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 「らしさ」の喪失 

 12月29日(火)
■今年もあとわずか。以前は、年末クリスマス音楽が過剰に流れ、異教徒のクリスマスの「祭」が商業主義にのっとって行われ、師走の慌ただしさの空気が街にながれ、忘年会の連続で、タクシー待ちの人人人。そうして、除夜の鐘がなって正月になり、初詣にいったり、お年玉をやったり、もらったり――そんな年中行事が繰り返された。

■良くも悪くも「師走らしさ」「正月らしさ」の空気がただよい、そんな空気の中、人は多少浮かれたりしたものだ。最近は、そんな「らしさ」がどんどん減っていく。「女らしさ」「男らしさ」「父親らしさ」「母親らしさ」「子供らしさ」なども減っていき、すべてが均質化への坂道をくだっていく。

■パソコン、インターネットの急速な普及が、この傾向に拍車をかけたといっていいだろう。この果てになにがあるのかわからない。文化的には、この傾向の果てにあるものは、劣化である可能性が強い。文化の豊かさとは多様性にあるのだが、インターネットの普及は多様性を奪いかねない。

■すでに書籍の世界では、多様性が急速に失われつつある。ハウツーもの等、「売れ筋」の本しか出さない傾向が強い。もっとも、少数向けの書籍は、従来の紙の形をとらずに、デジタル化して、世に流すということもありうるが。ただ、現状だと、インターネット上の情報は基本的に無料という傾向が定着してしまったので、時間とお金をかけて情報をあつめ、分析し、まとまった意味のある「情報」として「形」になるものが、生まれるかどうか、こころもとない。

■どうでもよい、細切れ情報ばかりが氾濫することは、文化の多様化とは別のものである。まだインターネットは一般に普及してから10数年しかたっていないので、今後、試行錯誤をくりかえすなかで、もしかして豊饒なものが生まれてこないとも限らないが。 そうなるには、一度、文化的にも、どうしようもない状態に堕したあと、これではいけないと思う人が相当数うまれて、回復への力が働かなければ。環境問題などと同じである。

■このままではダメになるという危機感をもってしか、とうとうと流れる均質化への傾向は、とどめようがない。便利で効率的で、快適であることに、人は逆らえないので、ここを強調するビジネスサイドからの「攻勢」に抵抗するには、相当の我慢と忍耐が必要だ。ところで、「痩せ我慢」となどという言葉がありました。これも死語になりつつあるようだが、案外こういうところにこそ、文化の芽がひそんでいるのかもしれない。
by katorishu | 2009-12-29 23:42 | 文化一般
  12月28日(月)
■官庁や大企業などは仕事納め。今年は「良い年であった」と心から思える人は少数派であるに違いない。自殺者も3万人をこえ、暗い歳末といっていいだろう。来年も経済が好転する可能性はあまりなさそうだが、これ以上劣化しないことを期待したいもの。

■昼間、みっちり仕事をしたので、気分転換にと20時5分から品川プリンスシネマでハリウッド映画の大作『アバター』を見た。『タイタニック』のジェームス・キャメロン脚本・監督作品で、ハリウッド映画が一種の賭けにでた大作といっても過言ではない。遺伝子操作でつくられた人の分身が、地球外の星で「原住民」を追い出す作戦に従事している。が、「原住民」の女性と遭遇した「アバター」が、現場の実情を知るにつれ、次第に原住民に共感し、やがて人間に反旗をひるがえす。アバターの「脳」の部分は、現実の人間で、身体が「アバター」といった設定である。これまでSFファンタジーは『スター・ウオーズ』など何編か見たが、ぼく個人はあまり好きになれなかった。

■『アバター』は予告編を見て、現代文明や人間のエゴイズムに対する強烈な文明批評がこめられていそうなので、期待していた。期待にたがわず、大変面白かった。自然とともに暮らす「原住民」の住む土地の地下にある資源を獲得しようとする人間。先兵として送り込まれた下半身不随の元海兵隊員と、彼に共感する人間が、最終的には人間と戦う物語である。人間の欲望を悪として描き、「アバター」と「原住民」が勝つ――といった点が、従来のSFファンタジーとはひと味ちがう。もっとも西部劇のパターンを踏襲してはいるが。

