コラム


by katorishu
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大人の童話 メロドラマ その8

大人の童話 メロドラマ その8

 夫婦の寝室は二階にありツインベッドが置いてあるが、このごろ拓郎は就寝の時間が不規則なことと鼾(いびき)をかくことなどから、客間に布団を敷いて寝ていた。小太りで一見磊落(らいらく)な印象を与えるものの拓郎はきわめて神経質で、慢性的に不眠症を訴えていて、一人でないとよく眠れないというのだった。
「健康第一だし、そうすれば」
 といったことを亜矢は覚えている。夫婦の肉体的触れあいを重要視するアメリカでは夫婦が寝室を別にするようになると離婚の原因になるというが、ここは日本なのだし、亜矢としても別の部屋で寝てもらえば安眠が得られるので納得した。
 大人の童話 メロドラマ その8_b0028235_21292844.jpg 夫婦が触れあったのは、いつであったか。酔って帰ってきた拓郎が眠りかけた亜矢のベッドに下から毛布の中にもぐるようにはいってきて、ネグリジェを下からまくりあげるような形で、半分寝ぼけ眼(まなこ)でまじわろうと試みた。試みだけで終わっていたような気がする。数ヶ月前であったと記憶している。
 一緒になって二〇年が経過すれば、たいていの夫婦はお互いの体に新鮮さが薄れ、ときたま思い出したように惰性で触れあうのが普通なのかもしれなかったが。
 今、拓郎の妻である「私への性的関心のなさ」は深い意味をもってきている……。
 妻以外の女に対しては、拓郎はまだ充分に雄の本能を発揮し得るということなのか。
 中庭にたたずみ亜矢はぼんやりそんなことを考えた。

 翌日、亜矢は田園都市線に乗り渋谷で降り、前もってインターネットで調べておいた「道玄坂探偵事務所」というオフィスに足を運んだ。道玄坂を登り切ったところにあるビルの三階だった。その類のところに足を運ぶのはもちろん初めてで、かなりためらったのだが、白黒をはっきりさせる証が欲しいと思い決断したのである。
 年輩の男が出てくるかと思っていたら案外若い女性の調査員が出てきて、フォーマット化された用紙に依頼人の住所と電話番号、それに調査の趣旨と捜査の対象となる人物のデータを記入するよういわれた。
 調査料金が一五万円もかかると聞いて、亜矢はやめようかと思ったが、逡巡のあと依頼人の欄に署名捺印した。拓郎の「浮気」が根も葉もないことであったら、それはそれで安心料である、と割り切ることにした。
「一週間ほど時間がかかります」
 若い女性の調査員は事務的な調子でいった。

 三日ほど経過した。その間、出雲雅也が引っ越してきた。前もって宅配便で段ボールを三つ送ってきたほか、大きな皮のトランクをひとつタクシーで運んできた。まるで旅行にでも行くような身軽さであった。
 駒沢ハウスの売り物は各部屋にベッドやクローゼット、食器棚、システムキッチン等が備わっていることである。カーテンや掃除機、電気釜、食器類なども、必要なら無料で貸与している。玉川不動産の社長が作成した宣伝パンフレットには「旅行バッグひとつで、すぐに生活できます」といった宣伝文が盛り込まれていた。
 義父の作治がアメリカで何年か暮らした経験から、
「どうせ貸し家にするなら、アメリカ式に身ひとつで引っ越してきてもホテルのようにすぐ生活できるようにするといい」
 と提案したのだった。拓郎は反対したが、亜矢は義父の意見に賛成し、結局、中をとって、単身者用の部屋にかぎって家具調度をそろえることにした。
 雅也の部屋は入り口の左にある一〇一号室で、亜矢は納戸から前のひとが使っていたカーテンを取り出し、これは無料にした。
「横になれるところがあれば、それでいいんです」
 雅也はあくまで謙虚だった。部屋のガラス戸を開け中庭に目をやりながら、
「庭があると気持ちが落ち着きますね。マンションは便利かもしれないけど、やっぱり日本人なのかな、窓を開けると池があって庭が見えるというのが、とってもいいなア」
 感激の面もちでいった。

