雑感、眼鏡は体の一部
2010年 04月 09日
■結局、眼鏡はみつからず。ぼくにとって眼鏡は他の物とは意味がちがって、体の一部のようなもの。目を酷使する仕事なので、用途に応じて常時、3つか4つの眼鏡を使っている。肌身離さずもっているものなので、これがなくなることは痛い。本日、昨日立ち寄ったところに電話をいれたが、なしということ。
■代用できる眼鏡もあるが、その眼鏡でなければ、というモノもある。昔の作家が、たとえば桝屋製の原稿用紙でないと書けないといったことがあったが、それと似たところがある。一般的に物書き職業の人はデリケートで、感受性が強く、好悪の感情も人一倍強い人が多い。従って他の人には、どうということのないことが、ひどく気になり、強くこだわったりする。
■本日は予定を変更して、人には会わず、自分の世界に閉じこもって仕事。が、眼鏡があっていないので、長時間続けられない。たかが眼鏡であるが、されど眼鏡である。以前「たかがテレビ、されどテレビ」といった放送人がいたが、今、テレビメディアを、情報の発信装置として深い思いをもって批判精神をもって関わっている「テレビ人」には、ほとんどお目にかからない。
■そういう人が生きる環境ではなくなったということである。日本の行く末もふくめて、いずれ「時間が決着をつける」ことになるだろう。愚かな者、それは人間である。多分、人類という生き物の「奇形」は、知恵をもったが故の愚かさをかかえて、滅亡への道をたどるのだろう。年齢からして、その行く末を見ることなく、あの世へ旅立つことになる。それが、むしろ「幸福」と思えてくる世の中である。