■ベトナム戦争やイラク戦争でアメリカは近代兵器を盛んに使用し、原住民を軍事力で制圧しようとして失敗したが、そんな歴史が下敷きになっている。もちろん。アメリカ原住民を駆逐して「近代文明」の繁栄をほこったアメリカ建国の歴史が背景にある。アメリカの愚行への批判がこめられている一方で、エンターテインメントの骨法もふまえて描く。

■CGの迫力は予想以上で、この作に比べたら『スター・ウオーズ』や『ジュラシック・パーク』などがチャチに見えてしまう。こういう映画は映画館で見ないと、本当の面白さは味わえない。ラストの40分ほど、近代兵器を備えた「人」に、弓矢で立ち向かう「原住民」および「アバター」の戦いは壮絶で見応えがある。

■大変なお金と時間をかけて作ったと想像できる。映画もここまできたか、とある感慨をおぼえた。文明批評を織り込んだ内容で、いわゆる「SFファンタジー」の枠をやぶった傑作といっていいだろう。この映画、3Dでも見られるのだが、残念ながら品川プリンスシネマでは普通の平板な画面でしか見られなかった。それでも、迫力は充分伝わった。
 過日見た映画『パブリック・エネミーズ』が駄作であったので、口直しをしたいと思っていたが、見事、こたえてくれた。ジェームス・キャメロンの才能には脱帽である。年末、正月、おすすめしたい一作である。
by katorishu | 2009-12-29 02:09 | 映画演劇
  12月27日(日)
■26日の夜、NHKのBS2で『マリリン・モンロー最後の告白』(08年フランス制作)の前後編を見た。モンローが精神分析医、ラルフ・ギリンソンに語った内容を素材にモンローの映画やニュースフィルムなどで構成したもので、大変興味深い。

■プロ野球選手のジョー・ディマジオとの結婚や劇作家アーサー・ミラーとの結婚と破綻。つねに「セックス・シンボル」と見られ、そういう役割を演じつづけ波瀾万丈の人生を送ったモンローの心の闇に迫るもので、大変見応えがあった。もともとはノーマ・ジーンという貧乏な家の娘であったが、モデルの写真が芸能界の有力者の目にとまり、映画出演をきっかけに一気にスターの座にかけのぼった。

■しかし、内面の闇は深く、睡眠薬等の薬におぼれ、酒をのみ、撮影の現場にはいつも遅れ、なぜいつも遅れるのかという問いに、「わたしを待ってくれる人がいるから遅れるの」といったり、女優としても特異なキャラクターで、つねに話題の焦点にあった。スターという地位の重さは大変なもので、公私にわたって「マリリン・モンロー」を演じつづけなければならないノーマ・ジーンの苦悩が、精神分析医への「告白」によって明かされる。

■男性に対する恐怖心が逆にセックスへののめりこみを促し、何度かの離婚後、ゆきずりのセックスに身をまかせたりし、ついに精神病院に入院したりする。退院してまた女優業に復帰するが、心の安定は得られない。最後はケネディ大統領との情事、そして自殺とも他殺ともいわれている死。36歳の若さだった。幼少期の体験や母親からの遺伝的資質もモンローをかたちづくる要素であることがわかる。さすが「文化大国」フランスのドキュメントだけあって、深みがあり、かつ面白かった。

■ところで、今年のアメリカ映画界は大変な興行成績をあげているそうだ。大不況にもかかわらず、アメリカでは映画館に通う国民が多い。アメリカとカナダの両国だけで、興行成績が96億7000万ドルにのぼるという。日本円では1兆円である。この両国だけで世界の映画の興行成績の35%をしめている。大人も子供も映画館に足を運び、客層が厚い。いぜんとして若者しかあまり映画を見にいかない日本とは、大違いだ。

