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 11月29日(日)
■時には超一流の「芸」に触れることも必要である。今年、文化功労者に選ばれたフラメンコの舞踊家、小島章司主演の『ラ・セレスティーナ・三人のパブロ』をテアトル銀座で見た。小島章司のファンのNさんの誘いもあり、カミサンともども見た。この作は、画家ピカソとチリの詩人ネルーダ、チェロ奏者カザルスの、「パブロ」という名をもつ不世出の芸術家三人にオマージュを捧げる舞台であるという。稽古を見る事もOKといわれたが、時間がなかったので、本番のみ見た。

■オープニングの晴れやかな集団でのフラメンコのひとくさりがあって、やおら小島章司が老婆役で登場。枯れた味わいのなかに不思議な存在感を漂わす。ほかに元スペイン国立バレエ団のクリスティアン・ロサーノ、タマラ・ロペスらの踊り手。作曲と音楽監督もスペイン人で、演出は「スペインの至宝」とうたわれるハビエル・ラトーレ。歌い手と演奏者はスペイン人で、脇を小島章司フラメンコ舞踏団がかためる。踊り、音楽、演出照明等々すべて、世界に通じる一流の才能でつくる空間は、すごい。隙のない演出にも感嘆した。

■還暦をこえた小島章司の大ホールでの公演は、おそらくこれが最後になるのではといわれており、ホールは満席。フラメンコの小気味よいリズムは、鬱陶しい気分を発散させてくれる。見る前、東銀座でちょっと原稿書きをしていて、左目の眼底から頭にかけて痛みがはしり、よろしくないな、と思っていたのだが、フラメンコの小気味よいリズムと、哀切感のただよう歌の織りなす空間に身をひたすうち、癒やしの効果なのか、あるいは活性ホルモンが刺激されたのか、痛みは見事さっていく。最初、ちょっとぼやけて見えていた舞台が、くっきりと浮き上がるように鮮明に見えてきた。眼鏡をかけると視力が1.5から1.2あるので、踊り手の顔の表情までよく見える。

■悲壮美と妖美と心地よいリズムで形作る世界。素人に近いフラメンコは、これまで何度も見ており、それなりに(下手さ加減もふくめて)面白く拝見したが、世界に通じる一流のプロの芸は、まるで違う。たまには、こういう至高の芸に接しないといけない、と思ったことだった。それも「ライブ」で。1万円という料金はデフレ状況のなか、決して安くはないが、それに値するものをもらったという気分だった。終わって4人で近くの京橋界隈では有名な某うどん屋で食事をしながら歓談。

■Nさんには小島章司について本を書くといいといわれていたのだが、フラメンコについては全く門外漢にその資格はない。小島章司の歩いてきた道、という形なら書くことも出来ると思っていたところ、氏が文化功労者になったのを記念して、本日『求道の旅人・小島章司とフラメンコの世界』という本が発売された。受付で買った。元銀行員で日本フラメンコ協会の常任理事の人が書いたもの。プロの文筆家の筆ではないので、筆致には素人っぽさがあるが、ほぼ小島章司の足取りには触れているのではないか。

■知り合いにスペインのドサまわりのフラメンコ舞踏団に加わりフラメンコを踊っていたKさんがいて、スペインがらみの話をいろいろと聞いていたが、この人の人生航路も面白い。フラメンコにまつわる日本人の生き方を独自の視点できりとれば、別の読み物が出来るかも知れない。「異文化摩擦」をメインテーマとする物書きなので、興味をそそられるが、スペインにいったこともないし、スペイン語がまるでわからない。で、じっさいにチャレンジするには至らない、と思いつつ、すこし調べてみたい気になった。心地よいフラメンコのリズムが、まだ体に残っている。至芸とはこういう「芸」についてこそ使う言葉である。
by katorishu | 2009-11-29 23:24 | 映画演劇
 11月28日(土)
■昨日、今日とイベントが続いて、やや疲れたが、疲れ方にも二通りあり、徒労感、空虚感のまじった疲れと、前途に希望のかんじられる疲れとでは、疲れの質が違う。本日は希望の感じられる疲れであった。
 昨日は第34回創作テレビドラマ大賞の贈賞式。最終審査の司会をつとめたこともあって、審査のプロセスについて話した。今回は大賞はなしで、佳作が3編。大賞はNHKで放送されることになっているが、佳作では月刊ドラマという雑誌に佳作の1編が掲載されるだけだ。佳作の3人とも女性で、二人は30代と思われる。最終審査が終わるまで、関係者に応募者についての情報は一切流さない。従って作品を書いたのが、男か女か若いのか年をとった人なのか、わからない。公正を期すためにそうしているのだが、贈賞式ではいずれも初対面であり、そうか、この人がこういう作を書いたのか、と別の興味で見てしまう。今年は傑出した作品がなく、辛口の挨拶があいついだ。

