、ひどすぎる」と私が言うと、彼は「ブッシュは小泉に、小泉が一番ほしいものを与えています」という返事が返ってきました。それは「小泉さんには、ブッシュは日本の政治史上最も偉大なるリーダーだという誉め言葉を与えています。ブッシュが歯の浮くようなお世辞を小泉に言い続けてきたのは、400兆の金をくれたことに対するお礼なのです」と彼は言いました。日本人にとっては冗談ごとではないと思います》

■著名な政治評論家の森田氏が記していることであり、事実に基づいているに違いない。400兆円ものオカネをいとも簡単にアメリカに「やってしまった」のである。ブッシュ大統領が小泉元首相を大歓待するのも、うなずける。それにしても、こういう小泉氏を国民の多くが支持したのである。 国債を売るかもしれない、とブラフを聞かせたりしてアメリカの言いなりにならないことこそ、独立国のまっとうなやり方ではないのか。
 日本の国民が営々として稼ぎだしたオカネが、こんなふうに使われる。日本国民はもっと怒らなくてはいけないのに小泉待望論まで出ている。日本国民はマゾかと思いたくなる。

■こういう「事実」をマスコミはほとんど報道しない。インターネットなどで情報を広げて欲しいものだ。小泉氏はアメリカが日本を「軍事的に守ってくれていること」のお礼だといいたいのだろうか。他の国も世界一の債務国アメリカの国債を買っているが、こんなバカなことはしない。外交とは駆け引きであるはずなのに、これは単純にいって屈従である。日本は「アメリカのATM機」といわれても仕方がない。
 どうも日本はアメリカナイズという一種のマインドコントロールにあっているとしか思えない。マインドコントロールにあっている人間は不合理な仕打ちにも喜々として従うものである。
by katorishu | 2007-02-25 23:47
 2月24日(土)
■NTT東日本の光通信Bフレッツに本日から変更した。通信速度が速くなるかと思ったら、そうでもなく、LAN設定がどうもうまくいかず、一日の大半がつぶれてしまった。本体のパソコンとのメールやインターネットについては、簡単に設定できたが、ほかのパソコンとのLANでの通信の設定が複雑煩瑣で、マニュアルを読んでも、どうもよくわからない。とくに無線LANの安全性を保つための暗号化について、説明書の説明では不親切である。
 インターネットの仕組みについてなるべく学ぼうとしているので、自分で設定しているようにしているのだが。もう少し簡易にならないものかと、いつも思う。

■善し悪しは別にして、インターネットを通じた情報のやりとりは、時代の流れであり、インターネットが社会を大きく変えていくことは間違いない。その社会が、多くの人にとって住みやすく、幸福感を覚えられるものであるといいのだが。
 最近、感じることのひとつに、他人に対しての「優しさ」が減っているということがある。人が道を歩いていて何かを落とす。以前であったら「落ちましたよ」と声が即座にかかるのだが、知らん顔して黙って歩き去る人が多くなった。
 下手に善意の手をさしのべると「余計なことするな」といわれかねないし、電車の中などで、目に余る振る舞いに対して注意をすると、なにをされるかわからないので、無言のまま見過ごす人も多くなった。人への無関心、冷淡さ。これは「優しさ」の対極にあるもので、私見では、社会の仕組みが複雑になればなるほど、その傾向は強まる。

■深夜、パソコンに向かいながら、「便利になった」と思う一方で、この便利さが果たして人を幸せに導くであろうか、といつも思ってしまう。
 少々不便でも、物質的に豊かでなくとも、多くの人が「幸福感」を抱ける社会を目指さないといけないと思うのだが。そういう「のどかな社会」は既に望むべくもない。
 多くの人の「欲望」をエネルギーとして、ある方向へ大きく動きはじめた「巨弾な歯車」にストップをかけるのは、むずかしいようだ。こうなったら、とにかく「長生き」をして「この世の果て」を見てみたい。
by katorishu | 2007-02-25 00:54
 2月23日(金)
■放送作家協会の理事会と、そのあとの総会に出席。テレビ業界のかかえているさまざまな問題について、熱い議論になったりした。
 インターネットの急速な普及と進化によって、「放送」という概念がかわりつつあるようだ。放送作家協会の会員ではあるが、ぼく自身、自分について一度も「放送作家」と名乗ったことはない。フリーになって以来、テレビやラジオに脚本家として関わってきたので「脚本家」といっている。放送作家という場合、一般的には「構成作家」のことを指す場合が多い。情報バラエティやワイドショーなどの構成を担当するのが構成作家で、ドラマについては脚本家というのが通例になっている。

