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 12月31日(金)
■大晦日。いうまでもなく1年の終わりである。1年を振り返ると、年初に予定していたことの3分の1程度しか達成できず、「今年も相変わらずであまりパッとしなかったなあ」という思いだ。一方、世の中は大変深刻な事態になっている。すでに崖っぷちではなく崖から転がりおちはじめているといっていいようだ。

■この崩落現象をどこで食い止めるか。食い止めるためにもっとも力を発揮しなければいけないのは政治だが、政権交代をしたというのに、交代の成果をだすどころか、劣化への歯車を押す機能を果たしている。かといって、元の自民政権にもどるべくもない。このまま漂流するのだろう。以前このブログで何度か記したが、日本は今後「イタリア化」がすすむに違いない。ローマ帝国を築き一大文明を誇ったイタリアも、往古の面影はまったくない。、ひところマフィアなどが実社会、実態経済に食い込んだりし、一方で政党が細切れ化し、有効な政策はなにも決まらず、政治、経済、社会は混迷を深めた。

■ある意味でむちゃくちゃといっていいような状態であったのだが、それでも「ラテン気質」というのだろう、国民は日本のように悲観して自殺などもせずに、暢気に陽気に生きている。一方、メランコリー体質で生真面目な日本人は、どうもイタリア人的なアバウトさ、いい加減さになじめないようで、ぎすぎすしてきている。他人のちょっとした「ミス」などを厳しく弾劾せずにはいられず、とにかく「許せない」ものが多すぎるようだ。「まあ、いいじゃないの」「お互いさま」「人はミスをおかすから人なんだ」‥‥等々といった心の余裕というか、鷹揚さを、多くの人がもっていたら、世の中もっと面白くなるのに。

■遊びの要素、無駄な要素を根底に宿している人間こそ、新しい文化を切り開いてきたし、これからも新しいものを創りだしていく。ところが、日本のおおかたの組織で実権をにぎったり、要の「数字」にかかわっている人は、みんな几帳面で真面目すぎる。どうも「遊び」や「アバウトさ」が許せないらしく、銀行員のように1円でも違っていると目くじらをたてる。寛容さが薄いのである。

■そういう人は組織運営の駒としては必要かもしれないが、ついぞ新しいものを創造することはできない。すでにあるシステム、組織のなかでうまく動くことは巧みでも、言葉の本当の意味で新しいことを創り出す担い手にはなれない。これからの日本に必要なのは、組織の中の優秀な駒ではなく、「遊び心」をもった創意あふれる人である。駒から見れば「なにやってんだ」「いい加減だ」等々攻撃の材料も与えがちな人。じつはそういう人の中にこそ、既成の価値観、規則などにとらわれない自由な発想があり、そういうところから新しく時代を切り開くものが出てくるはずである。来年はそういう人が生き生きと生きられる環境が生まれるといいのだが。

■あと10時間ほどで今年も終わる。昨夜は広尾で忘年会。本日午前中はずっと仕事。なんとなく慌ただしく、年賀状を一枚も書いていない。今年は例年とはちょっと違った大晦日の過ごし方をしようと、カミサンと知り合いの女優の小河慶子さんが初めてプロデュース・主演も(?)する芝居を目白の小劇場に見にいく予定。18時開演とか。大晦日、元旦とよく公演をやるよ、と思う。が、その心意気や良しである。その芝居を見て知り合いがきていれば軽く祝杯をあげて‥‥どこかで初詣でもしようかなどと考えている。なにはともあれ、1年の終わりです。つれづれに記す、とりとめのない当ブログ、いつもお読みいただきありがとうございます。
★「それをいっちゃアおしまいよ」http://katorishu.air-nifty.com/blog/ というブログをはじめました。まだ試運転の段階ですが、こちらもよろしくお願いいたします。
by katorishu | 2010-12-31 13:42 | 文化一般
 12月29日(水)
■昨日は結局、10時間ちかくaudiramaの収録にたちあい少々疲れた。本日は麻布十番で仕事の打ち合わせのあと、久々に大江戸線で新宿にでた。西口の京王プラザホテルに向かう地下道の一角に丸善書店があり、以前、新宿にいったときなど立ち寄ってよく本を買ったものだ。本日、出向いたところシャッターがおりていて「工学院大学孔子学院」の入る予定という張り紙。つぶれたのか。がっかりした。書店の経営悪化がいわれているが、あの丸善でも店舗を整理しているのか。