■大人の鑑賞に堪えられる作品を一定割合で送り出せるかどうか。それが日本の映画やテレビドラマの緊急の課題ではないかと思う。そのためには、実力派の脚本家の登用が不可欠なのだが、このことを作り手がどの程度認識しているか。心あるプロデューサーもいるものの、そうでないプロデューサーや経営者も依然として多く、彼等が意識改革をしないと、日本の映像文化は海外に売れるものにならない。国内市場だけに頼っていては膨大な資金のいる映像ビジネスは衰微にむかう。
by katorishu | 2009-12-27 23:45 | 映画演劇
 12月25日(金)
■日本放送作家協会定例の理事会に出席。テレビの地盤沈下がいわれるなか、復活のためには脚本・台本重視。これしかないと訴えていきたい。[AURA」というフジテレビが発行している「業界専門誌」にそんな類の文章を30枚も書いた。テレビ経営者が多分読むと思って、あえて刺激的な論を展開させた。すでにテレビは斜陽産業にはいっているが、テレビメディアの力は、まだ大変なものだ。経営陣には原点にかえることを期待したい。

■週刊現代に立花隆の小沢一郎批判の特集が載っている。いまや小沢氏は日本の独裁者になりつつあり、国家元首を国家主席をかねそなえて存在になりつつあると厳しく批判している。一部同感するところもあるが、もう少しどのような政策をうちだし、それがどの程度実効性をもったものであるか、見守りたいもの。

■幸か不幸が、民主党に変わりうる政権党が不在という状況なので、小沢民主に期待をかけるしかない。自民党は今後当分、政権に復帰することはないだろう。あり得るとすれば、世襲候補が今の3分の1以下程度に減ったときだろう。利権の世襲によって、日本をここまで劣化させてしまった張本人は自公民である。このことを忘れないほうがいい。

■今年も残り少なくなった。飲み屋は、どこも「タームサービス」などで飲み物半額を売り物にしている。24.25日に限り全品半額といったサービスを提供している店もある。みんな、お客を呼び込もうと必死である。ぼくなどカネもないのに、消費に貢献しなければと、連日安酒場通いを続けている。ともあれ、今年もまもなく終わる。悔いの残る1年であった。来年は夢のある年にしたいものだ。
by katorishu | 2009-12-25 22:58 | 政治
 12月24日(木)
■クリスマスイブである。キリスト教徒でもないので、ぼくには、ただ普通の日でしかない。大不況の影響なのか、今年はクリスマス音楽も少なく,クリスマスを祝う派手やかさも少ない。消費低迷の折り、歓迎すべきことではない。30年以上前までのクリスマスイブは、どんちゃん騒ぎが恒例で、翌朝の新聞には、キリスト教徒でもないのに、バカ騒ぎもいい加減にしろ、といった批判めいた記事がのったものだ。それでも、クリスマスイブみは懲りずにバカ騒ぎをつづける人が多かった。

■今となっては、むしろ懐かしい光景である。当時はバーも隆盛で、この時期になると、よくホステスから「パー券」を交わされたものだ。ホステスに一定のノルマが課せられているのである。売り上げの一部はホステスの収入になるのだろう。何度か買わされたことがあったが、一度もどんちゃん騒ぎのクリスマス・パーティにいったことはない。

■ただ、傍から興味深げに見ていた、という気がする。当時は団塊の世代を中心に若者の数が多く、それだけにパワーがあった。若者は性欲と食欲にあふれており、それが活動の源泉になった。良くも悪くも、日本がまで「青春」であり、未来により多くの希望があった。ひるがえって、今の日本は半ば死んでいる。パワフルであるべき若者が、数の少ないこともあって、社会がまったくパワフルではない。

