寒い日々
2005年 05月 15日
東京は肌寒い一日だった。江戸時代であったら、凶作で飢饉が心配される気候だろう。
渋谷に出て、ルノアールに5時間こもって執筆作業。ひとつの喫茶店に5時間というのは、いくらぼくでも珍しい。渋谷には何件もルノアールがあるが、南平台方向にあるここは若者がたむろする一角と違い、いつもすいている。とりわけ本日はすいていた。
あそこは普通の喫茶店より値段が高めだが、緑茶のサービスがあり長時間ねばっても嫌な顔をされない。
インターネットで調べていた映画を見るつもりで某映画館にいったが、土日は19時半、最終上映とあったのに、本日から30分早まり19時開始だという。途中から見たのでは感興がそがれるので、やめにした。
この映画を見るため渋谷まで出かけたのに。幸い、自宅から歩きをいれても20分以内で行けるからいいようなものの、わざわざ遠方からやってきたら、腹がたつだろう。単館上映の作品なので、インターネットを見て、その時間に見るため一時間以上かけてやってきた客もいるのではないか。
イラク情勢は混沌として出口が見えない。一方、北朝鮮は核兵器を開発して、最悪の場合、東京を核攻撃することもありうる。国内に目を通せば、国家財政はすでに破綻。モラルの低下、隠微な犯罪の増加、一握りの「勝ち組」と多くの「負け組」とやら。
明るいニュースとよべるものが実に少ない。この社会がどこへ向かうのか。トヨタ自動車が記録的な好況のようだが、先行き、明るい材料は少なすぎる。
「みんなよく生きていると思います」と太宰治は書いた。ぼくも思う。みんなよく生きていると。これだけの過密社会である。よくぞ、秩序だって人は生きていると、驚き、あきれるくらいだ。
ぼくの子供時代、もっと人はおおらかで、素朴で、アバウトであったという気がする。もちろん、陰険でケチでこざかしい人間も数多くいたが、大半は善良だった。
昭和30年代以降のことだが、電車に乗って網棚に荷物を置いて居眠りをしていても、盗られる心配もなかった。 今、網棚に荷物を置いている人は少ない。ぼくも置かない。
喫茶店でトイレにいくと、「手荷物をもってお入りください。盗難が多いので」といった表示が出ている。10年ほど前までは日本では見られなかった現象だ。
グローバリゼーションの結果、犯罪なども国境の壁を乗り越えてはいってきた。それだけでなく、どこか規範がゆるんでいる。モラルが崩れている。安心して生きることがむずかしい社会。依然として自殺者数が3万を超えている。
中国は経済発展の結果、自殺者数もうなぎのぼりで、去年一年間に28万人が自殺しているという。おぞましくも、恐ろしいことである。
近いうち、ぼくらの想像を超えた惨禍がこの社会を襲うという予感から無縁になれない。