■それでも、佳作に選ばれたことは今後の執筆に大きな励みになるはずだ。佳作にもれたものの最終選考に残った応募者も式にまねいていた。式が終わって二次会に。佳作受賞者等をまねき、審査に加わった脚本家やNHKのドラマ部員らと懇談。こちらでは本音がでて、かなりきつい言葉もとんだが、佳作受賞者はもちろん最終審査にのこった人には、得るところが多かったのではないか。総じて応募者のテクニックはなかなかのものだが、どうも「情念」が感じられない。うまくまとめようという姿勢が目についてしまうのである。少々破綻があってもいいから、どこか突き抜けたものがほしい、といった意見が多かった。既成のドラマの真似でないものを、期待しているのだが。
 
■本日は立川市民会館大ホールでの「スミセイ・子育てフォーラム」に参加。音楽が主体だが、「一人芝居」もある。一人芝居『天女の唄』の演出を担当しているので、10時前に立川駅で出演の斉藤とも子さんや脚本家と待ち合わせ、足を運んだ。水戸の舞台から10日以上間があいており、稽古をしていないので、やや不安もあったが、リハーサルを見て、安心した。篠笛奏者の山口さんと控え室で諸々はなせたのも嬉しかった。残された「持ち時間」のなかで、今後どれだけの人と出会えるかわからないが、老若男女をふくめていろいろな人との出会いが楽しい。

■本日もっとも興味をひかれたのは、映画『おくりびと』の原作者の青木新門氏の話だった。人が死んでいくときの顔には、微笑があるし、死後硬直した顔とは違う。死を病院でしかみなくなったことが、生き物への感心や共感の欠如につながっている、等と率直に指摘された。打ち上げのときも、いろいろと氏の話を聞いた。

■青木氏は一人暮らしの老人の腐乱死体の納棺も行ったが、そのとき、這い回るウジが輝いて見えたという。『おくりびと』の主演の本木雅弘から連絡があったのは、16年前で、本木雅弘は、氏のウジが輝いて見えたとの文章を読み心を動かされたらしい。自身がインドのベナレスにいったときの写真集だすことになったが、その文章を載せたいとの申し出。それが最初の電話で、以後、映画化をいってきた。が、実際に映画化されるまで16年もかかった。そのプロセスについても、氏は興味深い話をされた。

■氏によれば、生と死はつながっているという。「納棺夫」という仕事をつづけてきた人ならではの独自の「視点」があり、当然のことながら人を深くとらえている。氏はこれまで3000人の死体の納棺作業を行ったという。氏の著書『納棺夫日記』を読みたくなった。氏は詩人でもあり、童話も書いているとのこと。
 今年で51年目を迎えるボニー・ジャックスの歌も味があった。1500人が定員の大ホールに1200人ほどの入場者があったそうだ。内容、観客動員とも「大成功」であったとの評価で、次への期待につながる。帰宅すると過日の健康診断の結果がとどいていた。やはり、眼科で見てもら必要があるようだ。そのほか肝機能に軽度の障害があるらしい。
by katorishu | 2009-11-28 23:00 | 文化一般
11月26日(木)
■珍しく早く目がさめ、外は晴天なので、朝の太陽の光をあびるため外にでた。某女性脚本家でチベット体操のインストラクターもやっているKさんから、午前中の光をあびることがとっても必要、といわれていた。子供のころから不眠症気味で、そのため普通の勤めや、普通の商売はむずかしいなと思ってきた。生活が不規則なマスコミ関係ならつとまるかなと入り、そこからさらに生活のリズムもなにもない「フリーの物書き」になった。その日、目がさめたときの気分で、仕事をするかしないかを決めるという生活が、かなり気にいっていたので、ずっとそういう生活をつづけてきたのだが、さすがに長年の不規則な生活のツケがまわってきたようだ。

