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 7月30日(月)
■横浜に劇団かに座というアマチュア劇団がある。横浜駅近くに住む田辺晴通氏が率いる劇団で、昭和25年創立の老舗劇団である。以前拙作『メアリーという名の姉』という脚本を上演したいと知り合いの役者を通じて連絡があり、その劇団で上演したことが縁で知り合った。プロの劇団もいいが、こういう地域に根ざしたアマチュア劇団の活動が盛んになることも大切だと思った。

■本日、横浜で田辺氏ほか劇団の幹部クラスの人にお会いした。一人は不動産関係の仕事をし、一人は教師である。演劇を通じて、劣化する一方の「文化」や「国語力」「コミュニケーション力」を高めたいということで意見が一致した。

■劇団かに座では春と秋に定期公演を行ってきた。横浜演劇祭の一環として上演してきたとのことだ。中途で頓挫したままになっている戯曲を、この劇団のために書く約束をした。アマチュア劇団に書き下ろすのは初めての体験である。もちろん手抜きなどは出来ない。

■アマチュアの場合、俳優の技倆などではプロ役者に劣る面もあるが、意欲だけは劣っていないと思う。最近は「プロ」といってもアマチュア以下という人も多い中、昼間仕事をもちながら疲れた体にむちうって夜稽古にはげむアマチュア役者たち。劇団かに座では、舞台装置などもすべて手作りで、その面でも参加感を得られるはず。ある意味で、失われた地域コミュニティを補完しているのではないか。

■劇団かに座は、今の日本に欠けているものを豊かにもっていると思った。「でも、若い人の中には大道具や小道具などをまかせると、私は役者をやるためにはいったので、こういう作業をするために参加したわけではないという人もいますね」と田辺氏。そういう人はすぐに辞めてしまうという。公演当日になって辞めますという役者もいるとのこと。

■アマチュア演劇の限界ではあるが、そんなアマチュアを動かしつつ何十年も続けてきたこと自体は、素晴らしいことである。
 この世には「数字」では計れないない価値があり、それがとっても大事であるということを、もっと多くの日本人に知ってもらいたいものだ。なんでも「数字(オカネ)」に換算してしまうアメリカ式価値観とは、べつの価値観を根付かせないと、日本が日本ではなくなる、と改めて思ったことだった。
by katorishu | 2007-07-31 00:48 | 映画演劇
 7月29日(日)
■参議院選挙の投票日である。最近は期日前投票をしているので、投票所へは行かなかった。20時半ごろからテレビの選挙速報を見た。全国的に天候が悪く投票率はあまり上がらないのではと思った。結果として、組織票にたよる率の高い与党に有利かと思い、自民党の数字を42と読み、公明党が10と読んでいたのだが、結果は与党の大惨敗であった。
 
■政治の主権が国民にあるのだということを、多くの国民が学んだのではないか。日本を実質的に牛耳っているのは霞ヶ関の官僚である。これまでの与党政治は基本的に彼らの政策の上に乗っているにすぎない。政治の本質は国民から受け取った税の配分をどうするかの問題であるが、予算配分の権利を多くにぎっているのは、選挙という洗礼を受けていない官僚である。

■社会保険庁が図らずも、これまで隠されていた官僚支配の構図を顕在化させてくれた。これは社会主義国や国家社会主義と似たようなものである。国民が政治的に熟していないので、「頭の良い」官僚システムにまかしておいたほうがいいという意見もある。戦後ずっとこのシステムは比較的うまく機能してきた。じつは様々な欠陥をかかえるシステムであったのだが、右肩上がりの経済成長のもと、いろいろな矛盾や問題点が覆い隠されてきた。

■しかし、もうこのシステムも限界にきている。ぼくはウオフレン氏の『日本/権力構造の謎』などを読むまで、このシステムのカラクリを知らなかった。なるほど、そんな仕組みになっているのかと、驚いたものだ。このシステム、国民生活のすみずみにまで行き渡っているので、直すのは容易ではない。

■現代日本のかかえている問題は、深く重い。政治だけでなく、多くの国民の意識もかわらなくては、解決できないだろう。
 霞ヶ関の官僚システムとこのシステムに寄生している「既得権益層」をどう壊して再生させていくか。今後の政治の動きに注視したい。
 東京都選挙区でエイズ問題で著名になった川田龍平氏が当選したことは、参議院らしくてよかった。