■安全パイを狙っている若者が多く、チャレンジ精神あふれる若者がすくない。本日、東大の3年生から取材を受けたが、そんなことを話すとともに、「若者は荒野をめざすほうがいい」などと語った。オジサンの繰り言であり、どれほど、心に響いたかわからない。なにはともあれ、次の時代をになう人たちが、もっとパワフルにならないと、社会は沈滞化の一途をたどる。スポーツでも同じだが、全力をあげて対象にとりくんだほうが面白いし、得るべきものも多いと思うのだが。

■午後は、某大手出版社で仕事の打合せ。その後、クリスマスイブの夕飯をカミサンと近くの蕎麦割烹で。蕎麦と蕎麦焼酎で、今の社会の貧困さ、どうしようもなさについて、「年寄りの繰り言を話した。
by katorishu | 2009-12-24 22:20 | 個人的な問題
 12月23日(水)
■天皇誕生日で祝日。日比谷の宝塚劇場の地下にある映画館でジョニー・デップ主演の映画『パブリック・エネミーズ』を見た。1933年の大恐慌後、銀行強盗が大流行したそうで、これは実在の人物をモデルにした映画だ。銀行強盗の常習犯で、つかまっても脱獄し、強盗を繰り返す。仲間もいて、大金をかせいで愛する女と南米にとんで、安楽に暮らすことを夢見ている。

■全編、銃撃戦のアクションが過剰で、人間があまり描かれていない。多少は期待していたので、はっきりいって失望した。アメリカ映画には、どうしてこういう銃撃戦のシーンが多いのか。銀行強盗の犯人が主人公の映画なので、そういうシーンがあるのは当然だが、あまりに多すぎる。その分、人間の心の部分、情緒とか、犯罪に至る動機などが、はぶかれてしまう。

■それなりにオカネをかけた映画である。こういう趣向の映画を好む国民は率直にいって、単純で、ものごとを深く考えない。経済と軍事で世界に覇権をうちたてる一歩手前までいったアメリカだが、今やその威力もあやしくなっている。いまだに、日本ではハリウッド映画がよく見られているが、ヨーロッパ映画なども見たほうがいい。ヨーロッパやハリウッド的価値観にそれほど塗り込められていない国の映画は、もっと複雑な内容の作品が多いし、解釈も多様にできる。外国映画といえば、ハリウッド映画。この図式が定着してしまった感があり、それが日本文化の現状を象徴している。

■戦後60年以上が経過し、アメリカの「植民地政策」が日本で完成の域に達したということだろう。が、今やそれが破綻しつつある。破綻のあとに、なにが生まれるのか。未来は予見できないが、中途半端な破綻より、大きな破綻のあとのほうが、新しい、生き生きした文化がうまれるかもしれいない。そんなことを考えながら、有楽町のガード下の、昭和30年代とあまり変わらないたたずまいの居酒屋でビールをちょっと飲んだ。

■帰って寝床でイタリア文学の「巨匠」、アルベルト・モラビアの『孤独な青年』を読み始めた。「背徳の作家」などともいわれるモラビアの作品は、深いし、きわめて興味深い人間像を描きだしている。映画は、この深さにとても及ばない。モラビアの代表作『軽蔑』は映画化され、ブリジット・バルドーが好演していたが、原作とは似ても似つかぬものになっていた。映像では描けないのである。はじめに言葉ありき、であり、「映像の時代」「感性の時代」などといわれる今も、言葉のもつ重要な役割は変わらない。
by katorishu | 2009-12-24 08:12 | 映画演劇
 12月22日(火)
■レザープリンタの黄色のインクがなくなってしまったので、新宿のヨドバシカメラまで買いにいった。沖電気のレザープリンタを使用しているのだが、カラーはあまり使っていないのに、減り方が早すぎる。黒を印字する際、カラーも一緒に消耗されるらしい。そのため、黒字だけにするようクリックが必要とのこと。レザープリンタのインクは結構たかい。黄色だけで、1万円以上する。カラーを全部とりかえると、5,6万になる。