■頭が重く、目が痛い。目医者にいかなければと思いつつ、なんとなく避けたい気分もあって、そのままにしている。自然治癒が一番いいと思っていて、よほどのことがない限り、医者へ行かない。、快眠できないので、睡眠剤をもらいにときどき医者に行くが。比較的、舌の回転が速く「能弁」といわれたこともあるのだが、眠剤の副作用なのか、ちょっと疲れていると口の回転が悪くなり、もどかしい。

■午前中頑張って、なんとか30枚ほどの論文といったらいいのか、エッセイといったらいいのか、ともかく日頃自分で思っていることについての雑誌原稿をしあげた。日本という社会の「土壌」を豊かにしないと、どうしようもなくなる、と以前から思っており、そんなことを多少の論理の飛躍を覚悟で書いた。とにかく、事態はどんどん悪くなっている。いろいろなことが警戒水域から危険水域にはいりつつあるといっていいようだ。

■民主党の仕分け作業で、芸術文化関連の予算が半分から三分の一ぐらいに削られるらしいという噂がながれている。まさか一律にばっさりとは切らないだろうが、もしそんなことをしたら、日本社会の土壌の崩壊につながる。世間知らずの学校秀才が多い民主党議員なので、それが懸念される。「復活折衝」のようなものがあるのかどうか、わからないが。

■ただ、民主党の若手議員が官僚の弁解にびしっと切り込み、たじたじさせるところなど、国民向けのパーフォーマンスの趣はあるものの、明らかに旧政権と一線を画していて面白い。マスメディアの攻撃にもかかわらずこの仕分け作業、国民受けは悪くないようだ。そんな中、円高が度をこえて進んでおり、中小零細がささえている輸出関連の企業は崖っぷちにただされている。仕事もなく座して死をまつ心境の中小零細の工場主も多いはずである。

■どこを向いても景気の悪い話ばかりだ。人も企業もカネの支出をしめる一方で、ますます縮こまっている。消費が急激に落ちており、給料はがた減り。それはまだいいほうで、解雇された人や、自由業者のなかには仕事がないので、無職同然という人もいる。こういう鬱陶しくも暗い空気の中で育つ子供たちに、時代の現実はどんな影響をもたらすのだろうか。そもそも子供たちは夢をもてるのか持てないのか。あまりに大人たちに夢がないので、子供たちががんばり精神を発揮してくれるといいのだが。今や、小学生以下の子供にしか、期待できそうにない時代になりつつある。情けないことである。

■本日北品川を歩いていたら、古い純喫茶といった趣の小さな店のシャッターに、当分閉店しますの張り紙。実質的な閉店である。都心に近い品川あたりでも「シャッター通り」の兆候が見られるようになった。こちらも心のシャッターをしめたい気分だが、それをやったらおしまいだ。なんとか広くあけて、やってくる情報や人を希人(マrビト)として迎えたりする余裕はほしいものだ。
by katorishu | 2009-11-27 00:55 | 個人的な問題
11月25日(水)
■京王線の芦花公園駅でおり世田谷文学館にいった。芦花公園でおりたのも初めてで、ちょっと歩き、世田谷文学館あたりにいくと、静かで落ち着いた住宅地の雰囲気になる。ぼくの住む品川の湾岸ぞいのコンクリートの建物ばかりの埋め立て地とはずいぶん趣を異にする。

