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11月24日(土)
■明日からロスとニューヨークに行きますので、このブログ、少々休みます。12月2日にもどる予定ですので、その後、アメリカ印象記などもまじえて再開したく思います。
 日本を離れている間、インターネットから一切離れていようかなとも思っています。

■最近は朝(午後の場合が多い)起きると、まずパソコンのスイッチをいれ、メールをチェックしたりすることが、洗顔をするのと同じように「日課」になっています。8日ほどの短い期間ですが、インターネットのからんだ「日常」から離れることで、不都合があるのかどうか。
 時には文明の利器と離れることも大事かなと感じています。本当はインターネットなども通じない「秘境」などにいくのがいいのでしょうが。インターネットの誕生の地のアメリカですからね。「執筆用具」としての携帯パソコンはもっていくので、インターネットにつなぐ誘惑に勝てないかもしれません。

■携帯パソコンは現在、インターネットに敢えてつながず「ワープロ」として使用しています。今回はアメリカの脚本アーカイブ関係についての取材とアメリカの脚本家などとの意見交換などが目的です。アメリカに行くのは10数年ぶりです。飛行機があまり好きではないので、仕事など必要にかられないと海外に行くことはほとんどないのですが。
 9,11テロ以降のアメリカの変わりようの一端でも垣間見ることが出来たらと思っています。
 仕事に限らず、プライベートの件でメールをくだる方、返信は2日以降になるかと思いますが、悪しからずご了承ください。
by katorishu | 2007-11-24 23:31 | 個人的な問題
 11月23日(金)
■夕方近く、大井町駅付近を歩いていて、衝動的に牛丼チェーン店、松屋にはいって350円のカレーを食べた。案外、美味である。以前、松屋で販売していた290年のスパイシー・カレーは値段の割に美味で、しかもここはみそ汁のサービスがある。そのためときどきカレーを食べることがあったが、最近は店に入ることもなかった。

■肉類はあまり好きではないので牛丼を食べることはないが、カレーについては以前と比べ「競争」の成果なのか味がずっと良くなっている。食堂などで出す600円程度のカレーより、ずっと美味であり、24時間営業というのも、消費者にはありがたい。

■チェーン店の居酒屋が増え、中にはただ脂っこいばかりで「これでよく金をとるな」と思われる店もあるが、少なくとも「味」については随分と向上した。一方、個人商店が減っている。店主が個性的な店作りをして営業をつづけている店がある一方で、旧態依然とした経営を惰性でつづけ、「お客がこない」と嘆く店もある。

■「お客がこない」店には、それなりの理由があるようだ。食べ物屋で、従業員の言動にリズムがない店は、お客がはいらない。素朴で懇切丁寧なのは、それなりの「個性」であり悪くないのだが、店の人間が私語ばかりして動きが鈍い店は、まず料理がなっていないと思っていいだろう。食べ物屋でお客のはいっていない店には、人は寄りつかない。

■服装ひとつとっても、季節が変われば身体の防御のためにも「衣替え」をする。北風が吹いているのに、春風が吹いていたときの気分でやっていては、競争社会の中、落ちこぼれてしまう。趣味でやっているのならともかくビジネスの論理は非情であり、弱肉強食の世界である。流行っていない店は「防御の姿勢」が甘すぎるという印象である。

■以前、北千住で何度かいった「寿司食堂」が閉店したという。カウンター席は5,6人しか座れないので、お客は奧の座敷に座るのだが、いついっても客がいたためしがなく、奧の座敷はお客が座敷にあがってから明かりをつける。「この店、いつまでもつのかなあ」などと脚本アーカイブズの委員諸氏と話したものだが、やはりつぶれた。

■創意工夫が足りないのである。個人経営で長くやってきた人は、過去の「成功体験」に安住してしまうのか、創意工夫が足りないケースも多い。我々もふくめ「フリー」の職業や中小零細はとにかく「創意工夫」を第一に心がけないと生き残れない時代である。時代の風潮を嘆くのではなく、ヨットのように逆風をむしろ利用して前に進むといった知恵を働かせたいものです。

