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古今亭志ん彌師匠の落語は、艶っぽく、名人芸の域に達している 

 7月25日(木)
■池袋演芸場で古今亭志ん彌の一人会を聞いた。二人会には何度もいっているが、志ん彌さんの一人会は初めて。浮世床ほか2題で、それぞれ名人芸であったが、なかでもぼくには浮世床が艶っぽく、笑えて特に面白かった。志ん彌さんはぼくの見るところ、落語協会所属の落語家のなかで落語の「芸」において上層の1割にはいる逸材であると思っているが、マスメディアにはほとんどでないので、一般には知られていない。別にマスコミが嫌いではなく、出る気は十分あり、ぼくも志ん彌さんのために番組企画を考えたのだが、あと一歩というとことで実現しなかった。こういう芸をもった人がなかなか「浮かばれない」世の中である、と志ん彌さんの芸に接して改めて思う。

■落語はひとりでなにもかも演じて、ひとつの世界をつくりだす。絵が鮮やかに浮かび、笑って癒やされる。志ん彌さんは確か「落語は心のマッサージ」ということを以前からいっていたが、もっと落語が一般に普及して欲しいものだ。池袋演芸場はほぼ満席であったが、お客の年齢層は高い。若い人を誘っていったが、あとの懇親会で感想を聞いたところ、彼は大変面白かった、すごいと思ったと語っていた。若い人のなかには落語というと古色蒼然と思っている人もいるようだが、そんなことはない。若手の落語会には若い人もかなり足を運んでいるようだが、古典落語を本来の味わいを維持して「語り芸」の妙や冴えを見せて(聞かせて)くれるベテランの落語にぜひ接して欲しい、とあらためて思ったことだった。

■終わった後で、演芸ホールの上にある居酒屋で歓談した折、「巌流島」の話をだすと、「あれは直球であった」と。その場には志ん彌ファンが何人かいたが、「巌流島」は聞いていないようだった。名人芸の持ち主でも滅多にできるものではない。落語はライブなので、その場にいなければ真骨頂は味わえない。ビデオで撮ったものを見ることもできるが、ライブの落語とビデオ等におさめたものは似ているが別物である。音楽など以上に落語は「生」つまりライブでないと真価を味わいにくい。

★本日『昭和エロ・グロ・ナンセンス:演劇編』第2回本日アップされました。朝日新聞WEBURONZAのスペシャルコーナーです。
以下出だしの部分です。b0028235_125838.jpg

第2次カジノ・フォーリー

 三度目の正直という言葉がある。ビジネスでも恋愛でも何か新しい試みや事業でも、最初の新しい試みがそのまま成功に結びつくことは希であり、新しい試みはたいてい失敗するものである。失敗をかさねつつも粘りに粘った結果、幸運も作用して成果がでる。

 国運隆盛で好景気、高度成長の途上にあるときならともかく、関東大震災後の日本は東日本大震災後の日本と同様、不景気風が吹き荒れ、倒産や失業、自殺などがあいついだ。当時の新聞を見ると、倒産、失業、母子心中、窃盗、放火、強盗等々、暗鬱で不安をかきたてるようなニュースのオンパレードである。東北などの農村では天候不順で不作がつづき、借金のカタに田畑をとられたり、娘を身売りする農家が続出した。

 人は先行き不安の空気のなかで、じっと耐えているだけではすまない。時代閉塞感が強まり鬱陶しい空気が充満すればするほど、それをお手軽に吹き飛ばす娯楽、慰めが必要となる。都会の盛り場を中心にカフェーが異常な繁殖ぶりをしめしたことは第1章で紹介したが、その恩恵に浴する人はごく一部の男子である。庶民のなかに、さらに新しく新鮮な娯楽を求める欲求がたかまりつつあった。

 第1次カジノ・フォーリーは2カ月で閉鎖されたが、この種の新しいものを求める人たちは確実に存在しており、欲求不満が一種の飽和点に達していたといってよい。


以下のURLで入っていただければ、無料でも半分ほど読めます。
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2013072500006.html?iref=webronza

以上PRでした。
by katorishu | 2013-07-26 12:06 | 映画演劇