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大人の童話 メロドラマ その15

大人の童話 メロドラマ その15
 三月末の金曜日、午後の二時から「児童心理学」の講義があるのだが、雅也のことで気持ちが落ち着かず記憶の乱れが生じたのか、講義の時間を一時間近くまちがえてしまった。 なんだか自分の拠って立つ基盤が崩れていきそうで亜矢は怖くなり、SOSの意味をこめて映子の携帯にに電話をかけた。
「じつは私も亜矢に電話しようと思ってたところ。今渋谷なんだけど会いましょうか」
 映子は弾んだ声でいった。
 三月の末にしては汗ばむような暖かい日であった。ガラス張りのコーヒー店で、外を行き交う人々を見渡せる。映子はカルチャー・センターの文学講座で知り合った六〇歳の男と、もっか恋愛中だと嬉々として語った。b0028235_20514572.jpg
「年齢より一〇歳若いのよ。都庁のお役人だけど、定年でいっさい仕事をやめて趣味に生きるんだって。奥さんは五年前、病気でなくなっているの。その奥さんに、わたしが似ているんですって。趣味が広くて、資産家みたい。結婚しようなんて迫ってこないし、面倒じゃなくていい。アッチのようも、ばりばりの現役。一晩で二回もオーケーなの」
 そういうことをおおっぴらに語れる映子の屈託のなさ、敢えていえばおめでたさが、羨ましいと亜矢は思った。子供がいないことも、映子の気軽さを助長させているようだ。
「ご主人に悪いと思わないの?」
「べつに。結婚して二二年たつけど、一緒に住んだの半分もないもの。いまは札幌に単身赴任だし、彼は彼で適当にやってるんじゃないのかしら。人生は短いんだし、せいぜい楽しまなくちゃ」
 映子と別れたあと、デパートにでも寄っていこうと道玄坂のほうに歩きはじめたときだった。道路の向こう側を歩いている人物に目がいった。ラフな黒いブルゾン姿で、背筋がすっと伸びている。五分刈りに彫りの深い横顔。歩幅も大きめだった。
 出雲雅也ではないのか。
 亜矢は立ち止まり目を凝らした。まちがいなかった。こんな時間、どこへ行くのだろう。気がつくと亜矢はあとをつけていた。
 雅也は宇田川町の交番横を歩き、NHKのほうに歩いていく。周囲の店や街頭の有線から流れる音楽がうるさく、耳が痛い。尾行することに亜矢は後ろめたいものを覚えたが、雅也がどこへ行き、誰に会うのか確かめないと気がすまなくなっていた。信号のところで雅也は右に曲がった。そこからゆるい坂になっており、パルコのほうに伸びている。雅也は脇目もふらず確乎とした目的をもった人のように歩いていく。辺り一帯、聴覚が鈍磨した者に聞かせるような過剰な音量の音楽があふれ、太腿をさらした恵美ほどの年齢の女の子が熱帯の鳥のようなキーキー声を発しながら跳梁跋扈している。この界隈に職人風の雅也は似合わない。一体、どこへ行くつもりなのか。坂を二〇メートルほどいったときである。
「パパ」
 という声が空気を震わせた。雅也の脚がとまった。右手の路地から一〇歳前後のジーンズにセーター姿の少年が二人して飛び出し、何か叫びながらジャンプして雅也に飛びついたのだ。両側から雅也の腕にぶらさがるようにして、キャッキャッと声をたて明るく笑っている。
 あとから、小太りの女がゆっくりと雅也に近づいた。雅也の「元妻」にちがいなかった。丸顔でボブカットの頭をしており、年の頃三〇の半ばであろうか、目がくりくり動き愛嬌のある顔をしていた。彼女は雅也に近づくと、すっとブルゾンの襟についたゴミをとった。ごく自然な仕草だった。
 それから、雅也を中心にして四人は肩をよせあうように坂の上に向かって歩き出した。雅也の隣に「元妻」がならび、両脇を二人の男の子がかためる形だった。どこから見ても仲の良いファミリーそのもので、他人が割ってはいる余地などはない。
 亜矢はあり得ない光景に接している気がした。とっさにこれは夢のなかの出来事である、と自分自身に言い聞かせた。夢ならさめる。さめて欲しい。しかし、さめる気配もなく、四人は横一列に並んで歩いていく。幸せな人の歩みは早く、幸せでない人の歩みは遅い。亜矢は早く歩こうとするのだが、足がうまく動いてくれない。
 四人との距離を縮めようと歩幅を大きくしようとしたとき、不意に腿のあたりにしびれがきた。同時に目に映る風景が陰画フィルムのように白茶けて見えてきた。胸の動悸が激しくなり額に冷や汗がにじんだ。負けずに一歩を踏み出そうとしたとき、頭の芯に鈍痛がわいた。このまま、頭がおかしくなってしまうのではないか。立っていることに耐えられなくなった。意識が薄れ始めたとき、右手から誰かが支えてくれた。
「ダイジョブデスカ」
 北欧系の白い肌に鼻の高い長髪の男で、年のころ四〇前後であろうか、すでに亜矢の肩を優しく抱くような姿勢になっていた。男の背景は動きが止まり書き割りの絵のように見えていた。
「ありがとう」
 というつもりが、
「タスケテクダサイ」
 という言葉になっていた。一気に体が男のほうに傾いた。そこから先の記憶が薄れている。気づいたとき、すでに黄昏れていて、亜矢は池のある公園のベンチに一人座っていた。隣に座っている紺絣の着物を着た白髪の老女に、ここがどこであるかを聞くと、老女は池の面を見つめたまま、
「松濤公園です」
 といった。妙にしわがれた声だった。水面が乱れスーッと黒い影が走った。周囲が暗くなったが、ベンチのあたりには外灯の光があたっていて比較的明るかった。白髪の老女がこっちを向いた。目も鼻も口もないのっぺらぼーの女だった。亜矢は叫び声をあげようとするのだが、声が喉でくぐもってでてこない。身体的な恐怖を覚え、何かに全身をぶつけた。どこか遠くから声が聞こえた。
「あ、気がついた」
 ゆっくりと視界が晴れてきた。顔が見えた。女だった。老女ではなく若く艶のある肌をしていた。
「恵美……」
「ママ、だいじょうぶ」
 恵美が心配そうに覗きこんでいた。どうやら、病院のベッドのようだった。