■インターネットの普及で「脚本・台本」の概念もかわってきているようだ。以前はほとんどの番組に印刷された「台本」があったのだが、最近は印刷をはぶき、パソコン画面に映像と文字をいれて「台本」とすることが多くなっている。技術スタッフなどにはそれを印字してわたすのである。従って、これまで脚本・台本を専門に印刷してきた印刷屋が職を失い、過日もある台本専門の印刷屋が倒産した。

■一方で、構成台本などを専門に書いていた人の仕事も激減している。テレビドラマ枠も以前に比べたら随分と減っているので、書き手の活動する舞台も機会も減っている。一方で、ドラマを書きたい人は大変な数にのぼっている。需給のアンバランスがひずみを起こしているのである。
 経費節減と共に質の高いものを求めなくなったテレビ局側の問題もある。(その裏にはもちろん、視聴者の質の問題があるのだが)。
 プロの構成作家に台本執筆をたのまず、ディレクターや内部のスタッフが自分でパソコン上に書き、それをもとに制作をすすめていくことが多くなっているようだ。

■そんな流れの中で、こんな悲しい話を聞いた。放送作家協会の維持費は会員がおさめる月1000円の会費でほとんどまかなっている。もっとも貧乏な公益法人だが、その会費の滞納者も増えている。最近、病気になり仕事ができないので、ほとんど収入がない会員から、会費納入の猶予の申し出があったそうだ。一定期間、会費を払わなければ除籍されるという規定になっている。ただし、病気の場合、病院の診断書があれば病気の期間中、会費納入を猶予される規定がある。ところで病院の診断書を作成してもらうには5000円かかるという。その会員はその5000円が出せないので、診断書がなくとも猶予できないかとのことだった。協会は任意団体であり、規定に反すれば自動的に退会になる……という意見があったが、それではあまりに「冷たい」という意見があり、特例として診断書ではない書類でも猶予ということに決まった。
 想像だが、彼が社会とわずかにつながっている細い糸が、放送作家協会員であるかもしれないのである。他人事ではないな、という会員の声もあった。
 「あるある大事典」の構成作家も会員で、彼は相当の収入があるそうだが、一方には、こんな貧苦にあえぐ会員がいる。

■さらに安価な制作費でつくろうとす組織も多く、台本等の執筆を一定の「最低額」をもうけている協会員以外の人に発注するケースも多い。それが、番組の質に濃厚に反映される。本日接した同業者が一様に口にするのは、自分たちがそこで禄を食んできた「テレビの劣化」である。もちろん、これはすごいと思わせる番組も時折り流れるが、安直なつくり方をしている番組が多い。作り手に問題があると同時に、そういうものを求める見る側にも責任がある。
 
■毎日毎日あれだけの情報を24時間流しつづけている上、低予算で「数字」をあげなくてはならないカセがあっては、そうそう良質な番組をつくれるワケがない。
 テレビばかりでなく日本全体に通じることだが、システムがどうもおかしくなっている。システムの恩恵をうけ、ぬくぬくと暖衣飽食の生活を送っている人も東京には多い。
 もちろん、それはごく一握りの人で、テレビ業界ひとつとっても、末端で一番大変な労働をしている人たちは、生存ぎりぎりのところにあるケースが多く、病気になったりしたら、生きることもむずかしくなる。

■決して能力や努力が劣っているわけではない。(もちろん、劣っている人も数多いが)能力、努力ともたいした違いはないのに、システムの恩恵を受けている人と、受けていない人との「落差」は許容できないほど開いている。
 弱肉強食のケモノの社会を生きているフリーランスの人の中にこそ、社会の矛楯が凝縮されているといっていいようだ。いろいろと考えさせられる理事会、総会であった。
by katorishu | 2007-02-24 12:59
 2月22(木)
■過日、山梨日日新聞の論説委員長が盗用を繰り返し、クビになったが、今度は新潟日報の社説でも盗用があった。拉致問題についての朝日新聞の社説から盗用していたという。週に3,4本執筆しなければならず、「きついので」悪いと知りつつ盗用してしまったと弁解しているそうだが、困ったことである。多くの人の目に触れる大新聞の社説から盗用したら、発覚するのは当然である。そういうことに思いの至らない人が、社説を書いている。新潟日報のホームページにはお詫びの社告が載っており、それによると小町孝夫という論説委員がしたことだという。