■喫茶店で仕事をしながらたまたまつけたNHKのラジオ第一放送で「美しい昭和モダンの音楽」を耳にした。昭和初期の音楽の良さを改めて実感する。作曲家の服部良一の歌をとりあげた3時間ほどにおよぶ番組で(とびとびに聞いただけであったが)小夜福子の歌う「小雨の丘」など哀愁に満ちた秀逸の歌で、この歌をメインにすえた舞台をつくりたいと思った。時間とお金の余裕があれば、自腹を切ってでも音楽をまじえた昭和初期の舞台を作・演出したいのだが。どうも両方から「見放されて」いる。
by katorishu | 2007-11-24 00:40
 11月22日(木)
■珍しく朝早く起きて、ボランティアの脚本アーカイブズの当番で北千住までいったが、すこし薄着をしていたので、寒さが身にしみた。秋になっても暑い日が続き、暖冬になるかと思ったら一転して寒い冬になりそうだという。気候の変動が激しく異常ともいえる。
 北極の氷も相当な早さでとけはじめているというし、漁業国アイスランドなど漁獲量が激減しているらしい。困ったことである。

■世の中厭なニュースばかりだが、そんな中、先日の国際女子マラソンで優勝した野口みずきの健闘ぶりなど「明るく爽やかな」ニュースであった。高橋尚子や、柔道の谷亮子等のようにテレビに出まくって「タレント」化していた人と違う何かが、野口みずきにはあると思った。今度の優勝で脚光をあび、テレビなどから出演依頼が殺到するだろうが、「タレント」として出まくることはないだろう。

■家が貧乏なため友達と遊びに行くのに自転車を買ってもらえず、野口は自分の足で走っていたとか。一時は生活保護をうけながら歯を食いしばって頑張ったという。そんなマイナスの体験をバネにして栄冠をつかんだのである。近頃では珍重に値する。現在、所属する会社も大手のスポーツ関係の組織ではなく、地味そうだ。面相が「テレビ向きでない」ところもいい。「目立ちたがり屋」の選手の多いなか、彼女の存在は貴重である。「いぶし銀」という言葉も死語になってしまったが、こういう言葉が「生きる」社会にならなければ。

■42キロ強を一定の早さで走りきるマラソンほど、過酷なスポーツは少ないのではないか。短距離走や格闘技のような「瞬発力」ではなく、耐久力がためされるスポーツで、体も消耗する。並大抵の努力では出来ない。陸上競技で圧倒的な力を発揮するアメリカ人には、なぜかエースクラスのマラソン選手がほとんどいない。恐らく「地味」なスポーツだからなのだろう。

■地道で辛い努力を日々積み上げて大変な努力の果てに、ようやく栄光を手にする。「手っ取り早く」「楽をして」富を手にすることとは対極にある。ぼくの自宅から徒歩10分ほどの道路がコースになっており、彼女の走りを見たかったのだが、間に合わなかった。大会新記録で優勝したことで、北京オリンピックの代表になることが決まった。
 こつこつと地道に努力を積み重ねてきた人が、なかなか報われない社会だからこそ、野口みずきの努力の果ての優勝は価値がある。久々にさわやな風を感じるニュースだった。
by katorishu | 2007-11-23 03:38 | 文化一般
 11月21日(水)
■日本の75歳以上の人口が総人口の1割になったと総務省が発表した。推計人口は1276万人で、前年同月比で約55万人増加であるという。総人口は1億2779万人で、75歳以上を男女別に見ると、男性が479万人、女性は797万人。一方、15歳未満は1728万人と前年同月比で約14万人減少し、少子高齢化の進行を改めて示す結果となった。(時事通信)

