届く言葉 7
2005年 04月 19日
届く言葉 7
★「イギリスにこういう諺がある。年寄りの語りぐさは、最初は非常に真実に近い話をするけれど、つぎに話すときは尾鰭がついて、一〇回目になると、最初の話とぜんぜん別のものになってしまう」 『マッカーサーが探した男』(香取俊介著・双葉社刊) 浜本正信氏の言葉。
取材時、浜本氏は80代後半であり、本が出来たときはすでに亡くなられていた。ハワイで幼少期をすごし、刻苦精励してアメリカの名門、ハーバード大学に入学。卒業後は、日本にいき、ジェネラル・モーターに入社、アジア支社をまかせらるほど頭角をあらわしたが、中国に駐在していたとき、真珠湾を日本海軍が奇襲して、日米戦がはじまった。
ジェネラル・モーターは「敵産」として日本に没収、浜本氏は職を失った。アメリカのスパイの嫌疑を避けるため、敢えて帝国陸軍に志願し、内閣嘱託としてフィリピンに派遣される。
軍政を敷いた日本軍が樹立したラウレル・フィリピン大統領の特別補佐官となり、日本軍とフィリピン政権との間で調整役として活躍した。
その後、敗戦をむかえ、日米両国語に通じていることから、アメリカ軍による山下奉文大将の軍事裁判の通訳としてかりだされた。
この間、戦争末期、東京で開かれた大東亜会議に東條首相の通訳をつとめた。日本とアメリカ、フィリピンの三国の間で、権力の中枢の人間と身近に接するという数奇な人生を生きた人だ。帝国陸軍の中で犬猿の仲であった、山下奉文と東條英樹の双方から気にいられたというのも面白い。
「生きている人間はわしの言葉に反論もできるけれど、死んだ人間はわしが何をいっても反論できない。だから、わしは死んだ人のことはあまり語りたくない」というのが浜本氏の持論で、墓場までもっていってしまったことも多いはずだが、昭和史の生き証人として貴重な方だった。
日比谷の東京會舘が好きで、何度も取材場所として東京會舘の二階のグルニエを指定してこられた。
取材時、「日本の軍人は大人じゃないね」とぽつりと語った言葉が印象に残っている。