■引用を明記して、そこから持論を展開したり反論したりするのなら、盗用でもなんでもない。しかし、あたかも自分の意見、見解であるようにして、他人の書いたものを丸ごと書き写す。アマチュアのブログなどでは、かなりの程度行われているのかもしれないが、地方紙とはいえ新潟日報は長い伝統を誇る新聞である。調べれば他の新聞でも、似たような社説や記事がぞくぞくと出てくるような気がする。

■自分の意見、自説といっても、他から影響を受けたり、他人の見解に感化され、無意識のうちにも見解そのものが似てくることは、よくあることである。従って、似たような見解を発表しただけでは盗用にはあたらない。ヒントを得たり、影響を受けることは、当然である。ヒントや影響と、盗用の境目は曖昧であるが。
 素材として参照しても、自分の頭で考え、自分の文体で文章化すれば、おのずと書く人の個性が出るもので、それは盗用とはいわない。

■新潟日報の場合、具体的にどのような盗用なのかはっきりしないが、計六カ所で朝日の社説と酷似したところがあり、本人も盗用を認めた。愚かしいことである。
 ところで、一人の人間の「オリジナリティ」といってもタカが知れている。言語ひとつとっても、長年にわたって先人のつみあげてきた基盤の上で、活用させてもらっているのである。考え方、感じ方も、先人のつちかってきたものに、ほとんど負っている。そこから出発して、その時代・時代の特色、問題点をえぐり出し、どのように「新しさ」「独自の見解」「独自の感じ方」を創り出せるか。「個」の見せ所であり、だからこそ、表現の面白さもあると思うのだが。

■丸ごとコピーしたりペーストしたのでは、創る(書く)喜びもあったものではない。盗用氏は恐らく強い後ろめたさを感じつつ丸写しをしていたのだろう。いや、もしかして、後ろめたささえ失っているのかもしれず、バレたのは運が悪かったと思っているのかどうか。学生のレポートや論文なら、ともかく文筆のプロがこうも相次いで盗用するとは。「世も末」という言葉は、こういうことについて使うのだろう。
 インターネットは便利なので、自分自身、うっかりそのままコピー、ペーストすることは、ありうることなので、充分すぎるほど注意をしなければ、と改めて思ったことだった。
by katorishu | 2007-02-23 01:01
 2月21日(水)
■下北沢に最近できた小劇場「楽園」のこけら落とし公演『五つの大罪、死刑!ぴたっ』を見た。ぼくの芝居に何度も出てもらっている元黒テントの異色役者、根本和史の一人芝居である。8年ぶりの公演ということだ。以前の舞台を見ることができなかったので、興味深く拝見した。脚本・演出は「マルティ作家」ともいうべき高平哲郎氏。

■根本氏は不器用な俳優で、そこが売りになっているのだが、今回も不器用さはかわらず、充分すぎるほど「根本色」を出していた。高平氏によると、キャラクターは漫画家の山上たつひこ氏から得たとのことで、5つの短いエピソードからなる、ある死刑囚の物語で、随所にブラックユーモアがちりばめられていて楽しめた。
 還暦をすぎた根本氏が全身で渾身の芝居をしており、熱気が伝わってくる。死ぬまで役者を貫いて欲しいものだ。

■芝居を見てそのまま帰宅するわけにはいかない。近くの酒場で久しぶりにあった面々と歓談。女優の新井春美さんやタレントの大竹まこと氏他、作曲家、演出家等々。
 大竹氏から人気番組に育った「テレビタックル」の舞台裏など興味深い話も聞いた。「今の社会は悪意に満ちた社会だ」と大竹氏は語っていたが、その通りである。自分の存在を示すために他をけなし罵倒する。それが風潮になっている。
 大竹氏が出ている関西ローカルの「ほんわかテレビ」とかがあるそうだが、馬鹿馬鹿しくて面白いとのこと。関東にないお笑いだという。

■大竹氏によれば、伊東四郎氏やビートたけし氏は「コメディンの天才である」とのこと。昔、伊東四郎さん主演の65回連続の昼帯ドラマ『ああ単身赴任』を書いたことがあるが、伊東さんは台詞覚えが早く、スタジオに台本をもたずにやってきて、台本通りにみごとに演じる。さすが浅草軽演劇で鍛えた人だけある、と思ったことだった。