■65歳以上の人口は2744万人(前年2657万人)で総人口の21.5%になっている。これは大変な事態というべきだろう。今後さらに高齢者が増え続け、年少者が減少する。こういう社会がうまく機能する可能性は極めて低い。日本という社会のシステムを根本から改めないと、今後、10年、20年後には「地獄図絵」が現実のものとなるのではないか。

■韓国や中国でも日本に劣らず「少子高齢化」は進んでおり、今後、深刻な事態を迎えることになる。人口問題は、環境問題と並び地球規模での懸念すべき大問題となりつつある。私見では、この危機を回避するには人間の欲望(特に物的欲望)にかなりの程度ブレーキをかけるしかないと思う。

■「もったいない」とか「清貧」とか「辛抱」といった死語になった言葉が蘇るような社会にしない限り、目の前にひかえている「危機」を回避できないのではないか。アングロサクソンが産業革命を武器に追求してきた「繁栄」の限界が見えたということである。
 市場原理主義経済の「成功者」であるアメリカが、今おかしくなっている。サブプライムローンに端を発した株の低下傾向もかわらず、本日日経平均が15000円を割り込んだ。原油価格も高騰をつづけているし、「ただならぬ」事態になってきたようで、「世界恐慌」一歩手前だというエコノミストもいる。

■こういう時代であるからこそ、言葉の本当の意味の「改革」が必要なのだろう。一部の人間が得をする改革ではなく、できるだけ多くのひとのためになる「改革」。口でいうほどたやすくはないが、このままでは危ない。かといって、有効な手段があるのかどうか。

■昨日、テレビ朝日でスペシャル番組「聖徳太子の超改革」の試写を見た。堺屋太一氏の企画・原案で、ドラマ部分にぼくもからんでいる。この番組が完成するまで、ドラマより数倍面白い(?)紆余曲折の「ドラマ」があり、スタッフの苦労も並大抵ではなかった。最終的に「堺屋太一史観」に貫かれた番組となった――と記すだけにとどめておこう。
 放送日は12月25日(日)、テレビ朝日で、18時56分より20時54分までです。ぜひご覧になってください。
by katorishu | 2007-11-21 22:55
 11月19日(月)
■アメリカのライターズ・ギルド・アメリカ・ウエスト(脚本家組合)が19年ぶりのストライキを行い、テレビのトーク番組がストップするほどの影響が出ているという。テレビ番組や映画のインターネット配信をめぐる「利益配分」をめぐって映画・テレビ経営者側との交渉が決裂した結果、ストに踏み切ったとのことだ。すでに今月5日から無期限のストに突入し、まだ決着の見通しはない。

■アメリカのライターズ・ギルドは1万2000人もの組合員をかかえており、組合員でなければ脚本執筆ができない。「自由競争」がアメリカの常識と思われているが、個人の権利を守るためには、立場の弱い人たちが一致団結しており、「規制」も数々ある。アメリカではフリーランサーの立場は「無規制」の日本に比べると高く、経済的にも相応の評価をされている。

■日本にも脚本家連盟があり1000人強の組合員がおり、さらに映画のシナリオを主に書いているシナリオ作家協会の会員400人強がいる。この人たちがテレビや映画の脚本・台本を書いていると世間では思われているが、そうした組織に入っていない「脚本家」もかなり多い。脚本家連盟などではNHKや民放連などと協議をかさね「最低料金」を決めている。それが脚本家の生活を守るために役立っているのだが、アメリカと違って個人の「権利意識」の薄い日本では、「ただでもテレビドラマを書きたい」という人もいる。

■「とにかく書かせていただければ」ということで、映画テレビ会社に「安売り」する新人脚本家も多く、発注側にとっては脚本料を「「買いたたける」一因にもなっている。何人もの若い脚本家から「脚本家連盟などにはいると、仕事がこなくなるから入らないほううがいいのでは」という話を聞いたことがある。正社員を減らし、非正規社員が増えている世間の風潮と見事一致している。

