割り勘
2005年 03月 23日
仕事がら幅広いつきあいをしていることもあって、毎週のように芝居やイベント、催し、セミナー、勉強会等々の案内があり、そのどれにも参加すればそれなりの知識、情報jを得られ、新しい交友関係も生まれるのだが、すると自分の時間がなくなってしまう。
金銭上の出費もばかにならず、財布はすぐ空っぽになる。
本日、遅ればせながら確定申告書をだしに世田谷税務署にいく。この時期に出すひとは少なく、年金生活者や主婦などが広い部屋にちらほら。
はいってくるものが情けないほど少ないので、原稿料の源泉徴収で天引きされたものがもどってくる。考えてみると、去年「仕事」をしたうちの7,8割は「ボランティア」か「ボランティア料金」である。4人の学生の卒論を担当したが、これも無料奉仕。
のべつまくなしに脚本を書いていたころは、それなりの収入があり、かなり鷹揚にものを買ったり、「ここは俺が払う」などといって、かっこうをつけてよく人におごったりしたが、最近はそういうこともしなくなった。人と飲むときは大衆酒場で割り勘である。
昔、20代のころ、静岡県に住む作家の小川国夫さんがときどき上京する折り、小川さんをよく知る友人ともども、神保町あたりで一緒にあって飲み食いをした。当時、小川さんは40すぎで、自費出版した「アポロンの島」が、島尾敏雄に朝日新聞の書評欄で激賞され、文壇にデビューしていた。
実家が裕福な旧家で、その年までほとんど仕事をしたことがなく、夏目漱石のいう一種「高等遊民」の生活をしていたのではないか。ぼくなど、その境遇に羨望していた。
小川さんは東大を中退してパリのソルボンヌに留学した。今とちがって、パリに留学するなど、じつに珍しい時代のことだった。
ハンサムでいかにも育ちの良さを感じさせる小川さんは、敬虔なカトリックでもあった。
一緒に飲み食いするとき、学生など若い人の分を払うなどということは決してしなかった。
当時は、「年功序列」が社会に浸透しており、年上の人と一緒に飲み食いするときなど、年上の人が払うのが一般だった。ぼくも勤めている組織の上司からよくおごられた。
しかし、小川さんは常に「割り勘」であった。そのかわり、偉そうな態度は決してみせず、ぼくなどの「青二才」をまるで友のように遇してくださった。
パリに留学していたころ、一人でバイクに乗ってギリシャやパレスチナなどを旅行した折りの話などをされた。黒いズボンで、白いワイシャツを腕まくりしている姿が、印象に強く残っている。
ぼくの最初の小説集『隣の男』の帯は小川さんが書いてくださり、短編小説作家としての「才」があるともちあげてくださった。非常に愛情のある書き方で、その後、どれほど励みになったことか。今も大事に保管してある。
「あの作が、香取の文学の原点だね」と今も人からいわれる。
来週、明治学院大学で椎名麟三の32回「邂逅記」が行われる。知人の放送作家の津川泉氏が毎回、案内状を送ってくれるのだが、これまで一度も顔をだしていなかった。
今年は、小川国夫さんが講演をするというので、ぼくは参加の葉書を送った。津川泉氏他、文芸評論家の富岡幸一郎氏らが世話人になっている。富岡氏と会うのも、10数年ぶりか。
椎名文学は『美しい女』や『深夜の酒宴』『懲役人の告発』などを読んでいるだけだが、独特の、乾いているようで湿った雰囲気をもつ奇妙な味のする文体で、戦後文学の隆盛のなかで、独特の輝きをはなっていた。舞台脚本も確か書いていた。
姫路鉄道の乗務員をやりながら小説を書き、文壇に登場した。「第一次戦後派」を代表する作家で、クリスチャンでもある。
今は、椎名麟三といっても、何者であるか知らない人が圧倒的に多いのではないか。
こういう貴重な文学者が忘れられてしまうことは、残念でならない。