■ハウツーものや新書などのお手軽な本以外はあまり売れないのだろう。丸善には文化・芸術関係の良書もおいてあって、店内にはいるのが楽しみであったのだが。向かい側の喫茶室ルノアールはやっていたので、そこで資料読みなど少々仕事をした。そのあと新宿南口と東口界隈、紀伊国屋書店や伊勢丹デパートの周辺を歩いた。年末の盛り場なので、それなりに賑わっていた。目立つのは20代から30代の若者。40代と思われる人もいるが、いわゆる団塊の世代といわれる人たちを含めた中高年の姿は極端に少なかった。

■団塊の世代が図抜けて人口が多く、それが良くも悪くも戦後日本をひっぱってきたのだが、この層が盛り場にやってこない。きてもデパートどまりで、街をふらつかないのだろう。家で「ただ」のテレビでも見ているのかどうか。若者ばかりが賑わう街を歩き、写真をとったりして歩くうち、やはり若い人が少ないと社会は衰退に向かうなと思った。良くも悪くも若さとは活気のあるものだ。好奇心も強く野次馬根性も旺盛である。

■若い人の集まらない場所や地域はどこも閑散としている。団塊の世代など人口の層が厚いのに、彼らも初老の域にはいりエネルギーが枯渇してしまったのかどうか。もちろん、いつの時代、どの世代にも「例外」はいて、ぼくの周囲には比較的「例外」が多い。彼らは中高年になっても盛り場にも顔をだし「よく遊び、よく学び」を実践しているが、どうも世の多くの中高年は動くエネルギーが枯渇しているような気がしてならないのである。

■いつの時代でも枯れた層、つまり老年層は少数派であったのだが、この何十年間で、多数派になってしまった。それが問題なのであるが、なんとなくこういう事態になってしまい、政治家もどうしてよいかよくわからない。打つ手は場当たり策ばかり。この面ひとつとっても「日本の危機」である。

■人口の多い層が、家に縮こまっていないで、とにかく外にでて消費をしたり、さまざまな活動に従事しないと、社会には沈滞ムードが漂い、次第に陰鬱なものになる。そういう社会は、面白くないし、面白さの欠けた社会に文化や芸術は育たない。来年は文化芸術が盛んになる社会になってほしいと、新宿の街をふらふら歩きながら心から思った。と、こんなブログを記しながら、以前であったら新宿に足を踏み入れると必ずといってよいほど足を運んでいた新宿ゴールデン街に足を踏み入れなかった。「香取さん、ゴールデン街にいくんでしょう」と本日打ち合わせであった人にいわれたが、足がむかなかった。エネルギーの枯渇故である。来年はもっと、「よく学び、よく働き、よく儲け、よく遊び」、「年甲斐もなく」エネルギーを発散させようと、とあらためて思ったことだった。
by katorishu | 2010-12-29 20:44 | 社会問題
 12月28日(火)
■官公庁や多くの会社では本日が仕事おさめのようだ。ぼくのようなフリーには仕事おさめは自分で決めること。もう何十年にわって31日まで仕事をしているし正月休みもない。もっとも本を読むことも映画や芝居を見ることも、広い意味の「取材」であり「研究」であり「仕事」となるのだが。

■この1年を振り返ると、日本という国、日本社会の劣化が顕著になったということで、いろいろな「数字」が、日本の沈下をはっきりと示している。経済も文化も教育も、お世辞にもよくなったといえず、マイナス面ばかりが目立った。とくに国の舵取り、船頭であるべき政治の劣化、混迷が著しい。具体的には管政権。

■相変わらず、支持率をあげるための「切り札」とばかり小沢一郎氏を国会に招致し、糾弾する姿勢をつづけている。そんなことにエネルギーを燃やしている時ではないのに、支持率をとにかくあげる。そのことばかりに腐心して、劣化をとめるための有効な手立てをうちだせない。マスメディアの流す「世論調査」など参考程度にとどめ、「これこそ正しい」という政策があったら、ぶれずに果敢に大胆に実行していけば、すこしは曙光もさしてくるはずなのに、その勇気もやる気もない。