■従来からインクジェットのインクにしても、メーカーはインクのカートリッジ販売でかせいでいるのである。中身をつめかえて再利用すればいいのに。従来のやり方では資源のムダになる。部屋にはすでに10本ほどのインクのカートリッジがある。A4版まで印刷できる「法人用」の機材なので、カートリッジも大きい。これひとつで、安いプリンターが1台買えるな、などと思ってしまう。

■それはそれとして――。久し振りに新宿の街をぶらぶら歩いた。南口から新宿三丁目、そこから地下のサブナードを歩き、歌舞伎町近くにでて、ガードをくぐって西口に。
 サブナードなどもう7,8年ぶりではないのか。この界隈はあまりかわっていないが、中にはいっている商店街などがかわっている。伊勢丹デパートの裏あたりのビルもかわり、新宿ピカデリーも、今様のシネコンとなって、見た目にはきれいである。時間があえば『パブリック・エネミーズ』を見ようと思ったが、開演まで1時間半ほど。それだけあれば、仕事ができると思い、適当な喫茶店をさがしたが、ふさわしい場所がなかったので、そのままぶらぶら歩いただけで、新宿を辞した。以前の新宿にあった、「文化の発信基地」の面影はない。

■ぶらぶら歩いた途次、3軒ほど本屋をのぞいた。マンガとハウツーものの氾濫である。こういう本しか出さないのか、いや、売れないのか。買わないのでしょうね。本棚を見ながら、なんだか寒々しいものを覚えてしまった。ハウツーものをいくらよんでも、たいして身につくものではない。身についたと錯覚することで、読者はある満足を得るのだろう。

■スペインの哲学者オルテガの『大衆の反逆』を、再読のため持ち歩いていて、電車のなかなどで読みつづけ、ほぼ再読した。第一次世界大戦後に書かれた本だが、オルテガの分析は今の時代にも充分すぎるほどあてはまり、怖いくらいだ。率直にいえば、この世は、自分の頭では何も考えない(当人は考えていると思いこんでいる)大衆(マス)によって、動かされているということを、論理的に記述したものだ。示唆に富んだ文章がぎっしりつまっており、こういう本を読むことこそ、究極の「ハウツーもの」の極意を得ることにつながると思うのだが。

■大学で「一般教養」をなくしてから20年ほどたつのではないか。それが社会の知的劣化のはじまりである、と指摘する心ある学者も多い。オルテガもいっているが、言葉の本当の意味の「教養」を欠いた「大衆」は、「すべてのことに干渉する。しかも彼等は暴力的に干渉する」。本当の「教養人」は自分がいかに無知であるかを知っており、自分の意見をためらいがちにだし、常に試行錯誤を繰り返している。そのため、外からは一見、優柔不断に見える。一方「大衆(マス)」は、自分の意見に絶対的に自信をもち、常に自分が正しいと思いこんでいる。(学歴の高い低いには関係がない)。この層が、残念ながら多数派をしめている。それがオルテガのいう「大衆(マス)」であり、こういう人たちが世界を動かしている。(テレビなど、その最たるもの)。

■その果てに豊饒な文化はなく、「文化まがい」のものが荒涼とひろがる。ただ部品としては性能の悪くない「専門家」が育つ。ここでいう「専門家」とは、自分の専門領域以外のことについては、恐ろしく無知の人である。しかも、ここが重要なのだが、彼等は自分が「無知」であることをツユ疑っていない。むしろ、他の分野でも、専門領域のように、強い自信をもって発言したりする。最大の困りものが、最近の言葉でいう「専門バカ」である。「一般教養」の不足が、この類の人種の大量生産に貢献しているようで、この流れの果てにくるものは、歓迎すべきこととは対極の、精神的には野蛮な時代への回帰である。
 断っておくが、ぼくも「大衆(マス)」の一人である。もっとも、自分は常に間違っているのでは、と思う謙虚さは十分すぎるほどあり、それがわずかに救いだなと思っている。
by katorishu | 2009-12-22 21:26 | 文化一般
 12月21日(月)
■本日より足立区北千住の学びピアの4階で、ミニ脚本展を実施。27日まで実施する。お近くの人はぜひ足を運んでみてください。23日の午後には評判の刑事ドラマ『相棒』の脚本家、輿水氏とテレビ朝日の担当プロデューサーの「対談」があります。このドラマの企画や制作の背景等々について、興味深い話が披露されることと思います。

