一冊の本
2004年 11月 23日
前日、21日、高円寺の寿司屋で行われた「読書会」に出席。ぼくは日曜日は「ガンジーの会」のハンストをしているので、水だけを飲んで皆さんにつきあった。
飽食の時代、週に一回、ハンスト・断食をすることで、いろいろと社会のあり方などに対して深く考えるヨスガになるし、第一健康によい。減量になやんでいる方、現在の文明のあり方に疑問を抱いている方、環境保護に関心のある方、そしてイラク戦争に反対の方……は、一度「ガンジーの会」のホームページをのぞいてみてください。
さて、この「読書会」、隔月に一回、20年近くにわたって続いてきたが、今回が最後というので、出席した。これまでも、3度に1度くらいは出席したと記憶する。
昔「散文芸術」という同人誌がでていて、それなりに水準の高いものだった。ぼくも編集委員という形で参加していた。ここから「群像新人賞」や「新潮新人賞」「すばる文学賞」「太宰治賞」など、いろいろな新人賞をもらった人が輩出した。
「散文芸術」は、作家の中上健次氏等も参加していた「文芸首都」が終刊になり、その同人の有志がつくったもので、ぼくは30年ほど前に参加し、何編か小説を発表した。
芥川賞を受賞して間もないころの中上氏も集まりに出て、意気軒昂にしゃべっていた。彼もすでに亡くなっている。
いろいろ個性豊かな人が多かったが、すでにかなりの数の人が鬼籍にはいってしまった。
今回、集まったのは「散文芸術」の同人たちで、ぼくもいれて9人。芥川賞候補にもなった飯田章氏や第一回すばる文学賞の受賞者の原トミコ氏らも参加した。さらに80歳の高齢ながら、静岡で個人史「紅炉草子」を発行しているベレー帽が似合う島岡明子氏ら。
原氏はぼくと同年だが、一人をのぞいて、ほかはぼくより年長者。
伴侶に先立たれた人がいたり、時の流れを感じてしまうが、文学に賭ける執念をなおも持ち続けている人もいて、心強かった。
今回は最後なので、各人が文学的に触発された作品などについて、一人5分から10分ほどしゃべることになった。
古く懐かしい文学者の名前や作品名が聞かれた。文学作品について、熱く語れる人が極めて少なくなってしまった現在、貴重な集まりであったが、みなさん寄る年波には勝てないようだ。
9人のうち、パソコンを日常的に使用し、インターネットを利用しているのは、最年少で銀行関係者のU氏が仕事で使っているのをのぞくと、ぼく一人。
良い悪いは別にして、パソコン、インターネットが時代の流れであることを、ぼくは力説し、お年寄りだからこそ、利用したほうがいいのでは……とすすめたが。
さて、ぼくにとって20代の中頃、もっとも影響をあたえられ衝撃的であった作品は、なんといっても水上勉の『宇野浩二伝』である。
中央公論社から出ていた「海」という文芸雑誌に連載されていたもので、ぼくは毎月発売と同時に買い、むさぼるように読んだ記憶がある。
「自分には文学的才能はない」と半ば諦め、サラリーマン生活を可もなく不可もない状態で送り、安易に自堕落に生きていくしかない……と思い決めていた時期に出会った評伝だった。
「あれは傑作だった。水上勉氏のなかで、最上の作品じゃないか」と水上勉氏と面識のあった飯田氏も語っていたが、戦後の「評伝文学」の最高傑作ではないかと、ぼくも思う。
あれほど、血が騒いだ作は久しぶりで、もう一度、小説を書いてみようという気分にさせてくれた。ぼくにとって、忘れがたい作品だ。宇野浩二と水上勉は、師弟関係といった仲で、一時、水上氏が宇野浩二の口述筆記もし、生活もほとんど共にしている状態だった。
文学者とは、こうも情熱的で、面白い存在なのか……とぼくは目から鱗が落ちる思いだった。
文学に賭ける執念というものに、体が熱くなり、当時、入ったばかりの放送局を、いつやめるか、真剣に考えはじめた。
結局、10数年勤めて、なんとか「作家・脚本家」という職業につくことになったのだが、あのとき「宇野浩二伝」を読まなければ、多分、ぼくは作家にはならなかったであろうし、まったく別の人生が開けていただろう。
一冊の本が人の一生を変えてしまうのである。
その後も、本は人並み以上に読んできているが、あのときほどの興奮を味わうことは、残念ながら一度もない。
ドストエフスキーの作品などに熱中した時期もあったが、別種の感興である。いろいろと本を読んできて、あれだけ思い入れのできた本に出会ったことは、率直にいって幸せであった。
それにしても、以前は会うと、熱く文学について1時間でも2時間でも語り合える人が、身近に何人もいたのだが、今は本当に少なくなってしまった。