■総理という椅子にしがみつきたいだけの人、といわれているが、まさにそんな言い方があたってしまう言動を繰り返すす。すでにダッチロールといってもよく、これが天下太平の時代であったら問題はないのだろうが、戦後最大の危機に直面しているのである。こういうブレまくりの政権をつくりだし継続させていることに、マスコミが重要な役割を果たしている。

■記者クラブ制度の廃止を実行しようとした民主政権に、「既得権益」を失うマスコミは一様に牙をむいた。ようやく「なんにもやらない内閣」が誕生すると、陰に陽に擁護にまわり、こんなていたらくを招いてしまった。世界中で記者クラブなどという面妖なシステムのある国など日本しかない。国民はまずそのことを知って「世論調査」なるものを留保付きで見ていかないと。

■ウェブでの情報発信により、マスコミのバイアスのかかった報道が明らかになったりしている。「みんな同じ」の「大本営発表」を垂れ流す報道機関は、いずれ報道機関としての役割を終えるだろう。今年は「大本営発表」の報道機関の劣化が顕著になって年である一方、ワールドワイドのインターネット上の情報が存在感を増した年といえそうだ。さて、本日は10時から8時間ほど収録の立ち会い。人はやはり社会とかかわる「仕事」を一生つづけていかないと、社会のこともよくわからなくなる。
by katorishu | 2010-12-28 08:58 | マスメディア
 12月27日(月)
■早稲田のスタジオでウェブマガジンのMAに5時間ほどつきあう。上々の仕上がりかと思う。来年3月発売とのこと。2月に記者発表を行う予定なのでここでは詳細は語れない。新しい表現の場の構築にむけていろいろな企業がシノギを削っている。ここからなにか意味あるものが誕生するはずである。その御輿の担ぎ手の一人でありたい。100年に1度あるかどうかの変革期に、社会とかかわらないなど、生きている意味がない、と思うのだが。

■「それをいっちゃアおしまいよ」というブログを昨日から始めた。
http://katorishu.air-nifty.com/blog/ ココログです。まだサンプルしかのせてなくて不完全なサンプル公開ですが。これからなるべく頻繁に更新していきたい。まだ検索エンジンに反映されていないようだ。簡単に情報を発信できることはありがたい。さまざまな情報発信の場ができたことで、メディアの状況も大きくかわるだろう。

■本日、ITに詳しい某氏に聞いたところでは、iPhoneに対抗してこの秋から一斉にでてきたアンドロイドは1年後には相当数のひとがもつようになり、iPhoneと互角の勝負を演じることになりそうだという。善し悪しは別にして、ウェブが日本の落ち込みを救う原動力になるかもしれない。長所、短所が混在しているが、前向きに考えて長所の部分に可能性を見ていきたいもの。もちろん旧来のアナログも大事でいわば両輪の輪である。ただ、表現の主流はウェブになるようで、もはやこの流れとどめることはできない。
by katorishu | 2010-12-27 21:56 | 個人的な問題
  12月25日(日)
■崖っぷちにある日本で政治家がまず最優先事項としてやらねければいけないことは、経済の劣化を食い止めることだ。そのために効果的な政策をダイナミックにうちだす一方で、沈滞した社会の空気をかえることだ。が、それがまったくできていない。政権交代で、かなりの国民は政治に期待をもったはずだが、1年ちょっとで、期待はしぼみ失望、幻滅にかわってしまった。

■「政治とカネ」のことばかり言い続けるマスコミにも困ったものである。仮に朝シャンを毎日やっているような「御清潔」な議員ばかりになり、ご清潔で透明な政治をやり、あげくに経済や財政が破綻し、多くの国民が塗炭の苦しみにあったとしたら、それでよしというのか。「クリーン」で「凡庸な」政治家など何人いても日本は良くならなず、むしろ害悪ばかり垂れ流す。

■コンプライアンスという言葉がどこの組織でもいわれる。最近のテレビがつまらなくなったことの一因は、コンプライアンス、コンプライアンスといわれつづけ、制作関係者が萎縮してしまったことも一因ではないか、といわれる。役者もそうである。昔は「河原乞食」といわれ、一種の「化外の民」であったから、一般社会の常識と少々はずれた生き方をしても、芸のこやしといわれ、むしろ賞賛された。