■酔ったついでといってはアレであるが、新井春美さんの一人舞台の脚本を書くことを約束してしまった。今の社会に決定的に欠けているのは「優しさ・思いやり」であり、その点で意見が一致した。この視点から切り取ることができればと思って安請け合いをした。
 新井さんは画家としての腕前もなかなかのものだが、最近、法政大学に入学し、「キャリアデザイン」とかいう学科を専攻しているのだという。「若い人から学べるんですよ」と話していた。
 息抜きを兼ねた歓談の中から、いろいろと想を得ることがある。寝不足であり、舞台を見るのは少々辛いなと思っていたが、出かけてよかったと改めて思ったことだった。才気ある人たちとの歓談は楽しく、「生きた時間」を確かに生きたという実感を味わえる。
by katorishu | 2007-02-22 01:55
 2月20日(火)
■ヤフーのニュースを見ていたら、山梨日日新聞の論説委員長が社説で人の書いたものを盗用していた問題で、社長が辞任したとの記事が出ていた(時事通信)。
 小なりとはいえ新聞の論説委員長は新聞編集の要であり、社説に対して全責任をもつ。小林広論説委員長(56)という人物で、2004年1月以降、16本もの盗用があったという。同社はこの論説委員長を懲戒解雇したとのことだが、あきれてものもいえないとはこういうことをいうのだろう。

■もう何年も前から新聞記者の書く能力が落ちていると、よく耳にした。確かに、その反映なのか、記事などの盗用、捏造などが目立つ。昔から記事のでっち上げはあるが、社説を書くひとが盗用して社説で堂々と発表するような愚かしいことは、これまで聞いたことがない。社会の劣化はこんなところにも端的に表れているのである。

■盗用した論説委員長は恐らく、社説が書けなくて苦し紛れに盗用したのだろう。書きたいこと、訴えたいことがあれば、いやしくも文筆のプロであったら、現今の新聞の社説に書かれている程度のことは、数時間で書けなくては。いろいろな分野で「アマチュア」の技量しかない人が「プロ」として通用している時代なので、こういうことが起こるのかもしれない。

■大変微妙な問題で、厳密に精査したり、いろいろな角度から検討を加えなければならない素材もあるだろう。そういうものは、一週間でも一ヶ月間でも一年かでも時間をかけて書けばよいのである。
 新聞社には分野ごとに専門記者がいるはずで、そういう人が豊富な経験の上で論説委員になったりして社説や論説を書くのである。

■学芸部一筋にやってきた記者に国際政治について数時間で分析しろというのとは、ワケが違う。政治部一筋でやってきて映画や芝居も見ていない人に、映画や美術のついての社説を短時間で書けといっているのではない。指導的な立場にいる人の劣化は、影響力も大きいので、タチが悪い。
 なぜこんな愚かなことをしでかしたのか、一度、小林論説委員長(元か)にあって真相を聞きたいものである。
 
■最近、学生の論文やレポートに、インターネットの記事や論文等を「コピーし」「ペースト」して作成するものが急増しているという。何人もの生徒が、ほとんど似た調子の論文を提出したりするので、教師はすぐにわかるそうだが、最近ではアマチュアでもかなり専門性のある論文等をブログなどに発表しており、そういうところから引いて、適当に目くらましをかけると、担当教官も見抜けなくなる。
 その類の論文やレポートを書いて卒業した人がマスコミなどに大量に入ってくると、先行き、一層、盗用記事、盗用コラムが氾濫することになるかもしれない。コピー、ペーストして「書いて」も、そんなものは血肉にならないし、将来のためにもならない。パッチワークのように「つなげ」る技術、ごまかしの技術だけは巧みになるかもしれないが。
by katorishu | 2007-02-21 00:13
  2月19日(月)
■昨日の川柳句会について。前もって「兼題」として「鮒」「冬」「深い」「蓋」「福」の五つの題がでて、これはそれぞれ2句つくっていく。当日、会場で出るのは「席題」で、この日は「ペア」「減る」「別」「下手」「蛇」の五つ。「席題」は3時間以内にそれぞれ2句つくる。俳句だと割にすんなりでるのだが、ひねりを聞かせる川柳はむずかしい。しかも、そこに「人生」と「おかしみ」がはいる必要があるので、かなり苦しむ。ベテランたちの句は、さすがと思わせるもので、「プロの芸」といってもいいものが多い。