■誰でも脚本を書けてオカネをもらえるのは、一見「良いこと」のように思える。それで作品の質が向上し、海外からも「日本の映画、ドラマはすごい」という評価が得られるのなら結構なのだが、お世辞にもそうはいえない。最近特に脚本家・構成作家が「使い捨て」られている状況が顕著になり、キャリアが評価されないので、劣化にもつながっている。

■地道に努力を重ね、10本20本と書き力がついてきたところで、脚本料があがると、注文がこなくなるケースも多い。もちろん例外はあるが、現在のテレビドラマの相当部分がプロデューサーの言いなりに書く「脚本家」によって書かれている――といった話を、ベテラン脚本家や長くこのこの業界に関わっている人から聞く。本音を語らせれば、それこそ「怨嗟」のオンパレードである。

■個人と大組織では、圧倒的に個人が弱い。弱い個人が「努力の成果」を「安売り」するところからは、新鮮な感動を呼ぶものは生まれてこないだろう。そもそも、そんな「悪い労働条件」のところには有為の才能が集まってこない。
 日本は数々の規制があって弊害がある。だからアメリカのようにしなくては――という大義名分のもと「改革」とやらが実施されてきたのだが、本家本元のアメリカでは個人の権利を守るため、きちんとした「規制」が行われているのである。こういう点をマスコミはもっと報道して欲しいものだ。

■別にそれによって「既得権益」を守るというのではなく、脚本家の仕事を社会的に評価し、経済的にもそれなりに保証することで、良質で意欲的な作品が生まれてくることを、アメリカは「歴史」から学んでいるのである。映画やドラマの成否は、ほとんど脚本の善し悪しで決まる。そのことをハリウッドのプロデューサーや経営者もよく知っている。だからこそ、「創り手」を尊重するのである。役者にしても同様で、日本のように「素人」同然の「役者」が主役を演ずることはない。

■もっとも、とにかく儲かればOKという映像関連会社の経営者も多く、だからこそ「実害」を辞さずにストをやっているのだが。もし、日本で脚本家たちがストをやり、番組に穴があき再放送が相次いだら、国民の非難は脚本家に向けられるに違いない。日本では「人に迷惑をかけるな」という名文のもと、一部の人間が得をするような構造が出来ている、といっても過言ではない。

■ライターズ・ギルドには1万人以上のメンバーがいることから考えると、ここに加入するための「壁」もそれほど高くはないと思われる。そうして、ライターズ・ギルドのメンバーになったからといって、「談合」があるわけでjはなく、仕事が次々やってきて生活が安定するわけではない。厳しい競争が展開され、そこから新鮮で面白く、深みのある映画やドラマが生まれている。

■「野獣のような」競争社会のマイナス面を歴史的に体験した結果、関係者の努力で生まれたシステムである。こういうことこそ「多民族」「多文化」社会アメリカから学ぶべきことなのに。
 現在、日本脚本家連盟所属の1000人ほどの脚本家・構成作家で、「公務員並」の収入のある人は2割もいないのではないのか。生活保護程度の収入しか得られていない人も多い、と推測される。もちろん退職金や手厚い年金などもなく、収入がコンスタントに続く保証もない。そんな「貧しく労ばかりが多い」業界に、素質や才能がある若者はやってこないだろう。来ても逃げていってしまう。


■テレビなどの映像の与える影響力は強大である。その基層部分を支える人たちをないがしろにしたところから、文化の隆盛はあり得ない、と改めて思ったことだった。
 尚、25日よりロスとニューヨークに行く予定で、アポがとれればロスでライターズ・ギルドの脚本家諸氏と意見交換をしたいと思っている。アメリカには、これまで日本が「学んでこなかった」事の中に「学ぶべきこと」が多い。
by katorishu | 2007-11-20 03:29 | 文化一般
 11月18日(日)
■高級料亭「吉兆」グループの船場吉兆の偽装表示問題は、「高級ブランド」なるもののまがまがしさの一端を垣間見させてくれた。料亭で出していた8400円もする「但馬牛すき鍋御膳」と「但馬牛網焼き御膳」も、実は但馬牛ではなかったと、本日の新聞が指摘していた。