■それがバブル経済の崩壊のころから、おかしくなった。バブル時代、やりたい放題にやってきた人が濡れ手で粟の利益をつかんだり、暴力団とつるんだりして、確かに目に余ることも多かった。法律に触れることをやれば罰せられるのは当然だが、どうも多くの人が過剰な反省をしすぎたようで、マイナスの面が強くでている。「相互監視」の目をひからせ、互いに疑心暗鬼になって、「人並み」でない人間を排斥する傾向が強くなった。ひとのちょっとしたミスでもミスをしたミスをしたと厳しく言い立てる。見て見ぬふりができない。余裕がなくなっている証拠である。更に、みんな自分と同じだと思っているから、ちょっと頭をだした人をひきずりおろし、それで隠微な満足を得ている。そんな人が増えている。

■そういう社会からは異能の人は生まれないし、育たない。可もなく不可もない凡庸な「みんな同じの金太郎飴」のような人間ばかりが社会にあふれることになる。そんな社会はだいいち、面白くない。マスメディア関係者にときどき接することがあるが、面白い人、型破りな人、異能の人がほんとうに少なくなった。優等生タイプが多いのである。図抜けて頭の良い優等生ならいいが、凡庸な「学校秀才」の優等生が多すぎる。ほかの組織でも似たり寄ったりである。

■社会をこうも「凡庸」な空気がおおってしまうと、空気をそう簡単にはかえられない。有効な手立てもなさそうである。手立てのひとつとして、「ラテン気質」の導入がいいかもしれない。アバウトでいい加減、少々のはみだしOK、エログロナンセンスOK・・・等々。思い切った刺激が必要である。一方で、異能、有能な人間を大抜擢する仕組みをつくることだ。最優秀な学生は飛び級をさせ年間1000万くらいの奨学金をだす、教員免許を見直しして一般社会から異能、有能な人を一部高額な給料で雇い入れる・・・等々。

■こういう政策は力のある政治家が打ち出さないと実現はむずかしい。ところで「有能な政治家」「異能の政治家」はどこにいるのかと聞かれると、困る。そんな人材が今の日本にはたしているかどうか。うーんと考えてしまう。小沢一郎など、数少ない人材なのだが。「既得権益」を失いたくないマスコミがよってたかって「異能の人」や「他と同じでない人」をたたきつぶそうとする。そんなマスコミに誘導される「素直」で「ナイーブな」国民。ナイーブとは欧米では「バカ」と同義語なのだが、日本では「良い人」に見られている。こっちがどうやら多数派のようだ。となると・・・やっぱりこの国はゆっくりと底なし沼に沈んでいくのか、沈まないと駄目なのか。破滅のあとの再生しかないのか。いや、かならず有為の士、異能の人材はどこなにいるはずで、いずれそういう人士が頭角をあらわす、と思いたい。
by katorishu | 2010-12-26 13:53 | 政治
 12月24日(金)
■カミサンが古い衣類を処分したいというので50着ほどもってJR大森駅近くの店までいった。捨ててもいいのだが、まだ着られて、きれいなものばかりだし、捨てることになんとなく後ろめたいものを覚える、誰かに着てもらえたらいい、という。もっともなことである。ラルフローレンなどブランドものもあり、みんなそれなりの値段の「古着」なのだが。

■買い取り店にもっていったところ50着で計1800円であったという。うーん、そんなに安いのか。これでは飲み代にもならないなと思いつつ、大森駅西口の線路ぞいにへばりつくように並ぶ飲み屋街を歩いた。新宿のゴールデン街のような雰囲気の路地で両側に20数件のバーやスナック、居酒屋が並んでいる。みんな間口1間程度の小さな店だ。夕方の6時すぎだというのに、3分の2は明かりが消えていた。クリスマスイブの夜なのに。この暗さ。人がまったく通らない。

■安価なチェーン店にお客をとられてしまっているのだろう。この界隈は中小零細の工場が多く、おそらくそういう所につとめている人や経営者などがお客としてきていたのだろう。こういう店が大不況の影響をもろに受けている。店主の都合によりしばらく休むといった張り紙も目立つ。ここまで経済不況が及んでいるのかとあらためて思った。

