コラム


by katorishu
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大人の童話 メロドラマ その3

大人の童話 メロドラマ その3
 殿村亜矢はガラス戸を開け、サンダルをつっかけ庭に出た。
 池のある中庭を囲むように棟続きの家が建っており、左端の四分の一は大家である殿村家が占めているが、他はいずれも借家である。亜矢のいるリビングのちょうど真向かいの部屋で、白髪の綾辻さんの奥さんが安楽椅子に座って編み物をしていた。亜矢に気づいて窓ガラス戸越しに穏やかな微笑を送ってきた。
 亜矢は池の脇の鉄製の白いベンチに座った。自然の風にあたれば気持ちがすっきりすると思ったのだが、またいつの間にか浴衣姿の拓郎と長い髪のスタイルのいい女の像が悪意のように脳裏をよぎる。
 濁った池から亀が首をつきだし、こっちを眺めていた。亜矢は思わずベンチの下にあった小石を手にして投げつけた。小石は亀にあたらずポチャンという水音が思いのほか強く響いた。

 大人の童話 メロドラマ その3_b0028235_222210100.jpg義父の作治に野菜と根菜をメインにした特別メニューの遅めの昼食をつくり、自分は食欲がないのでトマトジュースをコップに一杯飲み、すっぴんに口紅を塗り、スニーカーをはいて外へ出た。
 どこへいくというあてもなく歩いていると、駒沢公園の入り口にきていた。
 ウオーキングロードぞいに植わっている梅の木が白い花をつけていた。三々五々、散歩をしている人たちがいる。時間帯からいって、年金生活者と思われる夫婦や年寄りのグループが多く、いつもは彼らの動きを微笑ましく見ていたのだが、今日は彼らの動きの緩慢さが妙に苛立たしい。どいてどいてといわんばかりにして、彼らの中央を突っ切るようにして追い越した。
 欅の大木の葉が芽吹きはじめ、若芽が匂うようだった。花壇の前で立ち止まり、小手毬のような白い花に顔を近づけたとき、不意に脳裏に拓郎と髪の長い若い女のからみあう光景が浮き上がった。先ほどまでは、強くイメージを喚起させようとしても、紗をおろしたようで明確な像を結んでくれなかったのに、和室のほのぐらい明かりのもと、女の白い肌に唇を這わせる拓郎の顔が、スポットライトを当てたかのように妙に鮮明に浮かんできてしまう。
 そういう行為ができないはず、と思っていたのだが、否定しようとすると、ますますしつこく浮き上がってくるのだった。
 なんだか、へんである。
 妙な気分である。
 なぜか部屋の脇には長い滝のように白い泡をたてた川が流れていて、岩にぶつかる水音までが耳に聞こえる。拓郎の耳の後ろに大豆ほどの大きさのコブがある。太腿の付け根には子供のとき交通事故にあってつくった五センチほどの傷跡がある。さらに右足の膝の後ろには小学生のとき隣家の犬にかまれた大豆大のひきつれが残っている。拓郎のそんな体の細部をナメクジのように這っていく若い女の白い指、赤い唇……。
 ああ、いやだ、いやだ。
 強くうち消そうとすると、今度は相手の若い女の体までが悪意のように脳裏をよぎる。顔はボカシがかかっているようだが、なめらかで艶のある胸や腹、腰などが間近に見るように浮いてきた。
 でも、できないのに、できるの。それって「矛盾」と思うのだが、依然として解けない謎を前にした気分である。
 松木の上にカラスが舞ってきて、こちらをむきカアと啼いた。睨み付けると、カア、カア、カアとうるさく啼く。それがアホ、アホ、アホと聞こえそうになった。
 亜矢は息苦しくなり、歩き出した。また悪意のように、女の白い肌に唇をはわす夫の顔がうかんできた。ありえない。嘘である。でも、安心がもどってこない。想像の中で女の柔らかな肌に唇を這わせる拓郎の顔が、いよいよ鮮やかに隈取りされ、消えていってくれない。目を閉じた。消えて、と念じた。消えろ。消えてちょうだい。お願い。手を握りしめ強く祈るように念じたが、艶のある肌の上におおいかぶさる拓郎の体が網膜に浮き上がる。
 やがて黒い髪の女のあえぎ声までが耳底にわきあがってきた。焦燥がつのり、心臓が激しく脈打ち、息苦しくなった。耐えられなくなり、亜矢は小走りになった。強く大きく腕をふり、足をあげ、やがて走り出した。

 いつの間にか、トレーニング・ウエアを着た主婦の一団に囲まれていた。一瞬、彼らに嘲笑されているような気がした。逃れるように走った。むちゃくちゃに走った。だが、走っても、走っても、目的の場所が走った分だけ砂漠の蜃気楼のように遠のいていってしまう。焦燥が亜矢の体をつらぬき、まるで悪夢のさなかにあるようで、もどかしく、いらだたしい。冷や汗が背筋を這った。次第に頭の中が空白になっていくようだ。ついに真っ白になり、自分が今、何をしているのか、何をしようとしているのか、わけがわからなくなった。
 カラスのギャーギャー啼く声ばかりが耳にうるさい。やめて。そんなふうに、あざけるように啼くのは、やめて。やめてちょうだい。叫びだしそうになるのを、かろうじてこらえた。そうして、気がつくと、亜矢は駒沢大学駅の真上に位置するドトール・コーヒー店の二階にいた。まだ心臓がときとき脈打っていて、手のひらに汗がにじんでいる。エスプレッソの苦いコーヒーを飲み、ようやく一息ついた。
 ガラス窓ごしに、通称玉川通りといわれる二四六号線を走る車の群が見えた。腕の時計を見ると午後の四時をすこし回ったところだった。
 拓郎の携帯に電話をしてみようと思った。ピンクの携帯をとりだし、送信ボタンを押した。七回コールする音がして拓郎が出た。
「どうしたんだ」
 いつもと変わらない拓郎のやや低音の声だ。
「まだ、あなた、伊豆……」
「いや、今、御殿場のほうにきてる。写真を撮る必要があるんで」
「そう。一人」
「もちろん、そうだよ。経費節減しなくちゃならないんでね。どうかしたの」
 一瞬、どうしようかと思った。映子からきいたことを話そうかどうか。しかし、まだ噂の段階であり、こういう形で切り出すことが、いいのかどうか。
 迷っているうち拓郎の声が響いた。
「走りながらの携帯はまずいんだ。白バイが妙に多くてね。なにか緊急の用事」
「いや、そうでもないんだけど」
 拓郎の電話での応対に、いつもと変わったところは感じられなかった。もし隣に痩せて髪の長い女が乗っていれば、慌てぶりが声にでるはずである。
 やはり、映子の話していた男は「他人の空似」であり、みんなわたしの思い過ごしであったのだろうか。

(人形制作:箱石潤子)
by katorishu | 2010-01-30 22:23 | 連載小説