■新参者のぼくの句で選ばれたのは2句。「鮒」の題で《甘露煮の入れ歯に触る鮒の骨》と「ペア」の題で《質流れペアの時計の主いずこ》という句。自分でもあまり感心しないもので、もちろん「特席」とはほど遠い。自分としては「蓋」の題の《瓶の蓋これで喧嘩が出来たころ》がいいと思っていたのだが。この題の選者や女性であったので、「少年の日の思い出への懐旧をうたった心情」をくまれなかったのか。しばしば「特選」に選ばれるカミサンによれば「瓶の蓋」という表現が「蓋」からくるイメージとして平凡なので、それで落ちたのではないかとのこと。川柳には「ひねり」「意外性」が大事なことのようだ。もっとも江戸川柳の流れをくむものもあってこれは物差しが違う。横浜での句会は時実新子川柳の流れである。

■各題とも40前後の句のなかから5~8句ほどが選ばれ、さらにその中から次席の「止め句」と「特席」が選ばれるのである。この日はNHK一都六県の若手女性ティレクター3人が「取材」を兼ねて出席していた。その一人からNHK内の「内部事情」について興味深いことを聞いた。

■本日、ドラマ企画の件で番組制作会社のプロデューサーと新宿で打ち合わせ。プロデューサー氏は最近、韓国ドラマを集中的に見たが「台詞が素晴らしいので驚いた。日本のドラマは向こうから学ぶ必要がある」とのこと。
 一時の「韓流ブーム」は去ったようだが、韓国ドラマから学ぶべきことは多い。もっとも、一口に「韓国ドラマ」といっても、ピンからキリまであるのだが。

■銀座にでて版画展を見た後、たまたま銀座シネスイッチで上映中の「カンバセーションズ」が面白そうなので見てしまった。全編が、10年ぶりに再会した男と女の「会話」でつづられる異色作。画面が真ん中でふたつにわけられ、当初、それがわずらわしく、理解のさまたげになった。
 二人が再会したのは男の妹の結婚パーティ。後半、二人が関係をもち、二人の背景があぶりだされてくるころから惹きつけられた。関係をもったあと、男は女に今の旦那と別れてくれというが、女は拒絶する。彼女は異国のロンドンで外科医の夫と3人の子供と暮らしている。一方、男には23歳のダンサーの同棲相手がいるが、再会した男女はホテルで性的関係をもってしまう。それも互いを傷つけ合う言葉をなげながらの結びつきである。

■女には3人の子供がいるが、当初、彼女の実の子と思わせておいて、じつは先妻の子であることがわかる。このへん、背景説明を省略することによって効果をあげており、深みにもつながる。男女の会話の妙が命の映画であり、当然、脚本は心憎いうまさに仕上がっている。携帯電話、それも同じタイプの携帯をもっていたことから、互いの恋人や夫に二人の「情事」が知れてしまうところなども、うまい。

■「人生は生きにくい」と男がラストではく台詞が真実味をもって迫る。リアリズムに徹していて息苦しいほどであったが、二人の男女の会話だけで90分近くを「もたせてしまう」力量はたいしたものだ。
 ハリウッド映画には珍しく夢のない作品であるが、実験作として買える。監督はこれが2作目というハンス・カノーザ。ハーバード大出身の俊英である。脚本はおなじくハーバード大出身の30歳のガブリエル・セヴィン。この若さで38歳の男女の微妙な関係をじつに巧みに描いていて、才能を感じさせる。セヴィンは小説も書いており『天国からはじまる物語』(理論社刊)は15ヶ国に翻訳されているという。

■こういう映画は「お客」としてではなく、ここはヒントになるな、などと思いつつ「脚本家」としての目で見てしまうので、純粋に鑑賞するというわけにはいかない。
 映画についてはほかに試写会の案内もきているのだが、「貧乏暇なし」なので、いけそうにない。舞台の案内も、この1,2週に限っても6件ほどきている。いずれも知り合いが関係しているので出来ればみんな見に行きたいのですが――。
 割ける時間が限られているので見に行くのは1件だけになります。わざわざご案内を送ってくださった方々、悪しからずご了解ください。
by katorishu | 2007-02-20 01:05

川柳句会

 2月18日(日)
■横浜の神奈川近代文学館での川柳句会に出席。大変楽しくかつ有益な句会で、その後、元町のおでん屋などでの飲み会も、愉快なものだった。句会の模様等々、本日は疲れているので、明日のブログで、もう少し詳しく紹介します。
 川柳に「ドラマ性」をいれ、「人間を描く」という柱があり、なるほどと思ったことなども多かった。同業の脚本家、シナリオライターが2人いて、彼らが「主軸」になっていることの反映かもしれない。
by katorishu | 2007-02-19 04:07