■ところで、衆参両院での与野党の「ねじれ」は、いずれ政界再編に結びつくだろう。自民党は分裂し、恐らく民主党も分裂する。日本は戦後実質的に「アメリカの植民地」であるので、ブッシュ再選後のアメリカ政治をにらみ、小沢一郎氏がどういう戦略を打ち出すか、注目したい。
 霞ヶ関の官僚支配の脱却を以前から小沢氏は主張しているが、真価が問われるのはこれからである。それにしても、これだけ大敗をしたのに、安倍首相は退陣しないという。どうもこの内閣、責任の取り方というものをわかっていないのではないか。
 社会の劣化と共に政治家の器もだんだん小さくなっていく。

■「自由競争」は大事だが、極端な「格差」を生じさせることは社会の不安定化をもたらす。そこにこそ政治が切り込むべきことである。弱肉強食の「獣の社会」にさせないため、「強者(システムで恩恵を受けている層)」には厳しく、「弱者」「ハンディをもった人」には優しく――それが政治のやるべきことである。
 いずれにしても、現代日本のかかえている問題は食糧問題、環境問題、格差問題、少子高齢化問題等々、極めて深刻で、そう簡単に解決できることではない。本日の選挙結果が問題解決の一歩になってくれればいいのだが。あまり期待感を持たずに見守りたいものだ。
by katorishu | 2007-07-30 03:48
 7月27日(土)
■1時40分から3時間にわたる討論番組「朝まで生テレビ」を見た。29日の参議院選挙がテーマで、与野党の代表者が出て自己の主張とライバル党への批判を繰り広げていた。田中康夫氏と亀井静香氏の話が面白かった。田中氏は長野県知事として行った行政の改革や税の無駄遣いにブレーキをかけたことの実績の上で発言をし、一方、亀井氏は自民党政調会長としていろいろな連立を仕掛けた人間としての体験を元に、小泉・安倍改革を批判していた。

■さらに中立的立場から、無所属の江田議員が「官僚支配」の弊害について発言していたが、説得力があった。江田氏は通産官僚出身だが、橋本内閣で内閣官房にはいり「行政改革」を手がけた体験があるだけに、これまた「権力内部」にいた者しか知らないことに基づいて発言していて興味深かった。
 三人に対して他の野党、とくに社民党と共産党の議員は、確かに「言うこと」は理想的で、「きれいなこと」をいうのだが、【権力内部にいた過去を持ちその後権力からはじかれた人】の発言の重さに拮抗できていない。

■万年野党である党や、一生貧乏である人の語ることより、一時期権力にあってその後、権力から排除された人や、裕福さを味わったが今は貧乏といった類の人の言うことのほうが、面白いし人を引きつける。
 光も影もともに強く体験した人間のほうが、「脚本家」の観点から見ると遙かに魅力的なのである。社民党は、党首も、この日登場した女性代議士も、弱者に味方をし良いことをいっているのだが、どうも迫力がない。政策以前に、「リーダー」としての資質に欠けている。
 政治のリーダーは多くの人を引っ張っていく迫力がなければ。

■良い悪いは別にして田中角栄元首相など、リーダーとしての資質100パーセントの人であった。ドラマなら主役にはとうてなり得ない「素材」がリーダーでは、決して主役(政権)を手にすることはできないだろう。政治とは、「説得する」力でもあるのだから。別の言葉でいえば「扇動力」、これが特に社民党の人たちに決定的に欠けている。昔の社会党には浅沼稲次郎とか土井たか子氏とか「説得力」や「扇動力」にたけた政治家がいたのだが。

■与党の自民党と公明党の二人の議員のいうことは、弁解ばかりでほとんど説得力をもたなかった。他の党が「実力者」や「論客」を出してきたのに、自民党はほとんど無名でディベート能力も知識も劣るとしか思えない若い議員を出してきた。なぜ、もっと論客を出してこなかったのか理解に苦しむ。