■経営者が偽装表示問題で、当初パートに責任をおしつけていたことも発覚した。経営者みずからが指示した偽装を、事件が発覚するともっとも弱いパートに責任をおしつけるなど、最悪の対処の仕方であり、それこそ「経営者の風上にもおけない」人物である。

■考えてみれば、一連の企業の不祥事が表にでるきっかになったのは、ほとんど内部告発である。正規社員をはずし、安い給料でこきつかえるパートやアルバイト等、非正規社員を増やしたことで、不祥事が容易に世間に出るようになったとは、大いなる皮肉である。人を安くこきつかって、自分たちの利益を増やそうとする試みが、かえって多大の損失を計上することになり、場合によっては会社が存亡の危機にたたされる。経営者はこの事件から多くを学んだのではないか。

■地球の資源がかぎられている中、「共生」、共に生きるということが今ほど必要なことはない。豊臣秀吉の時代はともかく、江戸時代このかた、利益を独り占めにする、つまり「我欲」をかくということは、日本社会では軽蔑の対象で、恥ずべきことであった。1970年代ぐらいまでは、その精神が生きていたのだが、バブル経済のころから「儲かれば何でもいい」といった風潮がはびこり、今も続いている。

■ところで、今「和」が静かなブームになっているようだ。過去の日本文化や過去の生活様式の中に積極的な意味や価値を見いだそうとするもので、まずは歓迎したい。自然環境が危険水域にはいりつつある現在、「リサイクル社会」がきわめてうまく機能していた江戸時代から、学ぶべき点が多い。戦後は一貫してアメリカから学び、アメリカ的生活様式こそ「夢」という時代がつづいたが、この10年ほどでアメリカも相当おかしくなっている。おかしさを真似る必要はないのではないか。

■ここは他国ではなく、自国の過去から学ぶべきものをさぐっていきたいものだ。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といわれるが、世の指導層こそ、この言葉の意味を深くかみしめて欲しい。本日は雑誌連載原稿を完成したあと、資料読みに大半の時間を費やした。昔の人の生き方が面白すぎて、つい余計な文献に手をのばしてしまう。そうして改めて思う。本ほど面白いものはないと。
by katorishu | 2007-11-18 23:59
11月17日(土)
■午後、月に一度の割で教えている脚本塾の講義。最近、生徒数が減っているようで、本日の基礎コースの受講者は一人。ちょっと驚いた。受講者は20代の少女漫画家。スランプに陥り書けなくなってしまったので、脚本の書き方を基礎から学ぼうと思ったという。「個人教授」のようになり、半分は雑談になってしまったが、得るものはあったはず。

■夕方、横浜馬車道にある関内ホールで、カミサンと劇団かに座95回公演「海と日傘」を見た。松田正隆作(第40回岸田國士戯曲賞受賞作)で、癌で余命3ヶ月を宣告された妻と作家である夫の愛情物語である。控えめに奥ゆかしく、言葉をつむぎだす「古き」「良き」時代の家庭劇の典型で、現在が失ってしまったものが蘇る。

■説明台詞が少なく、人物のちょっとした言葉、しぐさが大きな意味をもつ。精妙に組み立てられた芝居なので、演ずるほうもむずかしい。アマチュア劇団のかに座がどこまでこなすか、それも見所であった。主演の馬場さんはじめ、みなさん、「素人」とは思えないほど味のある芝居をしていた。以前より上手になった――という印象をまずもった。プロの役者とはひと味ちがった、素朴な味わいをだしていて、心地よかった。

