コラム


by katorishu
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寒波到来

 12月19日(火)
 日本列島を異例の寒波が襲ったとのこと。お昼頃まで寝ているので、そんな寒さであるとは気づかなかった。
 午後3時ごろ、外に出たら風が冷たかったが、日差しはやわらかで歩行も進む。20分ほど歩いて大井町駅までいく。スターバックスにはいり、5時間半、創作。コーヒーを何杯も飲んだが、ひとつの店にこれだけ長くいるのは最近では珍しい。
 帰路、最近よく行く安酒場に入ってしまった。

 師走なのだが、「毎日が日曜日」のぼくにはあまり関係がない。書き下ろしノンフィクションは締切があってないようなものだし、ドラマ等はまだ企画が通っていないので、書く態勢は整っているのだが、頭のなかであれこれこねまわしているだけ。小説も執筆しているが、直近に締切があるわけではなく、ゆっくり散歩をするような気分で書いている。
 こういう仕事のやり方をしていると、必然的に収入が途絶えてしまう。貯えがあるわけでもないので、慌てないといけないのだが、生来、小心ながら暢気な性格なので、なんとかなるさ……と構えている。

 ところで、例の耐震設計偽装問題だが、今表に出ているのは氷山の一角だという気がする。ヒューザーはじめ関連会社は小泉首相が所属する森派の政策研究会に660万円の政治献金をしているとマスコミが報じていた。
 ヒューザーの社長とともに国土交通省に赴いた伊藤公介代議士は森派に属しており、元国土交通省の大臣だった。
 過日の証人喚問でも、自民党議員の質問は大甘であったし、今後、政治家がらみの醜い関係が出てくる可能性が強い。

 ネットには首相秘書官の飯島氏が、マスコミにこの問題をあまり追究するなと圧力をかけていたとの情報が載っていた。どれほどの信憑性があるか定かではないが、ありそうな話である。
 政府は阪神淡路大震災の際「個人資産」には国が保証しないとしていたのに、今回は異例の早さで「保証」を打ち出した。
 「被害者」には気の毒だが、国民の公平感にかかわることでもあり、それも問題だが、ヒューザーはじめ関連業者が「真相」を暴露することによって、困る政治家がいるのではないか、と疑ってしまう。
 検察、警察は徹底的な捜査をし、「一党独裁」によって日本社会の随所に生じた「膿」を出してもらいたいものだ。
 だが、恐らく、適当なところで、ホコを収めてしまうのだろう。この問題に限らず、いつぞやの自民党首脳への歯科医連盟からの1億円献金にしても、おざなりの追究で終わってしまいそうだ。
 
 一つの党や勢力が長年にわたって権力の座に居座ることの弊害は大きい。「権力は腐敗する」は洋の東西を問わず真理である。 
 なのに、テレビを利用した「小泉マジック」とやらに、簡単にだまされる多くの国民。まだまだ、この国には「民主主義」は根付いていないと思う。
 中国などよりはマシかもしれないが、いわゆる先進国の中では、「長いものにまかれる」人間の比率が一番高いのではないか。
 
 封建時代に根付いた「世間」を気にする体質が、連綿と続いているのだろう。世間を気にし、世間から後ろ指をさされないような生活をするということは、悪いことではないが、過度に世間を気にするあまり、たとえ自分自身の意見、見解があっても、それを表明しない人が多い。表明をぜず、押し黙って耐えていると、そのうち意見や見解をなくしてしまう。異論、反論をもちながら、それを押し殺しているのは、精神衛生に悪いし辛いので、そういう見解を持つこと自体を放棄してしまうのである。

 言論の自由がかなりの程度保証され、情報も比較的得やすい環境なのに、恐らく精神的に怠惰なのか、あるいは急がし過ぎるのか、自ら一次情報を得ようとせず、テレビなどの口当たりのいい可もなく不可もない情報で事たれりとしている。
 そうして「勝ち馬」に乗ろうとする。