■路地からやや広い通りにでると、20メートルほどの行列。行列の先はケンタッキー・フライド・チキンの店に。クリスマスの食事のために買っていくのだろう。こちらは若い人が圧倒的に多かった。この路地にかぎらず、大森駅近くの盛り場も人通りはすくない。以前であったらうるさいように流れていたクリスマス音楽もあまり聞こえず、地味で、陰鬱な空気が街をおおっている。唯一賑わっているのはパチンコ屋とゲームセンター。その数も驚くほど多く、パチンコ屋のほうは中高年の客ばかり。年金生活者でパチンコ依存症になっている人が増えているようだ。明日の日本を見るようだった。

★ところでツイッターを始めました。
@katorisandesu
たまにしか更新しないこともあって、フォロワーも少ないようですが。来年はもうすこし頻繁に「つぶやいて」みようかとは思っています。


■来年度予算案として菅政権は従来にない巨額の数字をくんでいる。財政悪化がつづくなか、大丈夫なのかと懸念してしまうが、かといって緊縮予算をくんだりしたら更に経済は萎縮してしまう。あとはこの予算、予定通りに通るのかどうか。目下、菅政権は支持率をあげようと小沢一郎氏の証人喚問を要求する気配だが、そういうことをやっている暇があったら、崖っぷちからずるずる滑りおりつつある日本を立て直すことに全力をかけてほしいものだ。マスコミによる頻繁かつ安易な世論調査は政治の劣化を促進させるだけである。

■世論調査など気にせずに、こうだと思う政策を力強く打ち出し、劣化を救う。その気概がなかったら、危機にある国のリーダーとしてふさわしくない。この政権、特捜をつぶすといっておきながら、曖昧なままにしてしまったし、行政改革もすすまず、「国民生活第一」という公約もほとんど反古。小沢切りをして自民、公明と連立を組もうと模索しているようだが、それでは政権交代の意味がなくなる。対米従属は自民政権のころよりむしろ強くなっているし、この方、最高権力者になっていったいなにをやりたいのか、さっぱりわからない。日本の劣化がどこまで進むのか強く懸念されるクリスマスイブである。
by katorishu | 2010-12-24 22:58 | 政治
 12月24日(金)
■宅配便でDVDを自宅に送ってもらうツタヤの会員になっているので、DVDで映画を見ることもあるのだが、時間がないこともあってなかなか消化できない。以前は月に8本ほど見られる会員であったが、数本しか見られないので4本会員になった。それでもこのシステムで見る映画は月に多くて2本程度か。11月初めに借りてそのままになっていた『ママの遺したラブソング』(ジョン・トラボルタ、スカーレット・ヨハンソン主演)を今朝早起きして見た。ミシシッピの田舎町を舞台に、若くして亡くなった女性歌手の一人娘と、その女性歌手への追慕の情をすてがたい中年の男たちの物語。ロナルド・カップスの小説「Off Magazine Street」が原作。

■繰り返しながされるバラード風の音楽、とりわけ歌詞がいい。トラボルタ役の中年男はは元大学教授のインテリだが、今は無職のアル中でミシシッピー沿岸の町、ニューオーリンズの地元の仲間たちと語らい歌を歌ったりするのが生き甲斐の人物。彼と共同生活する男は売れない作家。いずれも過去に心の傷をもつ。この二人が、亡くなった女性歌手のボロ家に居候しているのだが、そこに高校を中退した、亡き女性歌手の娘がやってくる。法的にはこの娘が持ち主である。二人のアル中男がこの娘に勉強を教えたり、世話をやいたりしながら、「まっとうな」生活をさせようと努力する。娘はアル中に反発するが、次第に二人の男の「人の良さ」「暖かさ」にふれ、気持ちをやわらげていく。

■一種の「疑似家族」を形成していくのだが、そこにある空気がうまれ、紆余曲折がありつつも涙の結末にむかっていく。随所にかわされる作家らの「言葉」がきわめて効果的。二人の男はアル中の中年ながら、教養の土壌は相当なもので、地元でもそこに一目おかれている。

