ラジオで聞くテレビ
2005年 04月 02日
エイプリル・フールであるが、とくに嘘をつくこともない。以前は「四月バカ」といったが、最近ではこの言葉を使う人もいなくなった。映画のタイトルなども、英語をそのままカタカナ表記することが多くなった。
以前は洋画輸入会社の社員にとって、どういう日本語タイトルをつけるかが腕の見せ所であった。40年ほど前『会うときはいつも他人』などという映画があったが、タイトルが何よりもいいと思った。『見知らぬ人でなく』や『勝手にしやがれ』などもいいタイトルだった。言語の意味をそのまま直訳しているものと、日本語の特性を生かして思い切って意訳してつけたタイトルもあり、後者のほうが秀逸なものが多い。
本などもそうだが、買う買わないの基準としてタイトルの比重は案外大きいのではないか。タイトルは人間の顔のようなもので、作品の成否を決めてしまう場合もある。
ところで、最近ぼくはテレビをあまり「見ない」。といっても1日平均、1時間半程度は見ているが、テレビは「見る」のではなく「聞く」場合が多い。
喫茶店などで仕事をするとき、ラジオを聞きながら執筆をすることが多いので、そうなるのである。ラジオやテープで音楽を聴くこともあるが、ラジオでテレビのニュースなどをよく聞く。
それで驚くのだが、テレビがいかに喧噪に満ちたツールであることか。ラジオなどと比べても格段に、うるさい。
コマーシャルもうるさいが、それ以上にうるさいのが、例えばワイドショーなどで、やたらとこけ脅かしの音楽を背後に流すことだ。視聴者の気をひこうという魂胆があるのだろうが、うるざりしてしまう。
以前は、こういうことはなかった。私見によれば、生まれれたときからテレビがあり、テレビを子守歌のようにして育った世代が、現場で力をもつようになってから、やたらとうるさくなったという気がする。
彼等は、静かに表現すると視聴者が逃げていってしまうという固定観念にとらわれているようだ。内容が充実していれば、決してそんなことはないのだが、やっつけ仕事で内容にあまり自信がないから、こけ脅かしでうるさく扇情的な音楽をがんがん流すのだろう。
若い人を中心に、聴覚に障害をきたしている人も増えているとの報告を以前なにかで読んだことがある。ウオークマンの出現も、その傾向に拍車をかけているのだろう。
沈黙が怖く、家にいても、店にや街頭や電車の中にあっても、常に音楽が流れていないと物足らず不安になるようだ。
じっさい帰宅すると、すぐにテレビをつける人が大半ではないのか。静かにしていれば都会にあっても、そこはかとなく聞こえてくる音がある。前の通りを歩く人の足音、猫の鳴き声、雀のさえずり、風の音、雨の音、海や川の音……等々、自然の生活のなかで聞こえてくる音があるはずで、そんな音に、しみじみ耳を傾けることで、自然や風土の中に生きる自分というものを意識し、再確認したりできるのではないか。
目覚めているとき終始、音づけにされていないと落ち着かないのでは、ものを深く考えることもできないだろう。その類の人間は一種、強迫神経症にかかっているのではないか。
ためしに、ラジオでテレビを聴いてみるとよい。こんなに騒音に満ちた装置であったのか、と一驚するにちがいない。