■自民党の実力者はつっこまれて恥じをかきたくないと思って、テレビ局側の出演要請を断ったのだろうか。劣勢が伝えられる中、翌日の選挙運動に支障をきたすと思ったとも考えられる。自民党としては、ホンネでは、こんな番組をやって欲しくなかったに違いない。この番組を見て、ますます与党に投票する気をなくした人が増えたに違いない。

■本日は隅田川花火大会。複数の浅草在住の人から誘いがあった。いずれもマンションの高層階に住んでおり、部屋やベランダから花火が見える。10数人が集まってお酒を飲みながら歓談するので面白いに違いない。参加したい気分が動くが、敢えて断ってシコシコ原稿書き。

■昨日は月に一回の放送作家協会理事会に出席したあと、渋谷での勉強会に。月に一度、行われている「勉強会」というより、楽しく語る会。メンバーが回り持ちで得意の分野について「講師」となって話す。今回はカミサンが川柳について講師となった。川柳の歴史と時実新子流の「現代川柳」とサラリーマン川柳などの「諷刺」が柱の川柳について1時間ほど話し、あとは前もって参加者が作った川柳の選句。そのあと、主催しているS氏のオフィスで、一人1000円をだしての恒例の飲み会。

■広告関係者が多いが、能の狂言師や舞台女優や灯台を専門に撮っているカメラマンやイッセー・尾形の海外でのマネージメントをしているフィンランド人がいたりと、面白いメンバーである。ここ数ヶ月欠席していたので参加した。
 隅田川花火のほうも行けば楽しいに違いないが、二日続きとなると「持ち時間」がどんどん少なくなっている中、無理ですので、悪しからず。

■明日(28日)は参議院選挙。自民党大敗がメディアで伝えられているが、強い危機感のもとかなり盛り返すのでは、という情報もある。野次馬根性で敢えて予測すると――自民党42議席、公明党11議席。
 外交官出身で3期目を目指す知り合いも出ているのだが、かなり危ないとの予測。人間的にはとても善い人だが、所属する党の政策にぼくはついていけない。でも、頑張ってください。
by katorishu | 2007-07-29 00:55
7月26日(木)
■イタリアで最高気温45度、さらにギリシャでは48度を記録したという。大変な猛暑であるが、一方イギリスは冷夏で洪水に見舞われている。同じヨーロッパでも南北で気温が極端に違う。暑すぎるし、寒すぎる。白黒が極端にはっきりしており、グレイゾーンがなくなっている。これは懸念すべき傾向だと思う。

■日本でも本日、鹿児島は36度を記録したのに、東京は最高気温は28度。東京では梅雨が明けたのかどうかもよくわからない。率直にいって異常気象である。このところ、毎年毎年、異常気象が続いている。環境の劣化がひきおこしているのだと思う。

■地球環境についての国際会議でも、このままエネルギーを大量に消費続けると、いずれ地上は人が住めない環境になると警告している。「車社会」に典型的な現行のシステムを改めなければいけないのに、多くの人は「何とかなるだろう」と思っている。しかし、もう「何とかならない」のである。

■今年の夏、日本ではどういう気象になるのか。そろそろ蝉の鳴き声が聞こえてもいいはずなのに、ぼくはまだ一度も蝉の鳴き声を聞いていない。同じ東京でも郊外の住宅地では事情が違うのかどうか。最近、郊外へ行く機会もないので、わからない。 
 何かが死にかけているのだと思う。

■鉄道への飛び込み自殺も多い。本日、脚本アーカイブズの当番で北千住にいった帰り、都営地下鉄に乗ったが、「人身事故による遅延」を駅員が報じていた。鉄道の人身事故のほとんどは「飛び込み自殺」と考えてよい。地方都市ではどうなっているか知らないが、都内では鉄道への飛び込みが日常の出来事となっている。これも異常である。

■一方で、日本人の平均寿命がまた延びたという。それ自体は悪いことではないが、少子化が続くなか、先行きが懸念される要因のひとつでもある。介護を受ける必要のある人も当然、増えるはずだが、それを支える人が果たしているのかどうか。介護だけではない。経済も社会も、「支え手」が少数になる一方で、「支えられる人」ばかりが増える。こういう社会が、正常に機能するとも思えない。