■この文学館でやっている久世光彦展と、森繁展を見に行ったのである。来年4月、江戸東京博物館で予定されている脚本展の参考になるかと思い、脚本アーカイブズの諸氏と一緒。なかなかよく出来た展示会だった。演出家兼作家の久世氏の生涯をたどれるもので、好感をもった。久世氏が、あれほど小説やエッセーなど書いているとは、じつは知らなかった。文庫本になったものもかなりあり、こんな本も書いていたのかと驚いた。

■生原稿も展示されていた。達筆でおおらかな字で、案外几帳面な人なんだなと思った。ぼくなど自分でもしばしば読めない崩し字しか書けない。字で判断されると、相当いい加減な性格ということになる。半分あたっており、半分はずれているが。久世氏は古い手紙や通信簿、TBS入社の辞令など、こまごまとしたものをよくとってあったと感心した。これも意外であった。久世氏とはまるで面識がない。昔よくあったテレビ局の新年会か忘年会で、受付にやってきた氏をみている。仕事の油がのっていて、颯爽として輝いて見えた。最後に見たのは知り合いの某氏の出版記念会。挨拶にたった久世氏は茫洋とした印象で、かなり疲れて見えた。

■森繁さんの展示会は映画関連だけで小規模なもの。文学館の学芸員にお聞きしたのだが、久世展は集客が予想をしたまわったとのこと。やはり「通」しか足を運んでこないのか。松本清張展のときはずいぶん賑わったらしい。なるほど。ぼくなどの好みは、依然として少数派であるなと思った。子供のころからずっとそうだった。どうも「多数派」とは好みも趣味もちがってしまう。

■ところで、政界の多数派は今や民主党だが、その党首の鳩山首相の「偽装献金問題」がこの政権の命取りになるかもしれない。今鳩山政権がこけても、誰も得をしない。経済政策も中途で頓挫し、日本経済はこのままずるずる沈むだけだ。そんな非常事態にあるのに、偽装献金問題でだんだん動きがとれなくなる政権。お金持ち坊ちゃん首相にもこまったものだ。本日の新聞にも実母から数千万円が献金されており、これは偽装分の原資にあたるという。お金に庶民はきわめてシビアになっているので、批判が強くなりそうだ。鳩山氏がおりて、「亀井静香首相」という情報も流れているが、どういうことになるのか。

■早めに管直人氏にかわったほうがいいかもしれない。民主党が駄目だからといって、国民の生活をここまで劣化させたことに直接責任のある自民党にはまかせられない。この党もボロボロのようで、このままだと解党に追い込まれるかもしれない。従ってここで民主党がこけると、責任をもって政権を担える党がなくなるという事態になる。政治状況も国民にとって大変不幸な事態になりつつある。
by katorishu | 2009-11-25 22:05 | 文化一般
 11月23日(月)
■有田芳生氏がブログで感動したとほめていたこともあって、松本清張原作映画『ゼロの焦点』(犬童一心監督)を品川プリンスシネマで見た。主演の広末涼子、中谷美紀、木村多江の3人の顔写真を配した赤色の目立つチラシが、この秋いろいろなところに膨大にまかれていた。松本清張の小説『ゼロの焦点』は読んでいるはずだが、昔のことで内容はほとんど忘れていた。それだけに新鮮な印象をうけた。

■以前、野村芳太郎監督、有馬稲子主演で一度映画化されている。テレビドラマ化もされたと記憶するが、今回の映画は見応えがあり130分以上の長さが短く感じられた。コンピュータ・グラフィックの技術も大変向上し、昭和32年の金沢や立川あたりの情景が実在感ある映像で描かれていた。韓国クルーの名前が最後のクレジット・タイトルに出ていたので、あるいは金沢の町などは韓国にセットをくんで撮ったのかもしれない。