■トラボルタがラストで娘の大学進学がきまった地元のざっくばらんな野外パーティで挨拶をする。このとき引用するのはT・Sエリオットの次のような言葉。「人は冒険をやめてはならない。長い冒険の果てに出発点にたどりつくのだから。そして、初めて自分の居場所を知るのだ」。そんな金言、至言に満ちていて、しみじみとした人生の哀歓、情感を感じさせてくれる。なにより脚本がいい。

■こういう質の高い作品もつくるハリウッドに、いまの日本の映画もテレビも遠く及ばない。トラボルタやスカーレット・ヨハンソンの演技も秀逸。ハリウッド映画に映像テクニックばかり学んで、時代の先端をいっていると錯覚している映像関係者も日本に多いが、たまにはこういう映画を見て脚本の重要さについて理解を深めてほしいもの。脚本家、役者、監督ともに、ハリウッドの層の厚さをあらためて実感する。背後にあるのは文化の土壌の豊穣さである。土壌が豊かでないと、芽もでないし花も咲かない。「有名だから」「名前が出ているから」といった要素を最優先して作られるシステムからは、こういう佳作はなかなか生まれない。大事なのはまず企画、そして脚本である。
by katorishu | 2010-12-24 12:22 | 映画演劇
 12月23日(木)
■天皇誕生日。いうまでもなく国民の祝日である。普通の国であったら当然、国旗を掲げてこの日の意味を考えたりするのだが、悲しいことに日本では軍国主義時代のトラウマがあるようで、誰も国旗を揚げない。本日町を歩いたところ、国旗を見ることはできなかった。

■すでに太平洋戦争が終わって60年以上がたつのである。以前であったら人の一生の長さである。今を生きる日本人のほとんどは先の戦争に対してまったく責任がない。そろそろ歴史のトラウマから解放されてもいいのではないか。祝日には国旗を揚げる。そんな常識がそろそろ根付いてもいいのだが、「非常識」が「常識」になっている空気のなか、誰もいいださない。そもそも日の丸の国旗を備えている家は100軒に1軒もないかもしれない。

■戦後日本は最大の困難に直面している。こういうときこそ、国民が一致団結して劣化をふせぐための努力をする必要があると思うのだが、以上のような論を語ると「右翼」と見られかねない。一方で、アジアの民族、とりわけ韓国、中国の民と親しくしなければいけないというと、「左翼」というレッテルをはられる。ほんとうにレッテル貼りが好きな国民である。

■人間はかなり複雑微妙な精神をもった動物である。教条主義者や原理主義者のように善悪を画然と決めることはできない。白でも黒でもないグレーゾーン、日本流にいえば玉虫色、これが今ほど必要なときはない。あなたの周囲にもいるでしょう、ものごとと白か黒かはっきりさせないと苛立つ人が。こういう人が多くなると、窮屈な事態が増える。今の日本が見習うべきはたとえば「ラテン気質」であるかもしれない。「ものごとなるようになれ」で、明るく、陽気で、アバウトで、いい加減で。それで世の中回転してゆけば、そのほうがずっと楽しい。人はべつに苦しむため、数字のつじつまをあわせるために存在しているわけではないのである。

■本日は恵比寿でIT関係者と意見交換。たいへん参考になった。ぼくの思いつきも悪くはなく「それいけますよ」とIT関係者。年明け早々、再度話をつめましょうということになった。ところで、恵比寿にいくとよく足を運ぶ「まんぷく食堂」はお休み。江戸の寛永時代に創業という老舗で、安くて量がありうまい。恵比寿駅から徒歩数分のところにある店です。ぜひ一度いってみてください。必ず満足できると思います。
by katorishu | 2010-12-23 22:48 | 文化一般
 12月22日(水)
■政治の混迷が続き、経済政策ひとつとっても有効な手立てを打ち出せないまま、今年もおわり近づく。マスコミは相変わらず小沢一郎の国会での説明責任などといっているが、この問題は司直の手で裁かれることになっているのだし、国会はそんな悠長なことをやっている時ではない。ずるずると底なし沼のように沈む日本をなんとか救う。そのためにこそ、国民が選ばれた政治家が全力をつくすべきなのに。