■来年4月には江戸東京博物館で脚本展を実施する。こちらはもう少し大規模になる予定。その件の打ち合わせで北千住に出向いた。千住は松尾芭蕉が「奧の細道」の出発点となったところで、宿場通りと名付けられた通りがある。そこで嫌な光景を見てしまった。宿場通りから左に折れたところ、前方から車椅子が走ってきた。車椅子にしては、かなりのスピードで、どけどけといわんばかりに通行人を蹴散らす勢いだ。乗っているのは太った男で年齢は七〇代中頃か。

■障害者なので、みんなよけて通るが、もう少し他の通行人にも注意すればいいのにと思った。20メートルほどいったとき、背後で「まてえ!」と怒鳴り声。振り返ると、先ほどの太った障害者が車椅子で走ってくる。その前を自転車に乗った70代半ばの女性が自転車のペダルをこいで走ってくる。車椅子の老人が大声で「接触だ!接触したんだ、その女」と叫ぶ。が、老女は無視してペダルをこぐ。「待てエ、ババア。逃げるのかア。謝れ」と大声でいって追う老人。老女は老女で、顔をひきつらせて逃げる。接触して転倒したり、車椅子が壊れたわけでもなさそうだ。が、老人は必死の形相で罵声をあびせながら追いかける。「ババア。止まれ。誰か捕まえてくれ」と老人は叫ぶが、誰も行動は起こさず、見ているだけ。

■「接触」の場面を見たわけではないので、どちらに非があったのかわからない。ぶつかった時点で、老女のほうが一言謝ればすんだことなのかもしれない。もっとも、車椅子の老人のほうが傍若無人に走ってきて、老女の自転車と接触、老女は腹をたて、なにか一言捨て台詞をいって走り去ったのかもしれない。それで、車椅子の老人は、自分は障害者だから、絶対にこちらが正しく、けしからん、ということで怒って大声で罵倒しながら人通りの多い商店街を追いかけたのか。

■自転車のほうが早いので、距離があいたところで、追うほうは普通はあきらめるのだが、なおも追っていく車椅子の老人。ともに怪我などはしていないようだ。ぼくは途中で右の路地に折れたので、そのあと、どうなったかわからないが、「いい年をして、みっともない」「堪え性がなくなっているな」と思わざるを得なかった。

■血の気の多い若者ならともかく、70の半ばを過ぎたと思われる男女の老人が、ああいう姿で街を「走る」。そんな光景をこれまで一度も見たことがなかった。はっきりって、醜いと思った。高齢者が今後激増するが、堪え性のない人が増えそうで、こんな光景が日常化する社会を、想像してしまう。これに限らず「美しくない光景」が巷に多すぎる。
by katorishu | 2009-12-22 08:00 | 社会問題
 12月19日(土)
■年末になり鉄道路線での人身事故も多くなっているようだ。「事故」の大半は飛び込み自殺である。本日、北千住まで行くため日比谷線にのったが、途中、人身事故の影響でしばらく停車していた。いつの時代でも自殺をする人はするが、最近特徴的なのは経済的理由からの自殺である。

■自殺には他の要因もあり、単純ではない。が、経済的理由が原因で追い詰められ、生きていても仕方がないとして死を選ぶ人もいるし、生命保険をかけていて、自分が死ぬことで家族や会社が助かるからといった理由で死を選ぶ人もいる。いずれにせよ、傷ましいことだ。どうせ、時間がくれば誰一人例外なく死ぬのだから、なにも急ぐ必要はないと心から思っている人は、それだけで「幸せ」の範疇にはいるのかもしれない。

