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大人の童話 メロドラマ  その10

大人の童話 メロドラマ その10

 桜城女子大での講義中、亜矢は気持ちが集中できず、ラフカディオ・ハーンの怪談の話をしていたとき、突然、ハーンの日本名の「小泉八雲」という言葉が出なくなり、三〇秒ほど絶句してしまった。脂汗が背筋をつたい、目眩さえ覚えた。
 その日、アンデルセンの童話の研究会が学内であったのだが欠席し、地下鉄に乗った。
 丸の内線の本郷三丁目駅で下車をして、本郷通りを東大の赤門の方に一〇〇メートルほど歩いて二つ目の路地を左折した。
 五分ほど歩くと「プレステージ本郷」という名称のレンガ色のマンションが見えてきた。
b0028235_1163838.jpg  探偵事務所の調査報告書によれば、そのマンションの二〇三号室に「川上理恵」が住んでいるという。八階建てのレンガ張りのこぎれいなマンションで、道路に面してベランダがついていた。 
 道の反対側に立ち止まって亜矢は観察する姿勢をとった。ワン・フロワーに五室あるようで、二〇三号室というのは丁度真ん中になる……と思ったとき、その部屋のサッシのガラス戸が開き、白いセーターを着た背の高い女が出てきて洗濯物をとりこみはじめた。
 映子が話していたように長い髪が顔をおおい、痩せぎすである。
「川上理恵」
 であると亜矢は直感した。
 念のため、エントランスの郵便受けを確かめると、真ん中の二〇三号室に「川上」とマジックで記された紙が貼られていた。亜矢は一旦表の道路にでて、電柱横の看板に身を隠す姿勢をとりながら、二階のベランダをうかがった。
 女は下着類を手にとると、手で長い髪の毛をかきあげた。化粧気がなく、白いっぽい顔をしていた。意外にも目が細くのっぺりした印象で、女優の小雪などとは似ても似つかない平凡な顔立ちだった。
「この女」 
 亜矢は心に銘記するように凝視した。女が道路のほうに目をやったので、思わず亜矢は身を縮めた。女は再びそれが癖であるのか、長い髪を肌着をもった手でなであげながら、サッシの窓をあけて中にはいっていった。確かにスタイルがよく贅肉などなさそうであった。
 まだ洗濯物がのこっていた。男物の衣類がないか、亜矢は鋭く観察する視線をむけた。ジーンズのパンツがあったが、幅の狭さから見てどうやら川上理恵のものであるようだ。
 気配で振り返ると、自転車に乗った警察官が不審そうな目を向けていた。亜矢は思わず会釈をして、その場を足早に離れた。
 川上理恵にまちがいない女が、ごく平凡な顔立ちをしていたことで、安堵すると同時に、なにやら疎(うと)ましいものが胸の底にわいてきていた。自分の予想がはずれたことも口惜しい。せめて相手が「いいオンナ」であったら、まだ許せるのに。しょせん、拓郎はあの程度の、若さしか取り柄のない、バーゲンセールのブラウスのような女にしか相手にされない、つまらない男なのだ。そんな男と二〇年間も生活を共にしてきた過去が、膨大な無駄の堆積に思えた。
 拓郎は事務所に毎週のように泊まっていたが、本当はあのマンションに泊まっていたのではないか。

 気がつくと銀座の大通りを歩いていた。目についた四丁目の角の三越デパートにはいった。五万円の有田焼きの茶碗が目についたので、発作的にカードで買ってしまった。
 それで、ざわつく気分はややおさまった。買い物には心を癒す効能がある。デパートの玄関口から外へて交差点をわたろうとしたときだった。
 向こうから走ってきた若い男にぶつかり転倒した。とっさに手で体を支えたが、茶碗の包みがコンクリートの車道に落下した。
 カシャッと嫌な音がした。
 急いで横断歩道をわたり、包みを開けてみると、茶碗は割れていた。若い男はとっくに走り去っていた。
 物事が悪く悪く回転している。
 罠にかかった動物のようにもがけばもがくほど罠がしまってくるようだ。
 銀座線の表参道駅から田園都市線に乗りかえた。三つ目の三軒茶屋駅についた。亜矢の降りるべき駒沢大学駅はつぎであったが、三軒茶屋という文字が目にはいったとき、反射的に電車から降りていた。
 改札口を出て二六階建てのキャロット・タワーの方向に地下道を歩き、世田谷線の改札口の前で地上に出た。そのまま西友ストアーのビルの横を通りすぎ、茶沢通り方向に歩き、細い路地を右折した。古い家の柱などをうまく再生して使った田舎庵が、素朴なたたずまいで建っていた。
 暖簾をくぐってはいり、窓際の席にすわった。奥の厨房をへだてる一角がガラスになっていて、客席から手打ち蕎麦を打つ姿を見ることができる。普段はでっぷり太った禿頭の主人が打っているのだが、このときは、白い作業着に木綿の鉢巻きをまいた筋肉質の男が打っていた。出雲雅也であった。
 両手に全身の神経を集中させて、こね、のばす。ときどき打ち粉をかけて、水をそそぐ。作業に打ち込んでいる姿は、昔テニスの練習に熱中していた雅也の姿を彷彿させた。
 一見ちゃらんぽらんに見えながら、気持ちを定めると、対象にむかって錐をさしこむように一途に集中する。雅也のそんな姿勢は今も変わっていなかった。
 亜矢は、やや気持ちがなごむ気がした。
 盛り蕎麦を注文して食べていると、雅也が朱塗りの蕎麦湯をもってやってきた。
「いらっしゃい」
「あ、ごちそうになっています。いけますよ、これ」
「ありがとうございます」
 雅也は深く腰を折って挨拶をした。
 周囲に客の姿もなく、店の従業員もいなかった。雅也は蕎麦湯をテーブルに置きながら身をこごめ小声でこういった。
「亜矢さん、今度、ぼくにつきあってください」
 亜矢は思わず雅也の顔を見つめてしまった。出雲雅也から、そんなふうに誘われるとは思いがけなかった。
 雅也は目をそらさず、亜矢の心の動きをうかがっているようだった。見返しているうち、亜矢の脳裏に昔、横浜の山下公園でファースト・キッスをしたときの光景が浮き上がった。
 拓郎に対抗して出雲雅也との関係を深めることは、自分を拓郎と同じ舞台に置くことで、かえって自分を安く貶めることではないのか。一瞬、そう思ったのだが、すでに唇が震えていた。
「出雲くん、お休みはいつ?」
「基本的に休みはないんですけど」
「まったく休めないの」
「明日なら、なんとか」
「それじゃ、明日、横浜にいきましょう。いいわね」

by katorishu | 2010-02-10 01:19 | 連載小説