■もう日本人だけでは高齢化社会をまかなえないのではないか。最悪の場合、「姨捨社会」が生まれかねない。大変な時代になるはずで、解決策として「移民」が現実的な選択肢として浮上するだろう。異文化とどう共生していくか、日本人一人ひとりが我が事として考えねばいけない時期になった。が、多くの国民は極めて「内向き」である。海外旅行は盛んなものの、世界の「現実」にあまり目を向けようとしないし、国際情勢の「基礎知識」があまりに少ない。海外の出来事をあまり報じないマスメディアの責任でもある。
by katorishu | 2007-07-27 01:42
 7月25日(水)
■サッカーのアジアカップ、日本対サウジアラビア戦を途中からだが、テレビの実況中継で見た。後半戦、3対2とリードされてからの試合であった。最近スポーツ中継をあまり見なかったが、国際試合を見ると、なんとか日本が勝って欲しいと願う。が、結局、決め手がなく、日本は敗れた。

■体力的に負けているなと素人目にもわかる。テレビの解説者が叫びすぎで、観戦の邪魔になった。お客の関心を引きつけるためには絶叫調が必要なのだろうか。情報を淡々とつたえ、会場の声をもっと拾うことで臨場感を伝えてほしい、と思ったことだった。プロ野球の中継でもアナウンサーが叫びすぎで、それが「押しつけ」に見えてしまう。迫力のある試合であったら、下手な解説は必要がないと思うのだが、見る方も「ここが感動の場面」「ここがポイントだ」といわれないと、感動しないようになっているのだろう。

■説明過剰なのである。その点が気になった。スポーツ中継をあまり見なくなったのは、伝える側の「意図」が見えすぎることも、一因である。すくなくともぼくにとっては。
 淡々と映像を伝え現場の声を聞かせる中継が、ひとつぐらいあってもいいと思うのだが、この類の番組を日常的に見ている人にとっては、「絶叫」が「普通」のことなのかもしれない。

■テレビドラマや芝居についてもいえることだが、とにかくオーバーアクションである。静かに淡々と伝える作品がじつに少ない。最近外で飲食すると、料理の味が非常に濃くなっている。甘さや塩からさが強すぎ、素材の味を消してしまっているものが多い。白か黒かをはっきりさせないと、味わえなく(わからなく)なっている人が多くなっている証拠だろう。白でも黒でもないグレイゾーンの微妙なものを感じ味わい理解する能力で、日本人は極めて優れた民族であったはずだが、どうもそんな能力、感受性が退化している。
 感受性の退化つまり鈍化は、文化的劣化につながる。ひさびさにスポーツ中継を見て、あらためて思ったことだった。
by katorishu | 2007-07-26 00:53 | 文化一般
  7月24日(火)
■久しぶりに渋谷の映画館でスペイン映画『ボルベール《帰郷》』を見た。名作『オール・アバウト・マイ・マザー』を撮ったアルモドバル監督作品で、ペネロペ・クルス主演。15歳の娘と失業中の夫と暮らすライムンダ(ぺネロペ・クルス)に、事件がふりかかる。娘が、失業中の欲求不満から娘をレイプしようとした父親を刺殺してしまった。事態を知ったライムンダは「わたしが殺したことにする」と決意して死体を氷詰めにする。

■この事件により、娘の父が「実父」ではない事実が明らかにされる。さらにライムンダが慕っていた叔母の死。そして、亡くなっていると思われていたライムンダの母が生きていた。実の娘の父親について更に衝撃的な事実が明かされるなど、アルモドバル監督らしく、家族のどろどろした関係が展開される。スペインの明るい陽光とスペイン人のもつラテン気質の故か、妙な明るさに満ちており、重苦しい印象とは無縁である。

■30半ばと思われるペネロペ・クルスの演技のうまさに改めて感嘆する。劇中で彼女自身が歌う哀愁をおびた歌もいいし、いくつもの表情をもっており、強く印象に残る。
 次第に明かされる「事実」は衝撃的だが、登場人物たちはたじろがず、スペイン人らしく、極めてたくましく生きていく。そこに救いがある。ハリウッド作品のパターンとはかなり違った展開であり、映像も新鮮。現実の人生と同じく作品もハッピーエンドでは終わらないが、それがかえって深い余韻を残す。