■恐らく今年も年間自殺数が軽く3万人をこえ4万人に迫るかもしれない。それだけ日本社会がは傷んでしまった証拠である。本日、自宅近くのガソリンスタンドの横に救急車が止まっていた。見ると、傍らに人が倒れている。杖がわりにも使う買い物の「手押し車」とでもいうのか、それが傍らにあった。倒れているのは年取った女性だ。脳関係の発作で倒れたと思われた。最近、杖をついたり買い物の手押し車を押した老人の姿が、よく目につく。一人暮らしの老人も急増しているようだ。自殺の増加と高齢化。今を象徴するものである。

■少子高齢化社会のもたらす困難さは、これから20年ほどが「本番」であり、今は序の口である。早急に有効な対策を実施しないと、大変な状況になると思うのだが、未だ充分な対策がとられていない。私見では、少子高齢化社会への対応のひとつとして有効なのは、普通に生きるために「お金のかからない」システムを構築することである。

■とにかく、黙ってじっとして生きていても、「人並み」に携帯をもち、パソコンをやり、地方だと自家用の車をもち……となると、恐ろしくお金のかかるシステムが、社会の隅々に張り巡らされている。昭和の時代までは、普通に生きるために、今ほどお金はかからなかった。そこに「戻る」ことは、利潤追求を至上とする資本主義体制ではむずかしいかもしれない。かといって、ソ連その他で大失敗をした社会主義でもダメ。では、どうしたらいいのか。

■残念ながら、これといった方策が見つからない。そこに時代の向き合う困難さがある。誠実に、現実を見据え、より多くの人間を幸せにしようと、真剣に考えている政治家であったら、かなり絶望的な気分になるはずだ。多くの政治家は、相応の歳費がはいったりするせいか、かなりノーテンキに、目前の事態に、お茶を濁すことで、選挙民の関心をかうことに汲汲としているようだ。「自己保身」が身についてしまっている官僚の大半も同様。

■結局は、野生動物同様の「生存競争」だな、と道を歩きながら考えた。時代のキーワードは「サバイバル」である。とにかく生き残ること。残念ながら「システム」で守られていない多くの国民には、それしか明日に命をつなぐ方法がない。「サバイバル」のためには、利己的になってはダメで、「他」を生かすことによって「共に生きる」。複雑にからみあったシステムのなかでは、「利己主義」より「利他主義」のほうが、生き残る可能性が強い。このへんに、明日を開く可能性の芽があるのかもしれない。
by katorishu | 2009-12-20 03:43 | 社会問題
 12月18日(金)
■師走の金曜日、以前であったら盛り場はどこも熱気に満ちていたものだが、大不景気の影響で比較的穏やかなようだ。渋谷で「428会」の忘年会。20代から80代の老若男女30人ほどのあつまりで、こういうあつまりは貴重である。毎月1回、勉強会をやっているのだが、今月は忘年会にして、和気藹々、歓談した。

■会場で、フィンラド人のテイヨさんとも話したのだが、フィンランドの教育はじつに羨ましい。教育は無料であるし、フィンランドの国籍をもつ人は、すべて、ゆりかごから墓場まで国が面倒を見る。その分、消費税は高いが、払った税が、どこかの国のようにコンクリートに化けることもなく、国民にもどってくる。そういうシステムがしっかりして、不正がなければ消費税が少々高くても、人は納得する。

■日本の目指すべき方向には、いくつもの選択肢があるが、モデルのひとつとしてフィンファンド型のシステムがあると思う。ただし、フィンランドでは人口が少ないので出来る政策であり、1億を超える人口だと、なかなか難しい。方策はある。道州制がいわれているが、日本を6つぐらいの「自治区」のようなものにわけ、防衛など一部の機能は統合して管理することにし、ほかの行政の権限は州にうつせばいい。民主党政権がいつまで続くかわからないが、道州制実施のシミュレーションをぜひ行って、具体策を考えてほしいものだ。
by katorishu | 2009-12-19 00:17