 暢気といっていいのか、あるいはいい加減なのか、拓郎はハウスの入居者について以前からほとんど関心を示さなかった。近所迷惑にならない人なら誰でもいいようで、玉川不動産とのやりとりや家賃の設定などすべて亜矢にまかせていた。
 本人の関心はもっぱら仕事だった。以前は二人の子供をよく可愛がり、休みの日など近くの公園に遊びにつれていったりしたこともあるが、最近では子供のほうが嫌がるので、そういうこともなくなった。
 今の時代、たとえ小さくとも、ひつとの会社を維持していくことの大変さは亜矢も知っているので、拓郎が仕事一筋にやっていることを評価し、
「根をつめすぎて体を壊さないでね」
 などと労いの言葉をかけ、インターネットの通販で買った黒酢や朝鮮人参のエキスなども飲ませたりした。家族や社員のため頑張ってもらいたいからこそ、そんな気をつかっていたのだが……。
 その裏で「髪の長い若い女」とつきあっていたなんて。
 まだ推測の段階ではあったが、そう思って拓郎の行動を観察していると、以前に比べ着るものに凝るようになり、若向きの装いをするようになった。食べ物の好みも変化し、以前は和風好みでハンバーグなど食べなかったのだが、駅前のハンバーグ屋で食べたりしているようだ。
 この日、拓郎は午後の一時ごろ帰宅した。急に一週間の日程で上海と広州に出張することになったと明るい調子で話した。上海に進出するデパートの宣伝戦略にかかわることで、
「うちとしては、大きな仕事になるかもしれない」
 興奮気味に話していた。まず長崎に飛び、地元のイベント業者と打ち合わせをし、そこから上海にいくのだという。
「よかったわね」
 亜矢はおざなりにいった。
「景気がなんとか底をついた証拠だ。この仕事をうまく仕上げたら、本格的に中国に進出するつもりだ。中国のコマーシャル業界はまだ子供の段階だ。我が社のノウハウをうまく伝えていけば、ビッグビジネスになる。大きく羽ばたくチャンスだ。これに賭けてみたい」
 拓郎の頬は興奮気味に紅潮していた。仕事に賭ける情熱や意欲は大変けっこうで、妻として側面から協力をしたいと思うのだが。
 映子から聞いた伊豆の温泉宿のことが、以前として胸の底に強いわだかまりとなって、たゆたっている。気軽に、あるいは冗談めかして、こんな目撃情報があるんでけど、まさかよねエ、などといって問い詰めてもいいはずなのに、なぜかそれが出来ない。なんでも言い合える仲の夫婦であったのに。
 なおも躊躇った後、亜矢はできるだけさり気ない調子でいった。
「あなた、わたしに何か隠していることない?」
「ないよ。どうして?」
「あなた、わたしと結婚するとき、こういったわよね。《夫婦っていうのは隠し事をするようになったらおしまいだ。だから、なんでも隠さず、嬉しいことも悲しいことも率直に話し合おうって》」
「なにがいいたいんだ」
「あなた、胸に手をあてて考えてみて。なんにも、ないですか」
「ないって、隠し事か」
「そう」
「あるはずないだろ。へんなこというなよ」
 言い捨て拓郎はスーツケースにスーツや旅行用具をつめると、腕時計を見ながら足早に玄関を出ていった。新しい入居者があったことを話す時間もなかった。
「亜矢さん」
 という声がした。振り返るとスーツにネクタイ、ソフト帽をかぶった義父が古い皮の鞄を手に立っていて、こういった。
「あんた、怖い顔している」
 亜矢は慌てて微笑をつくろうとしたが、かえって痙攣したように頬が強ばった。 

by katorishu | 2010-02-06 21:31 | 連載小説