 恵美の説明によると、亜矢は恵比寿駅近くで倒れ、救急車で病院に運び込まれたのだという。恵比寿は山手線の駅であり、渋谷駅の隣の駅になる。亜矢にはそこまで歩いた記憶がなかった。もっていたハンドバッグは近くの公園で発見されたが、四万円ほどの現金が入っていた財布はなくなっていた。
 CTスキャンをとり、MRI(磁気共鳴装置)の検査をしたが、特に異常はないということであった。抗生物資の投与をつづけたものの三九度前後の高熱が続いた。二日病院に泊まり、駒沢ハウスにもどった。
 恵美に聞いた範囲では、その間、出雲雅也は駒沢ハウスにもどらなかったようだ。夫の拓郎は一度帰宅し、
「だいじょうぶか」
 と声をかけてくれたが、重要な仕事で飛騨高山にいく必要があるといって、四輪駆動車で出て行った。
 三日目の朝、ようやくベッドから起き上がることができた。しかし、頭の中が白濁していて思考がまとまらず、断片的な光景が浮き沈みしていた。光景の芯の部分に出雲雅也の顔や歩く姿態があった。雅也と家族を追っていこうとしてから病院にはいるまでの記憶を、どうしてもとりもどすことができなかった。
 熱がさがったので、階下のリビングにおりていった。絨毯が濡れているので、一郎にきくと、
「おじいちゃんがもらしてしまったみたい」
 といった。台所から雑巾をもってきて亜矢はお漏らしのアトシマツをした。このごろ義父は頻繁にトイレにいくので、尿の濃度が薄まっているはずであったが、鼻につんとくる不快な臭気は変わらなかった。そのことが妙に腹立たしかった。義父の作治がはいってきた。
「なにやってんですか、もう、いい年してエ」
 思わず罵倒する声が亜矢の口からほとばしってしまった。作治は最初ひどく怯えソファの背を手でつかみ防御の姿勢をとっていたが、テレビの横にあった木刀を手にとると、両手にかまえて亜矢に斬りかかる姿勢になった。作治の顔がグンと拡大され拓郎の顔に重なって見えてきた。負けない。負けたら負け、と思った。作治が一歩踏み出した。とっさに亜矢はテーブルの上の厚いガラスの灰皿をつかんでいた。もしそのとき、娘の恵美がはいってこなかったら、どんな惨事が起きていたかわからない。
「ちょっとオ、二人とも、なにやってんのオ」
 恵美の悲鳴に似た声で、作治はハッとしたように動きをとめた。そのままの姿勢で凝固してしまったようだった。恵美は静かに木刀を作治の手からとった。作治は途端に腑抜けたような顔になった。亜矢は床にへたりこんでしまった。フローリングの床が大きく波を打つような目眩を覚えた。
 今、我が家は土台がシロアリの波状攻撃を受けたように根底から壊れはじめている……。

(人形制作:箱石潤子)
by katorishu | 2010-02-18 20:53 | 連載小説