万物の霊長という困った存在
2005年 03月 28日
以前、三軒茶屋で異様と思われる光景を目にしたことがある。
キャロットタワー横の通りにでたとき、世田谷通りのほうから、若くスタイルのいいモデルかと思われる女が早足で歩いてきた。焦点があった瞬間、ぼくは強い違和感を覚えた。彼女は歩きながら箸をつかって幕の内弁当を食べていたのである。
スタイルのいい女性で姿勢をすっとのばしているのだが、白昼、幕の内弁当を食べながら歩く若い女性など、これまでの日本では「あり得ない光景」だった。
ハンバーガーなどを食べながら歩くのが普通になった時代だから、幕の内弁当を箸で食べながら歩いていても不思議ではないのかもしれないが、歩きながら箸をつかって食べるという「作法」はこれまでの日本文化にないものだった。
あるいは彼女は日本人ではなかったのかもしれないが、最近、抑制というかタガがはずれてしまったとしか思えないような人が増えている。
他人に迷惑をかけず法律に違反していなければ、基本的に何をやってもいいともいえるのだが、ひとつの民族が伝統文化として長い時間をかけて培ってきた「礼儀」とか「エチケット」というものがある。時代とともに、そういうものも変わっていくものだとしても、あれはいただけなかった。ぼくだけでなく、強い違和感を抱いた通行人は多かったはずである。
しかし、こんなことに驚いていてはいけないのかもしれない。なにしろ、渋谷の繁華街では、高校生ばかりか中学生までが「援助交際」という名の売春を堂々とやる時代である。彼女たちに罪悪感はあまりないようだ。貧窮し、生活のために体を売るというのなら、まだわかるが、遊ぶ金や携帯料金のために、いとも簡単に体を売り、そのことを別に恥ずかしいとも思わない。
やっぱり、こういう人間の行動を認めてはいけない。青少年なんとか条例があり、ときどき教員などが捕まるが、法律があるとかないとか以前の人間としての「品位」の問題である。
ところで、動物には金銭がないので、そういうことはしない。動物には過剰な「欲望」もなく、自然の摂理、道理にしたがって生きている。
過剰な欲望は、想像力をもち、社会をつくり、金銭という装置をつくりだした人間だけがもつ性向のようであるが、よくよく考えてみれば奇矯なことである。
人間は歪んだ動物であり、地球のほかの動物から見たら「悪魔」のような存在でしかない、とあらためて思う。
そういうことを強く認識したところから、宗教なども生まれたのだろうが、一部の宗教は自分たちと異なる価値観をもつものを排除し、差別し、かえって悪魔性を助長するようなこともしている。
もちろん、自分をも含めてだが「万物の霊長」である人間とはまったく困った存在である。