■ただ、観客に十二分に「ドラマ」が伝わったかというと、やや疑問符が残る。演ずるのに「難しい戯曲」だなと思った。松田氏はもちろん、かに座のために書いたのではなく、プロの劇団向けに書いている。こういう作品に取り組んだ意欲に敬意を表したい。昨今の台詞過多でオーバーアクションのドラマや映画に少々うんざりしていたので、爽やかな印象を抱いた。言いたいことを抑制して、とどまる。そこから人と人との関係の深さの味がでる。基調にあるのは「静謐さ」である。これを今の日本人は決定的に失ってしまったな、と改めて思った。

■それにしても、アマチュア劇団で95回の公演というのはすごい。主宰者の田辺氏の忍耐強い情熱は大変なものだ。地域の「文化度」の高さは、かに座のような劇団があるかないかで決まってくるともいえそうだ。これは毎年行われている「神奈川県演劇フェスティバル」の参加作品でもある。意気に感じて、かに座のためにオリジナルの「家庭劇」を書くことを約束し、すこしずつ書き進めている。他の仕事が諸々あるので、なかなか進まないが、今年いっぱいにはあげるつもり、と田辺氏にはお話した。明日が「楽」だというが、皆さん、頑張ってください。
by katorishu | 2007-11-18 04:37 | 映画演劇
 11月16日(金)
■吉兆の擬装表示問題が話題になっている。「高級ブランド」を売り物にした商品や店は、たいてい「実態」を虚飾しているものが多く、ぼくは基本的にその類のものは買わないし、入らないことにしている。もちろん、ブランドに誇りをもち長い間、職人的な腕で作ってきたものには、なるほどと思わせるものがあり敬意を表するが。どうも最近の「ブランド志向」には底の浅いものを感じる。

■自分の五感に自信がもてないので、「第三者」などが評価をくだした「ブランド」に判断をゆだねてしまうのではないか。世の中見渡せば、ブランドのオンパレードである。そもそもブランドなどという言葉がいけないのかもしれない。その品ならではの「個性」といえばいいものである。人間にも「あの人は東大卒」だとか「××物産社員」だとか、ブランドというレッテル張りをしようとする。人の場合、ブランドと内実とは一致しない場合が多い。

■ブランドで飾り、ブランドものを食べ、ブランド地区に住むと、一段と上のランクにあるような錯覚に陥るのだろうか。ブランドもので装って背伸びをしている人を見ると、コンプレックスの塊のように思えてしまう。差別意識はブランド志向と裏腹のものである。従ってブランド志向が大きく根をはっている社会は差別の強い社会といってもよいと思う。

■女優の三田佳子の次男でタレントの高橋某が、三度目の覚醒剤所持で逮捕されたという。テレビのワイドショーを見ていないが、大きくあつかわれたらしい。またぞろ三田佳子に女優活動を自粛するのかどうかといった問いが発せられたようだ。27にもなる息子のことである。親と子は別の人格であり、罪を犯した本人がつぐなえばいいのである。

■俳優の子供が俳優に――というケースをよく耳にする。一部成功している家族もあるが、多くの場合うまくいっていない。ぼくの知っている某俳優など一家四人が役者である。息子が俳優を志望していると聞いたとき、やめたほうがいいのでは……と母親のほうにいったことがある。「わたしもそう思うんですけど、本人が」ということで役者への道を歩んでいるが。

■亡くなった某有名女優と某監督の二人の息子もかつて役者になった。当初は両親の「威光」でドラマや映画に端役ながら出ていたが、もともと素質がないので挫折。今、40前後の年になる息子が高齢の監督の悩みの種になっている、と最近耳にした。それ以外にも、「オタクの息子さんも役者志望だったのか」と驚くことがある。スポーツ選手など典型だが、才能で勝負する分野では世襲はほとんどうまくいかないといっていいだろう。