■渋谷駅近く、ハチ公の真向かいのビルの7階にある「シネフロント」で見たのだが、いい映画なのにお客はたった10数人。同じ建物にあるレンタルビデオのツタヤは混み合っていた。渋谷センター街付近は相変わらずの喧噪で、若者を中心に大変なにぎわいであった。道玄坂の途中にある映画館では『西遊記』をやっており、恐らくこちらにはもっと多くのお客が入っているのだろう。テレビの西遊記の焼き直しの映画など観ても時間の無駄という気がするのだが――。やはり宣伝の力なのか。映画を見るなら、『ボルベール』程度の作品をぜひ見て欲しいと思いながら、「ないものねだり」とあきらめつつ渋谷の雑踏を抜けて駅に向かった。

■もっとも、今回のアルモドバル監督の作品、佳作ではあるものの、『オール・アバウト・マイ・マザー』ほどの強い感銘は受けなかった。この監督、一貫して「家族」をテーマにしている。『トーク・ツー・ハー』も同じ監督だった。
 スペイン映画やイタリア映画、アルゼンチン映画などラテン系の映画には深い味わいのものが多い。人生についてちょっと違った見方を提示してくれるし、いろいろと考えさせされるものを豊かに持っている。
『ALWAYS三丁目の夕陽』の続編の予告を見せられた。柳の下の二匹目のドジョウを狙うつもりなのだろう。申し訳ないが、二番煎の映画を見るほど暇ではない。 
by katorishu | 2007-07-25 01:45 | 映画演劇
 7月23日(月)
■久しぶりに国会図書館に行く。永田町駅を降り自民党本部前を通っていくのだが、本部前の入り口には警備の警察官が5,6人立っている。黒塗りの車がやってくると、みんな最敬礼で迎える。そのあと、ジーパン姿のぼくが歩いていくと、「ご苦労様です」と若い警察官がいった。誰か後ろにきた人に向けていったのかと思って、振り向くと誰もいない。ぼくに向かっていったのだった。

■気持ちが悪いほど腰が低いのである。一方、パトカーなどに乗っている警察官が「おい、こら」式の威圧的な声で駐車違反の運転手たちに対する光景も目にする。当然のことながら、一口に警察官といってもいろいろな人間がいる。制服を着ていると、つい制服の下にある「人間」を忘れがちになる。制服を着ている警察官自身、制服という鎧をまとっていると「人間的な」対応を忘れ「取り締まる」役割が前面に出てしまうことがあるのかもしれない。本日蒸し暑かったのか、国会周辺を警備している機動隊員らしい青年が帽子をぬぎ制服をはだけて汗をぬぐっていた。帽子をぬぐと、その人の個性が表れ、この人も街でよく見かける若者の一人だなと思い、親近感もわいた。

■レッテルで人を決めつけることは危険である、といいたいのである。自民党関係者というと、自動的に「権力側」で「金持ち」といったり、共産党関係者というとごりごりのマルクス主義者で、創価学会員というと一面的にしかものを見ることのできない「狂信者」といった「レッテル張り」をしがちだが、個人的につきあってみると、それぞれ違う。

■一口に「朝鮮人」「中国人」といっても、千差万別であり、一人ひとりが個性をもった人間である。十把ひとがらげに「中国人はズルイ」といった言い方が横行しているが、こういう決めつけからは何も建設的なことは生まれない。
 狭い地球上に肩を寄せ合って生きているのである。些細なことでいがみ合うなど、それこそつまらないことである。レッテル張りは避けて、個としての人間を見ることが大事であるとあらためて思ったことだった。

■今の世の中、必要なことは「妥協」ではないのかと思う。妥協とは譲り合うことであり、実に簡単なことのはずなのだが、これがなかなかうまく機能しない。
 国と国のレベルでも譲り合う精神があったら、戦争など起こらないのだが、どうも人間には「意地」とか「プライド」とかがあって、互譲の精神を阻害する。権力、金力をもっている人に限って、プライドなどの余計な精神が過剰にあるので、問題をややこしくする。