 「勝ち馬」に乗るのもいいが、強い者になびく者が多ければ多いほど、権力者や金持ちにとっては御しやすい社会になる。「勝ち馬」に乗るというのは、強者に媚びることであるのだから。
ぼくやぼくの周りにいる人はどうも「負け馬」に乗ってしまう傾向が強いようだ。 かくて、もろもろの権力からは排除され、金に縁もない。
 ただ、歴史を読むとよくわかるが、本当の意味の「改革」「変革」は、「負け馬」に乗った人たちから生まれてくる。
 「負け組」「負け馬」「負け犬」の範疇に入る皆さん、めげずに頑張ってください。未来はあたなたちの手にあるのです。
# by katorishu | 2005-12-20 00:54

マイホーム奨励策のつけ

 12月17日(土)
 高田馬場でシナリオ義塾の講義。3時間ぶっつづけなので、疲れる。帰路、北品川のベローチェで3時間、創作。眠気に襲われたりし、なかなか思うようにはかどらない。ほかのことも含め、もろもろ、思い通りにいかないことが多すぎ、食欲が減退する。

 帰路の道の両側には大型の高層マンションが林立している。その中に、目黒川ぞいに建つ高層マンションがあった。前を通ったとき「グランドステージ」というプレートが目にとまった。もしやと思ってよく見れば下に「HUSER」という文字があった。
 今、マスコミの話題をさらっている「耐震構造偽造設計」に関連する建物である。ここの建物はマスコミに出ている「危険な建物」の中には入っていないようだが、住民はどんな気分でマスコミ報道を見ているのか。

 恐らく100平方以上ある広いマンションなのだろう。各戸に明かりがともっていた。高層マンションなのに、一階が駐車場になっているのが気になった。傍らの一角は駐輪場になっていた。
 以前からいわれていることだが、一階が駐車場のマンションは壁がないので、その分、弱いという。そう思って眺めているからなのか、ここも危ないのか……などと思ってしまう。HUSERの名前があるので、このマンションは売ろうとしても買い手がつかないのではないか。

 日本の「住宅政策」のツケがこういう形でまわってきた、というべきだろう。
 公的な機関が都市計画をきちんとつくり、、道路や住宅等をつくるべきなのだが、戦後の「私権」を過度に尊重する政策が、こういう惨状をもたらしたのである。ほかのことは「自由化」をすればするほど良い結果を生みやすいが、有限な土地に関しては、私的所有を制限しなければいけないと思う。土地は水などとともに基本的に国民の「共有財産」であるはず。
 なのに、昔の政府は社会主義、共産主義に対する過度の警戒感、恐怖感から、「土地の私有権」を過度に認めてしまった。土地は国民のもの、その総体である国のものであり、国民は国から「借りて」、その賃貸料を国に払う形にしておくべきだった。

 質のよい公的な建物を増やし、都市計画にのっとった整備をしていたら、都市のもろもろの問題は解決していたかもしれない。
 今や、先進国の都市で、東京ほど無秩序な印象の都市はない。個人が勝手にマッチ箱か、蟻塚のような建物を「マイホーム」と称して大量生産し、建物の割に高すぎるお金をつぎこんでいる。個人の勝手だから、「グランドデザイン」など皆無。石原都知事であったか、「東京の町はゲロを吐いたようだ」といったが、その通りである。

 戦前の日本は、安価な家賃の借家が多く、住民のかなりの部分は借家住まいだった。漱石の自宅も確か借家であった。木造の平屋が多かったが、それなりに町の景観に統一感があったようだ。ところが、多くの人がマイホーム、マイホームと、それを得ることが人生の大目的のようになってしまってから、町の景観も変わってしまった。家庭のあり方、社会の仕組みまでが、変化をこうむり、現在のような惨状に至っている。

 政府が「マイホーム」政策をうちだし、持ち家を税制面でも金融面でも優遇した背景には、じつは共産党があった。ひところ、共産党が選挙の度に議席をのばし、共産党ないし社会党の息のかかった県や都の知事も増えた。そんな現状を見て、当時の政府、官僚は、このままでは日本は「共産化」するのでは……と危惧した。その防止策のひとつとして打ち出されたのが、「マイホーム」奨励策である。

 国民が「マイホーム」をもつようになると、人は保守的になり、現実を変える意欲が減る。そう読んだ当時の指導者たちの勘は見事、的中した。
 確かに、マイホームのローンでがんじがらめに縛られてしまえば、会社を辞めることもできず、ローンという鎖につながれ「現実」から逃れることが出来なくなる。いちおう「不動産」の所有者になれたのだし、家族も喜ぶ。一方で、土木建築業者も潤い、そこからの政治献金を受けて政府与党の議員も潤った。かくて世界でも類を見ない自民党の「一党独裁」体制が継続したのである。(ぼくの独断や偏見ではなく、学者その他が公言していることだ)