■最近、政治家も「世襲」が増えていて、こちらは「地盤」もカネもあるので当選する確率も高い。彼らが多数当選し、一人前の「政治家」の顔をしているということは、政治が今や「資質」や「能力」がなくとも、つとまるという安易な職業になっている証拠かもしれない。じつは日本の政治の主導権を握っているのは「学校秀才」の官僚である。だから政治家は上におぶさっていればいいわけで、たとえ無能でも勤まるのである。最近「有能」といわれた官僚の劣化も相当程度進んでいるようだ。すでに「学校秀才」では対処できない事態に至っているのに、長年かかって築き上げてきた土壌は腐臭をはなちつつもまだまだ堅固である。
by katorishu | 2007-11-17 01:19
 11月15日(木)
■本日は比較的早く(?)起きたので午後1時からはじまった外務防衛委員会のテレビ中継を見た。防衛省前次官の守屋氏の二度目の証人喚問である。過日の喚問で守屋氏は宴席に「複数の政治家」が同席したと証言したが、その名前はいわなかった。本日、その政治家とは誰であったのかという民主党浅尾議員の質問に対して、当初渋っていたが結局、久間元防衛大臣と額賀元防衛大臣の名前をあげた。

■このとき、カメラのフラッシュが一斉にたかれ、空気が動いたようだった。週刊誌等では早くから名前が流れていたが、本人が「と思う」という留保をつけたものの、明かすのを渋っていた名前をあげた意味は大きい。なにも問題がないのなら、最初から名前をだせばいいのである。省庁の幹部が政治家と意見交換すること自体は、当然のことで、何も悪いことではない。ただ、それが職務権限のある関連業者が設定した舞台で、業者が一緒となると、問題である。

■守屋氏へのゴルフ接待は300回を超え、1500万ほど費用をだしたと、当の山田洋行の社長が証言した。以前、ぼくもゴルフをやったが、しばしばビジネスがからむ姿を垣間見るうちイヤになった。仕事のからむコンペだからつきあってくれといわれ、5万円の会費を払って参加したコンペがあったが、別室でたまたま「政治家秘書」や「政治ゴロ」と思われる人たちと一緒になった。そこで、どこの政治家だったら、これだけのカネを動かせるとか……数人が具体的な名前をあげて話していた。ひどく生々しい話であったと記憶する。聞こえないふりをして聞いていたが、なんだかいやな気分になり、コンペが終わって行われたパーティの途中で知り合いと共に席をたった。

■一介の脚本家に誰も「接待」などしないので、プレーの際にはもちろん自腹で払ったが、バブル期のことで1回いくと4,5万円はかかる場合が多かったと記憶する。ほとんどはコンペであったが、とにかく早朝からのプレーなので、ぼくの場合極端な睡眠不足であり、しかも丸一日がつぶれ、ストレス解消どころか、ストレスになってしまう。

■おつきあいで月に2回ほどいったものの、ある時期から時間もお金ももったいないので、やめた。座業であり、体を使うのでゴルフはそれなりに面白いのだが。今でも時々誘われ、プレー代も安くなったし……といわれるが、ストレスになるので、とお断りしている。以前、映画関係者から聞いたことだが、ゴルフを関係者としないと仕事がこないので始めた――という人が案外多い。「好きで始めたわけではないけど、やっているうちに面白くなった」と述懐した音楽家もいた。

■仲間作りや心から好きでゴルフをしている人には、今回の守屋ゴルフ接待は不愉快なことであるに違いない。こういう事件が起きると、ゴルフ・イコール・接待という連想が生まれてしまう。ひと頃、ゴルフは「紳士のスポーツである」といった言い方をされた。その言葉を聞いたとき、ぼくはイヤな感じがしたものだ。スポーツにフェアプレーは必要だが、べつに「紳士」がやるべきものでもない。「紳士」などを強調する人に限って、実態はそうでないケースが多い。