■それはそれとして、国会図書館には日本の英知が堆積している。出版されるあらゆる雑誌や書籍を法的な義務として国会図書館に送付するというシステムは、戦後日本が構築したシステムの中でも最良のシステムであると思う。
 国会図書館にある膨大な図書類を国会が開発したインターネット検索で見ていると、ここにこそ日本の誇るべきものがぎっしり詰まっていると思った。誰でも利用できる施設であるし、一度もいったことのない人は是非一度足を運ばれんことを。
by katorishu | 2007-07-23 23:34 | 文化一般
  7月22日(日9
■本来なら本日が参議院選挙の投票日である。ぼくは昔から一貫して支持政党なしで、その時々で、多くの国民にとってプラスとなる政策を実行してくれそうな候補者に投票してきた。(実行は期待できないにしても、一歩でもそこに近づく努力をしてくれそうな人に) 政治とは結局のところ税金をどう分配するかということである。この世の中、すべての人がハッピーになることなどあり得ない。

■ある人にとって良いことが、別の人にとっては悪いこと、といった類のことは世の中に無数にある。恋愛問題ひとつとっても自明であるが、ある人が「恋の勝利者」になる影には敗者の悲しみを味わう人がいる。
 組織内でのポスト争いなども同様である。この世の本質は厳しい生存競争である。強い者が勝ち、弱い者は破れる。このケモノの世界から完全には無縁になれない。そこで「民主主義社会」に於ける政治とは、強者に厳しく、弱者に甘くすることである。

■別の言葉でいえば強者が得た物の一部を、弱者に「還元する」システムを作りこれをうまく機能させることである。その仕組みが戦後日本社会は比較的うまくいった。だからこそ「一億総中流化社会」が実現したのだが、バブル経済を機にそれが崩壊してしまった。
 アメリカ方式を導入しないと日本は崩壊する、と危機感を抱いた竹中氏などが主導権をにぎり、あまり物事を深く考えない小泉前首相などをうまく乗せて「競争原理主義」を導入した。

■この政策、はっきりいって、強者に甘く、弱者に厳しいやり方である。アメリカ式のグローバリゼーションの日本への導入であり、日本に馴染まないこの政策が5年以上も続いた結果、惨憺たる状況が社会の至るところに現れている。テレビなどのマスコミ報道だけに接していては、見えてこない。

■日本文化にアメリカ式のグローバリゼーションは似合わない。いうまでもないことだが、日本はアメリカではない。「恥の文化」「譲り合いの文化」「分かち合う文化」が、かなりの程度、社会の土壌を築いていたのだが、バブル経済とその崩壊、さらにグローバリゼーションの波によって、根こそぎそうした文化が崩されてしまった。まだ根っこは残っているので、再生不可能ではない。
by katorishu | 2007-07-23 00:05

麻生外相の「失言」

 7月21(土)
■麻生外相が演説で日中の米の値段のたとえを「アルツハイマーの人でもわかる」といったことが、問題となっている。漫画好きといわれる麻生氏ならではの発言で、一国を代表する外相としては極めて不適切である。
 外相の発言は、お笑いタレントの発言とは重みがまるで違う。この人も吉田元首相の孫であり典型的な「世襲議員」である。弱い立場にある者の気持など、果たしてわかるのかどうか。

■だれかが半径3,4メートル内で接すると、とっても面白い人で善い人であると語っていた。確かに「お友達」としては善い人なのだろう。ジョークも連発するし当意即妙に言葉を発するそうで、酒を飲むならこういうタイプの人と飲みたいものである。
 しかし、閣僚の資質としてはどうなのか。インターネット時代を迎え、公的な立場にある人の発言が瞬時に世界に広がる時代である。安倍首相後の「総理候補」とマスメディアで報じられているが、この人の発言はどうも軽いし、その場をわかせようという「サービス精神」が旺盛なのか、不用意である。政治家はサービス業ではない。

■アルツハイマー患者など社会的弱者を「もののたとえ」にしたら、「問題発言」として批判されることを見通せなかったのだろうか。政治家は文筆家などと同様「言葉」が命である。それも、発する言葉の影響力が強大な外務大臣である。裏の裏を勘ぐれば「安倍政権」にダメージを与えるために発言したのではないか思えてしまうほどだ。