■語り手が広末涼子で、彼女の視点で行方不明になった夫をさがす途上、「過去」があぶりだされる物語だが、実質的な主役は敗戦直後、立川で「パンパン」をしていた元女子大中退の女性である。この女性を中谷美紀が見事演じていた。後半、彼女の登場するシーンは、オペラ的味わいのある悲壮美があり、「グランド・オペラ」の趣もあった。広末が見合い結婚した相手役の男の、複雑な心情については、描き足りないと思ったが、130分ほどの尺ではこれも致し方ないだろう。原作は長編であり、主要人物のきめ細かい心理が描かれているはず。

■もっとも、この作品、あの時代の厳しさや時代相についての知識がないと、主要人物たちの「動機」がわかりづらいかもしれない。清張作品は「わかりやすい」のでしばしば映像化される。多分に人物が図式的に描かれ、人間の善悪が比較的はっきりしているので、映像化されるのだが、グレーゾーンが少なく深みに欠けるキライがあった。逆にだからこそ「大衆性」をもち、死後も根強い人気をたもっているのだが。

■この映画、興行的にはいまひとつパッとしないのだという。予告編をヤフーの映画案内で見たが、「ちがう」「対象を見誤っているな」と思った。ハリウッド映画の定番ミステリーのような予告になっていた。この種の映画の予告を「若者向き」につくってはダメである。ヤフーの作品評価のなかで、予想外の展開を期待していたのに、そうならなず、平凡だ、これはほんとうに松本清張の原作なのだろうか、と記されていた。この評者は若い人で清張作品をおそらく読んでいないのだろう。清張ミステリーは犯罪の「動機」に主眼をおくもので、いわゆる「本格推理」のもつ展開の意外さ、どんでんとはほとんど無縁である。

■本日、品川プリンスシネマの入りは2割ほど。観客の大半は中高年層である。興業的に不入りであったとすると、この層の心に届く宣伝が不足していたのではないか。そもそもこの層をターゲットからはずしていた、としか思えない。制作サイドの勘違いが、興業成績の不振に結びついていると敢えていいたい。映画の質としては韓国映画『母なるものの証明』の深さには遠く及ばないものの、邦画としては近頃めずらしく感銘を受けた作である。ぜひ映画館に足を運んでみてほしい作品だ。

■不満はラストに流れる中島みゆきの歌。「プロジェクトX」のテーマ曲のように甲高く歌いあげるもので、押しつけがましく、それまでもりあがっていた情感をはなはだしく殺ぐ。ここは、静かに、しみいるように、心にはいっていく歌だろう。その前にプラターズの『オンリイ・ユー』が効果的に入っているだけに、蛇足でもある。つぶやくようなところから入って,最後に歌い上げるのならまだしも、最初からドンとハイテンションでぶつける。これは台無しだな、と思ったことだった。演技にせよ,唄にせよ、おしつけまがしさは、いただけない。中島みゆきの歌をいれることは、恐らく犬童監督の指示ではないに違いない。
by katorishu | 2009-11-23 22:31 | 映画演劇

風呂で仰向けに倒れた

 11月22日(日)
■寒い一日であったが、気持ちは悪い日ではなかった。昨日、風呂にはいり体をふいているとすっと意識が消え、気がつくと風呂の洗い場に倒れていた。酒を飲んで長湯をして目眩に襲われたようだ。後頭部を打ったので、大丈夫かなと思ったが、一番強くうったのは臀部であり、それで後頭部への打撃が薄らいで、助かった。

■日頃から低血圧気味で風呂上がり、ぼーっとなることはこれまでしばしば経験したが、ふっと意識が薄れ仰向けに倒れたたことなど初めてだった。国立でいただいた酒があまり美味でちょっと飲み過ぎた上に風呂にはいったことが悪かったのか。バスタブで「加齢とは悲しきものよ秋の暮れ」といったつまらない句がうかび、さらに2.3句がうかんだあと、風呂をでて体をふいていて、仰向けに倒れたのである。こんなことは初めてで愕然とした。風呂で命を失う人が多いと聞いていたが、ああ人はこんなあっけないことであの世にいってしまうのだな、と思った。