■劣化のいちじるしいマスメディアの凋落の引き金を退くのは、やはりウェブである。最近出た『電子出版の未来図』(PHP新書、立入勝義著)を一気に読了した。電子出版やウェブ関係の本を何冊か読んだが、本書がもっとも的を射ている。最近の世界の動向、とりわけITの本家アメリカでの動きを紹介しているので、大変参考になった。

■筆者の竹入氏はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)卒で2004年に日系企業の子会社代表として渡米し独立。オンラインゲームや映像字幕の翻訳事業、北米のIT事情についてのマーケティングリサーチなどを手がける。時代の最先端でビジネスに直接かかわっているので、説得力のある論を展開している。

■電子書籍を一言でいえば「誰でもがクリエーターになれる」時代が到来したということである。今は揺籃期であり、関係者は試行錯誤を繰り返しており、その過程で「誤った」ものがでてきたり、ビジネスとして不成功におわったり、大損をするものもでてくるだろう。そこを指摘し、だからダメなどといっていては、時代に取り残されるだけである。

■すでに流れはウェブである。とくにITに馴染みやすい言葉、映像等々は今後、こちらはメイン・ステージになることは間違いない。過去の「成功体験」にしがみつきたい人たちは、どうしても新しいもの、それも革命的に新しいものに対しては、警戒し、身構え、あら探しをしたりして、様子見をする。しかし変化の著しい時代、様子見をしているところからは何も新しいものは生まれない。

■数多ある電子書籍関係の図書のなかで『電子出版の未来図』はもっともおすすめ出来る本です。新書が洪水のように出て、なかには中身の薄い雑なものも多いが、それも電子出版の普及で解決されるだろう。

■村上龍が先日のテレビ東京の電子書籍についての特集番組で、「作家は編集者が育てるといわれるが、ぼくは別に編集者に育てられた覚えはない」と語っていた。村上氏は自ら電子出版会社を設立し、独自の配信をはじめた。ウェブでは音楽や映像も加味した、まったく新しい形の「出版」が可能であり、その利点を取り入れているようだ。チャレンジ精神を高く評価したい。「既得権益」にしがみつく「ロートル」は脇において、「これからの時代」を生きる若い人は、チャレンジ精神を発揮して、新しい表現の形、表現の場をつくるよう努力をして欲しい、と読了後、あらためて思ったことだった。
by katorishu | 2010-12-22 10:38 | 新聞・出版
 12月21日(火)
■昨日、『ニュー・シネア・パラダイス』で少年と映画についての「人生賛歌」を感動的に描いたイタリア映画界の巨匠、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の最近作『シチリア!シチリア!』を見た。マフィアの故郷でもありシチリアに羊飼いの子として生まれた主人公が、ムッソリーニの独裁政治、さらに第二次世界大戦後の激動の時代に、どのように生き、家族を形成していったかを、みずみずしい描写で描いていく。マフィアへの対抗心からイタリア共産党に入党、さらに議員になるが、他の国の共産党員にありがちは「教条主義」でも「原理主義」でもなく、イタリア人気質とでもいうのか、ある種のおめでたさ、いい加減さを底に宿した人物像で共感をもてる。

■なにより、シチリア人気質の陽気さ、いい加減さ、アバウトさについての描写がいい。思わず微笑してしまい、今の日本に欠けているのはこれだなと思ったりした。大胆な省略、時間経過の巧みさはさすがである。脚本もトルナトーレ監督が書いており、見習うべき点も多くあった。全編にただよう「シチリア情緒」の質感とでもいった空気がいい。さすが「イタリア映画の巨匠の作」と思った。

■ハリウッド的な起承転結のセオリーに従った盛り上げかたでないのもいい。淡々とした描写の羅列のなかに、確かな手応えをもって生きる男と、その家族、友人らの「暮らし」が浮かび上がる。随所の映画館がでてきて、父が息子をつれて見に行くシーンが効果的に挿入される。トルナトーレ監督は心底から映画がすきなのだなと改めて思う。150分もの長尺だが、長さを感じなかった。銀座の和光ビル裏のシネスイッチ銀座で年末から来年初めにかけてやっています。見て損のない作品として、推薦します。毎度のことながらこういう作品が「単館上映」というのも寂しいことである。
by katorishu | 2010-12-21 09:02 | 映画演劇