■潜在意識にあるものは、ふとした弾みで言動に出てしまうものである。人間というのは、それほど高潔な存在ではないし、心の中ではいろいろと表に出来ないことも考えるものである。知り合いの赤ちゃんを見て、「あまり可愛くない顔をしているな」と内心思っても、親に対しては「可愛いですね」という。それが「大人の常識」というものである。

■図書館から帰宅してつけたテレビのニュースで、新潟中越地震について中国のネットに「地震で日本列島が太平洋に沈めばよかった」などという中傷誹謗する内容があふれたと伝えていた。中国共産党もこれはまずいと思ったようで、ネット上の誹謗を非難したという。他人の不幸を喜ぶとは困ったもので、品性下劣というしかない。具体的にどの程度の中傷誹謗が中国のネット上に流れたかわからないが、中国当局がわざわざ批判を加えたことは、看過できない動きであったのだろう。

■急速な「経済発展」をとげた裏に様々な矛盾をかかえる中国社会。基層部分に、「変化」が生まれているのかもしれない。先日、段ボール入りの肉まんの報道が捏造であることが発覚したが、背景に中国当局の権威失墜をねらった意図があったのではと勘ぐることも出来る。米朝関係も新たな段階にはいったし、東アジア情勢も微妙になってきた。だからこそ、外務大臣には見識があり、戦略に長けた人がつかなければいけないのだが――。
by katorishu | 2007-07-22 02:47

柏崎原子力発電所の火災

 7月20日(金)
■柏崎の原子力発電所の地震による火災等について、海外メディアも大きく取り上げている。国内メディアが東京電力や政府などに遠慮して、及び腰の報道を繰り返しているのに対し、海外メディアは地震国日本の原子力発電は大丈夫なのかと懸念を表明している。

■仮に神戸淡路大震災クラスの地震が襲ったら、どんな惨事になっていたであろうか。考えるとゾッとする。チェルノブイリ程度の事故が起これば日本の相当部分が、死の土地になってしまう。人間のやることに100パーセント完璧、完全ということはあり得ない。まして天変地異は人の力ではどうしようもない。地上に存在しない物質を創り出したときから、人類は犯してはいけない領域に踏み込んでしまったワケで、そのツケはいずれ人間に返ってくるだろう。

■原子力発電は石油にかわる「クリーンな」エネルギーとして、特に資源小国日本では積極的に進めているが、果たしてこの方向でいいのかどうか。専門家をまじえて徹底的に議論をしてもらいたいのだ。電力消費を押さえることで、原子力エネルギーに頼る比重をへらすべきではないか、とぼくは思っている。それでやや不便になるだろうが、それも結構ではないか。便利さとは裏腹に、極めて脆弱で、危険な文明を築いてしまったものと、あらためて思う。

■今後10年くらいの間に東京が大地震に見舞われる可能性は相当程度の確率であり得ると思う。ぼくの住む近くには何十階もの構想マンションが建っているが、地震などで電力の供給がとまりエレベーターが動かなくなったら、便利さが不便さの象徴になる。
 中東での大戦争の危険性も去っていないし、これまで通り日本に石油が供給される保証はない。だから原子力で……という理屈で、原子力発電所の建設を進めてきたのだが。

■機械等に頼り、便利さ、快適さばかり追求し「楽」をしようとすると、人間はどんどん弱くなり、本来もっている「機能」をなくす結果になる。
 現在、リハビリを専門に行う理学療法士を主人公にしたのラジオドラマを書いており、関連の資料を読んだり関係者に話を聞いたりしているが、「楽」をすると「一人歩き」できる人も出来なくなると実感する。例えば家の中をバリアフリーにすることがはやっているが、必ずしも「障害者」のためにならない。バリアフリーをもうけることで、「楽」をしてしまい、せっかくの「機能改善」の機会を奪うこともあるのである。

■子供の「ため」と思って親がしゃかりきになってやることが、子供をスポイルしていることがどれほど多いことか。光があれば必ず影がある。良いことづくめのことなど、地上にはないのだということを、知っておいがほうがいいと思うのだが。多くの人が便利さ快適さへと向かった走り出し、残年ながらもうとどめようもない。「快適さ」「便利さ」は「麻薬」であり、それを味わってしまった人はよほどのことがない限り、手放せない。そうして「よほどのこと」は刻一刻近づいている。
by katorishu | 2007-07-21 02:09