 現在の政治、社会状況の遠因のひとつは、マイホーム政策にある、とぼくは見ている。バブルだってマイホーム政策の延長上にあった。
 いずれ東海大地震並の地震がやってくれば、多くのマイホームは倒壊するか灰燼に帰する可能性が強い。しかし、マイホームを買った人は、名目上は「数千万の財産」を所有しているのだという安堵感にすがって、先を見ようともしない。見るのが怖いのである。だが、大地震は必ず起きる。

 そのとき、どんな、「大破滅」が出現するか。そんな時が来る前に、この世からおさらばしたいものだが、一方で、怖いもの見たさで、現実の地獄図絵を見てみたい気もする。いや、「その時」がくれば、惨状をはたから「観察する」余裕などはなく、真っ先に惨状の渦に巻き込まれ命を絶たれてしまうかもしれない。
 いずれにしても、この一事を見ても、未来に明るい材料は少ない。これから生まれてくる人が可哀想だ。今の若い人は、そんな空気を本能的に感じ取って、子供を産まないのかもしれない。こういうのを天の配剤という。
# by katorishu | 2005-12-18 01:05
 12月16日(金)
 六本木での放送作家協会理事会のあと、近くの喫茶店で理事の劇作家T氏ほかの諸氏と雑談した。窓の向こうには、六本木ヒルズの建物が屹立している。
 毎月のようにこの界隈にくるが、中へ入ったことがない。その場にいた脚本家、放送作家諸氏も、いっていないという。
「我々貧乏人には無縁の建物だね」と話し合ったことだった。例の株の誤発注事件で、24歳の男が4億だか5億だか稼いだという。彼は28億で、ジェイコム株を買いまくった、その結果だという。

 24歳の個人が28億も出して株を買うというのも、ぼくなど唖然とする。「青二才」がどこで、どう儲けた知らないが、「ギャンブル経済」もいいところである。
 都内の一部では不動産バブルが起こっているというが、こういう「突然変異の怪物」のようなものは必ず崩壊する。

 一部の個人が突出した金持ちになる世界は古来ろくでもない社会である。バブル景気にわく中国もしかり。
 ロシアにもソ連崩壊のどさくさにまぎれ巨額の資金を手にした若者がいるが、一方にはかつかつの生活をしている中高年者がいる。
 地味にこつこと働き続けて、ささやなな老後を送ろうとした層を、ソ連崩壊後のハイパーインフレが直撃した。ぼくはソ連崩壊一年前と崩壊直後のロシアに行っているので、その混乱ぶりがよくわかる。

 T氏は劇団を主宰しているが、経営は苦しく、公演の度に赤字がかさみ、青息吐息とのこと。「ぼくと同じ年齢の、公務員や大企業に勤めていた人たちは定年を迎え結構優雅な生活をしているのに、 こっちはまだあくせくしなければならない」と自嘲気味に話していた。
 フリーで、どこにも縛られず、好きなことをやってきたのだから、当然、という意見もあるだろうが、ぼくの知る限り、定年まで「休まず遅れず働かず」でじっと組織にへばりついた人たちに比べ、フリーランスでやってきた人のほうが、気概もエネルギーも能力もある人が多い。
 
 組織の中にも優秀な人はいるが、圧倒的多数は、「可もなく不可もなく」、出る杭を打たれないように「杭」として出ることもせず、ひたすら右を見て左を見て、みんな一緒という輪の中で生きてきた。そうして定年を迎えた人が、経済的には今「結構な生活」をしているようだ。

 某日、某テレビ局を定年退職した夫婦と話すことがあったが、定年後の生活に備えパリに8000万のマンションを買ったという。もちろん、東京の家も残して、パリと東京を往復して「優雅」な生活をするのだろう。「結構なことですね」といっておいたが。
 団塊の世代よりすこし上の「大組織」を定年退職した人たちは、確かに今、恵まれた人が多いようだ。しかし、これから10年、20年後の生活はどうなるかわからない。
 インフレが進めば、年金など大した役に立たない。経済ばかりでなく、心の面でも、「優雅に」「遊んで」暮らそうと思っている層が、この先、安泰で優雅な生活を満喫できるという保証はない。