■本日は日本脚本アーカイブズの会議。建設的な意見もでていい雰囲気で進行した。新入の委員もくわわり実現にむけて頑張っていこうということで委員諸氏の意志を再確認。終わって北千住の食堂で6人ほどで歓談。はっきりした目的をもった人との意見交換は面白い。脚本家、構成作家の面々であり、話題はあっちへ飛びこっちにもどり、論壇風発、3時間ほど、政治、社会、経済、芸能の世界とさまざまなことを話し合った。と、ここまで書いて、本日のエネルギーはつきた。
by katorishu | 2009-11-23 00:34 | 個人的な問題
 11月21日(土)
■本日から3連休だという。毎日が日曜日というか、曜日に関係のない生活をずっと送っているので、祝日の実感は少ない。以前、祝日には日の丸をあげる家が多かったのだが、いまはほとんど見かけない。日の丸をとりだし、竹の竿をつなげて掲げるのが子供の仕事でもあり、少年期、よくその作業をやらされた。

■銀色の丸い形の、なんという名なのか忘れてしまったが、日の丸の旗の上につけるあのボールも懐かしい。本日、久しぶりに天王洲方面に散歩にいった。どうしてもJAL本社の前を通ることになる。すでに経営が破綻しているのだが、国策会社であったし、メンツもあってつぶせないのだろう。「戦後ニッポン」を象徴しているような会社である。
 日頃、閑散としている天王洲の天王洲スクエアが本日は割合こんでいた。イタリア料理のアントニオもそれなりに客が入っているようでほっとした。

■銀河劇場で「フロスト・アンド・ニクソン」の舞台をやっており、そこのお客が流れたのか。ハリウッド映画がこんなにも早く舞台化されるとは。夕刊に某商業演劇の演目がでていた。『篤姫』と『細雪』そして『忠臣蔵』。中身がわかっている定番料理とでもいったものである。社会全体が停滞している証拠なのだろう。新しい素材にチャレンジする意欲が減退しているようだ。お客が保守的になっていて、すでに知っているものにしか興味を示さないからなのだろう。
 ここまで書いたところで、なんとなく気がすすまなくなった。心弾まないのである。鬱の症状がつづいているのかもしれない。風呂にでもはいって、早めに就寝しよう。うまく眠れるといいのだが。竹内まりやの『駅』がすっと心にはいってくる。
by katorishu | 2009-11-21 23:20 | 文化一般
 11月20日(金)
■政府が正式に今の日本経済はデフレに陥っていると宣言した。政府としては出来るなら経済の回復をしめす指標をなんとしてでも探したかったのだろうが、深刻さを認めざるを得なかった。インフレも問題だが、デフレは数倍怖い。昭和初期の世界大恐慌の記憶を、まだ心ある人はもっている。もちろん、同時代を生きた人はごく少数派になっているが、歴史を学んだ人は、あの大恐慌がなにをもたらしたか、知っている。

■大恐慌のもと、世界的にブロック経済が形成され、排他主義的な政策をとる国が多くなった。世界貿易への依存度の高い「資源小国」日本にとっては相当厳しい事態であり、打開策のためにとった一大「博打」が戦争であった。戦争と経済とは密接に結びついている、と歴史をすこしでも読んだ人なら納得していることだろう。残念ながら大正期から昭和初期にかけて、それなりの知識をもっている人は、今やかなり少数派になってしまった。「知らない」ということは、かなり怖いことである。

■学校の歴史教育が、古代からはじめて時代を追って江戸から明治ごろまでくると、そこで時間切れで終わってしまう。今の教育制度の欠陥のひとつである。昭和など「現代史」は受験に出ないからという理由で、学ぼうとしない傾向が強い。現代史については、歴史家の解釈もわかれており、左派・右派の間で相反する見解、解釈がだされている。そのため、現場でどう教えるか、教師一人一人の見解も多分違うので、教えにくく、従って教えることを避けるということになる。