■防衛費関連に投下される税金には依然として「闇」の部分が多い。質問者の言葉は週刊誌などで報じられている内容で新味はなかった。機密に防御されているので、なかなか本当のことは表に出てこないのだろう。喚問で守屋氏は「自分は特異なケース」であるといった意味のことを話していたが、次官が堂々と倫理規定に違反する行為をこれだけ続けられたことの背後には、そうした行為を許す土壌があったと考えられる。現場で汗を流す自衛官の多くは、生真面目であるはずだが、トップが腐っていたのでは下まで腐敗が伝染していっているのではないか。
 
■以前、海上自衛隊の佐官クラスでアメリカのウエストポイントで教官をしていた人たちと歓談したことがあるが、みんな気持ちよく正義感にあふれた人たちだった。守屋氏は喚問で、そういう人たちに申し訳ないと涙を浮かべて謝ったが、あれだけの「接待攻勢」を受ければ、いずれ表沙汰になるだろう。そういうことに気づかなかったのだろうか。そうだとしたら、国の安全保障のトップにいる人間として「情勢判断」の出来ないことを意味する。アメリカの軍需産業がからんでいるので、闇の解明は容易ではないだろうが、特捜の切り込みに期待したいものだ。
by katorishu | 2007-11-15 22:56

障害者ともに生きる社会

 11月14日(水)
■アマゾンで頼んだ本の配達員の鳴らすインタホンの音で目がさめた。時計を見ると、すでに15時過ぎ。何時に起き、何時に寝るという習慣がない。たいてい1日に睡眠を二度ほどとる。数時間眠ると目がさめるので、仕事をして、また眠くなれば眠る。こんな生活をすでに30年近く続けている。健康には悪いはずだが、幸い今のところ風邪以外に病気らしい病気をしたことがない。

■本日、家の近くの居酒屋で、京都取材から帰ってきたカミサンとカミサンの中学時代の友達と歓談。重度の障害児の弟がいて、すでに何十年も面倒をみてきているとのこと。大阪に住んでいるが、ときどき東京に出てきて、駒形どじょうにいったり、巣鴨に行くのが息抜きになっているようだ。母親はすでに80過ぎ。その面倒もみなければならず、大変だなと改めて思う。家族の面倒を見るため、結婚もあきらめたとのこと。「弟が自分の子供みたいなものですね。大きなアカちゃん」といった言葉が強く印象に残った。

■現在、くも膜下出血で倒れ、以後、8回も頭を開いて手術をした「主婦」とその家族の苦労について取材しているが、介護の大変さには頭がさがる。倒れて11年目に「主婦」は亡くなったのだが、主人のほうは以前からよく知っていた。「取材」ということで改めて突っ込んで話を聞き、そんなこともあったのかと驚く。他人事ではなく、今後、誰にでも起こりうることである。

■人生50年の時代と違って、今は多くの人が長生きする。それは結構なことなのだが、「元気で長生き」というのはなかなかむずかしい。仮に脳関係の病気で倒れた場合、家族だけで支えるのはむずかしい。昔と違って大家族ではないし、介護を誰がやるか、さらに費用も大問題となる。先に記した「主婦」の場合、当初は毎月の医療費などが30万ほどかかったという。「だから貧乏になってしまった」と自嘲気味に語る夫の声も記憶に残る。「障害者とともに生きる」というときれいに響くが、46時中、つきあわされる家族の苦労には溜息がでる。

■行政や公的機関が面倒を見られるようになればいいのだが、莫大にふくれあがった赤字財政と、今後も一層進む「少子高齢化」を考えると、そう簡単なことではない。多くの人は「倒れたらおしまい」という気分になるのではないか。この問題、解決の糸口が見えないという点が、もっとも怖い。なるべくストレスをためず、せめて明るい気分で生きるしかない。倒れて動けなくなったら安楽死させてくれ、と周囲には半ば冗談でいっているのだが、半分は本気である。
by katorishu | 2007-11-15 07:03 | 文化一般