 ボランティア活動でもいいから、社会とかかわり、少しでも余裕がある人は、社会になんらかの形で「お返し」をして欲しいものだ。若年層によりかかって、安逸をむさぼろうとしたら、いずれそのしっぺ返しを受けるに違いない。
 死ぬまで「働ける」人や「働ける場所」をもっている人は幸いである。
 もっとも、いやでいやでたまらない仕事ならしょうがないが。ぼくからいえば、死ぬまで続けたいと思えないような仕事を、よくやってきたな、と思う。いくら生活の安定のためとはいえ、それでは動物園の檻の中の動物である。野生を失いたくないものである。
# by katorishu | 2005-12-17 00:04

ピロリ菌と無保険医療

12月15日(木)
 過日の検査で胃のピロリ菌が陽性とのことなので、これを「退治」することにした。抗生物資を1日、朝晩2回、一週間続けて飲むのである。
 それで除去されたか再検査をする。

 自覚症状は何もないのだが、慢性胃炎から胃癌などにもなりやすいと医師にいわれたので、実施した。胃潰瘍などがなく、検査は別のところでやったので、「無保険」であるという。
 薬局では「おかしいですね。保険で出来るはずですが」といっていた。しかし、もう処方箋などをもらってしまったので、そのまま払う。「高額医療の対象になります」と薬剤師。

 医療の保険と、無保険の違いが、わかりにくい。歯医者などでもよく「保険で治しますか」「無保険でやりますか」などといわれる。
 無保険のほうが「高度の処置」をしてくれとかで材料も違うが、何十万もかかる。ひところは百万円単位でとられた。
 以前、ある歯医者で「領収書なしだったら、30万でやる」などといわれたこともある。その歯医者では「ずいぶん、割り引いたつもり」なのだろうが、「高い」と思った。
 お上に「保護され」「守られた」一部の職業では、この種のことが多い。

 その点で「自由主義市場経済」は、今のところ、正しいのだが。今のままのシステムだと、もっとも弱い「下請け」や「個人営業」「フリーランス」などにしわ寄せがいき勝ちだ。
# by katorishu | 2005-12-16 00:24

短編戯曲のオムニバス

 11月12日(月)
 世田谷の松陰神社の近くにある小劇場「スタジオAR」でレクラム舎の公演「ベンチ2」を見る。
住宅街の中にある地味な劇場で7,80人が入れるという。「ベンチ1」は今年の冬、三軒茶屋の小さなスタジオで「短編戯曲」3編を公演し、ぼくも1編を書いた。

 今回は小松幹生氏作の4編の短編の公演という「オムニバス」。全回と同じ「風が吹く」のほか、新作で「昼休み」、「たそがれに」「今宵は月も」。
 いかにも小松氏らしい、言葉と言葉の綾や言葉尻をとらえた男女間の微妙な心理を、切れ味よく描いている。
 基本はコメディなのか、と改めて思った。
 主宰の一功氏の夫人でもある松坂わかこが好演していた。「風が吹く」は松坂、西本泰輔ともに、全回よりよくなっていたと思う。「たそがれに」の岩手太郎氏と観世葉子氏の両中年俳優の味のある演技も哀歓が滲み出ていて味があった。
「今宵は月も」は、一功氏と松坂わかこの「現実の夫婦」同士が、舞台上で「男女の感情の齟齬」を演じる。
 稽古で、夫婦であることから、ちょっとしたトラブルめいたこともあったということで、「稽古に私生活をもちこむな」との声も。この回は若い中村和彦の演出。もちろん、ジョーク半分のことだが。劇団レクラム舎も、経済的には多くの小劇団の通弊で楽ではないようだが、よく頑張っていて、今後の発展が楽しみだ。

 終わって近くの大衆食堂の奥の座敷で出演者、スタッフ、御客などもまじえ飲食。界隈でも例をみない値段の安い食堂。古い作りでまったく飾り気はないが、値段の安いのは大歓迎だ。
 刺激され、短編を書いてみたい気分になった。
# by katorishu | 2005-12-14 03:52