■学校で教えなくとも、生徒がもう少し本を読めば、ずっと多くのことを学べるのに、それをしない人が多い。若者ばかりでなく中高年も同じである。かくて、昭和初期について、不十分な知識しかもたない国民が増えているようだ。「昭和」をメインテーマのひとつにしているので、ことさら気になることである。

■物事の判断の礎になるのは「情報」である。情報が少なすぎたり、一方に偏っていると、正常な「判断」をくだせない。テレビで年金生活者がデフレで物価がさがることはありがたいと語っていたが、大きな間違いである。デフレは経済を疲弊させ、企業倒産や失業者を増やし、モラルも破壊させる。最終的にデフレのツケはあらゆる国民にまわってきて、社会を破滅状態に追い込んでいく。昭和初期の大恐慌、その後につづくエロ・グロ・ナンセンス、さらに軍国主義の経緯について、もっと多くの人が学んで欲しい、と思うのだが。さて、どうなることか。強い懸念のもと事態の推移を見守っている人も多いことと思う。鳩山政権にとっても正念場である。
by katorishu | 2009-11-20 23:32 | 社会問題
11月19日(木)
■東京は冷たい雨の一日。天気予報では曇りであったのだが、それははずれ、本日の株価の下落のように鬱陶しい天気だ。日本株価下落の最大の要因は、鳩山政権の2010年度予算編成に向けてのスタンスが、財務省が主導する「緊縮財政」の方向に大きくシフトし始めていることにあると思われる、と植草一秀氏が指摘している。どうも、このままデフレが続きそうで、経済活動全体が縮む気配だ。景気が二番底に沈まないよう、政権には全力をつくして欲しいものだ。

■久々に国立市にいった。母校の都立国立高校のPTAの会で、なにか話して欲しいとのこと。個性とは何か、どう創ったらいいのか――といったことについて80分ほど話した。といって、理論的に話せるものではなく、結局はぼく自身がなぜ作家になったのか、そのプロセスを中心に話すことになった。100人ほどの「お母さん方」に半円形に囲まれると、年甲斐もなくどきどきしてしまう。例によって睡眠不足で時差ボケ状態であったので、うまく話せたかどうかわからないが。

■人は7歳のとき、どこで何をしていたか。つまり生育の環境が案外その後の人生を規定してしまうものだ。幼い脳に植え付けられた考え方感じ方の基層部分が、その年頃にできあがるはずで、人は一度できあがった「基本の姿勢」をそう簡単に崩すことはできない。普段意識していない部分、つまり無意識の「記憶」に、人は左右されるようである。個人的体験から、本気でそう思っている。

■そんなことを中心に話した。子供のころ、現実とは「別の自分」を脳内でつくりあげ、毎日、その世界に「行って」そこで現実世界を同じように「生きていた」。その別の人格の住む家が国立のなだらかな丘の中腹にあったのである。もうひとつの「別の世界」に一定時間ひたらないと、落ち着かない時期があった。そんな体験が、作家になるための「土壌」になったのだと思う。高校生のお母さんがたに、どれほど参考になったかわからないが、なにかを聞き手の記憶に残せたと思いたい。

■校長先生などと雑談のおり、現在の教育界の現状について話を聞いた。なるほど、そんなふうになっているのか、と驚くことも多かった。今の日本に必要なのは社会の基層部分を形成するカルチャー、文化を豊穣にすることだ、とあらためて思った。母校だからほめるわけではないが、音楽や演劇活動もきわめて盛んな高校で、一方、学力も高いと聞いている。天気がよければ早めに足をはこんで、町をそぞろ歩いたりしたのだが。駅前から真っ直ぐに伸びる「大学通り」は東京でも一二を争う情緒ある大通りで、とくに紅葉時は絶景といっていい。「文教都市・国立」を象徴するものである。駅近くに昔「邪宗門」という趣のある喫茶店があり、よく足を運んだ。地元に住む「文化人」や一橋大学の学生や教官などもよく出入りしていたと記憶している。今でもあるのかどうか、のぞいてみる余裕もなく、帰りの電車にのった。電車が動きだしてから、懐かしい喫茶店によればよかったと後悔した。
by katorishu | 2009-11-19 20:55 | 文化一般
 11月18(水)
■新公益法人移行についての説明会に霞ヶ関までいく。官庁、官僚ともにあまり好きではないのだが、立場上、よく足を運ぶことになってしまった。分厚い書類をわたされ、説明をうけたが、もともと法律的知識に弱く、経済関連と法律関連はあまり関心をもてなかったので、不勉強でもあり、この類の文書は外国語のようだ。

■午前中早起きして出向いたのだが、そのあと放送作家協会の事務局にいき、さらに某シナリオ学校にいき、夕方には江戸東京博物館に、いずれも「打合せ」「取材」等でいった。そのため、原稿書きは1時間ほどしかできなかった。1000枚以上になってしまった時代ものの小説の改稿を行っている。500枚に縮めて編集者にわたしたのだが、無理があったようで、説明的になっている部分も多い。要素を減らす作業をしているが、この作業を行うと、中盤が全面的な改訂になりそう。この部分日本ではなく、しかも古い昔の話なので、わからないことばかりで、難渋している。最終目的は映画化なのだが、10億円の製作費が必要なので、いまだ足踏み状態が続く。

■他にも大きな仕事になりそうな作品があるのだが、結論が出ないまま「待機中」のものばかり。「冷蔵」になり「冬眠」してしまいそうだ。景気の急落とからんでいることはいうまでもない。名目のGDPはちょっとあがったようだが、政権交代をもってしても、日本経済が「二番底」に沈む懸念は次第に高まってきた。税収が40兆円を切ってしまい、財政が深刻な状態なので、政府は有効な政策をうちだせない。すでに完全なデフレであり、さらに消費は冷え込み、倒産や失業が世にあふれそうだ。「食えない人」の急増は世を暗くさせる。すでに鬱の空気がエーテルのように社会を覆っている。

■こんな惨状をつくりだしたのは、バブル崩壊後、歴代の自民党政権のとった経済政策であったことは、忘れないほうがいい。欧米の先進国も大不景気の嵐のなかにいるようだが、ひとりひとりの暮らしぶりを見てみると、日本ほど悪くはないようだ。「世界第二」とふくらみすぎた経済だからこそ、しぼんだときの落ち込みもひどく、傷みも大きい。ついに11年連続で自殺者が3万人を越えたという。

■ところで。本日、久しぶりに乗ったタクシーの運転手が、いきなり「お客さん、最近のテレビはひどいね。安っぽくてどうしようもない。仕事を終えて家に帰ると、やることもないからテレビをつけるんだが、ひどすぎて。もともとテレビドラマなんか好きだったんだけどね」と話していた。六本木から乗ったのでこちらがテレビ関係者と思っていったのかどうか。(どう見ても普通のサラリーマンにも年金生活者にも見えないので)有料で見られるテレビでは、それなりのものをやっていますよ、といっておいたが。ぼくも、どちらかといえばテレビは好きで毎日、テレビをつけっぱなしで仕事をしていたのだが、今は有料のテレビ以外はあまり見ることもない。なかには味のある番組もあるのだろうが、見つけるのに苦労する。

■「わかりやすさ」ばかりを追求してきた果てに「幼稚化」がきわまった、というべきだろう。なんにでもすぐにスーパーをくどいようにいれる番組の氾濫である。スーパーの文字を読んでいたら、発言者の表情の揺れなども、わからなくなるのに。本の編集者までが「わかりやすく」「わかりやすく」とバカの一つ覚えのようにいう。誰にでもわかることは、類型的で面白いはずもないのに。もっとも、何度読んでも「わからない」文章は、単なる駄文で、書き手の頭の悪さを示しているだけである。二度読んで、なるほどと思わせる文章や、二度見てなるほどと思えるような映像作品は、たいてい深い内容のものが多い。もっとも、ぼくの文も比較的、わかりやすいとよくいわれる。ということは、面白くないということなのか……。
by katorishu | 2009-11-19 01:42 | 文化一般