コラム


by katorishu
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

プロ野球スト

9月17日のテレビ朝日の「報道ステーション」では冒頭から30分以上にわたって、プロ野球スト問題をあつかっていた。ぼくはとっくに日本のプロ野球など見限ってしまっているので、どうでもいいのだが、この事件は日本社会に地滑り的に起こりそうな変化の予兆ともとらえている。
 旧態依然とした「既得権益層」に対する「反乱」とまではいえないにしても、当事者の選手会がノーを表明したことの意味は重い。新聞各紙やテレビなども、おおむね選手会の肩をもち、球団側に批判的だった。そんな中で読売新聞の18日の社説だけは、ストを決行した選手会に批判を加えており、トンチンカンぶりが際だっていた。

 この問題の根っ子にあるのは、いうまでもなく「読売ジャイアンツ」問題である。日本テレビを傘下におく読売新聞社が、おのれの業績拡張のため最大限、ジャイアンツを利用し、偏重し、日本のプロ野球界をゆがんだものにしてきたことは明白である。テレビ中継でのジャイアンツ戦への偏り、ドラフトでの専横……等々、「純粋なスポーツ精神」の対極にある。
 読売新聞、とくにトップにたって独裁権力をふるった渡辺元社長の驕りの責任は重い。

 ぼくの子供時代、昭和の20年代であるが、プロ野球は文字通り「夢」であり「希望」の象徴のようなものだった。紅梅キャラメルというのがあって、なかに巨人軍の選手の写真がはいっている。ナインのレギュラー9選手と、水原監督を1枚集めると、野球用具がもらえた。何10、何100箱も買った末に、野球のバットをもらったときは、嬉しくて眠れなかった。
 市の商工会議所に巨人軍に川上や青田、大下……などの名選手がやってきたことがあるが、一目見ただけで、ぼくは興奮し、胸に熱いものがたちのぼった。
 まだ日本が貧しかった時代、子供ばかりでなく大人にとっても、プロ野球は映画と並んで最大の娯楽であり、夢であった。
 それがダメになってしまった契機は、テレビでの巨人戦中継の偏重からである。視聴率が20パーセント以上だとかいって関係者は喜んでいたようだが、なんで巨人戦ばかり放送するのか。腹立たしさを通り越して、あきれてしまった。あさましくも、おぞましい光景として眺めていたが、やがてテレビのプロ野球中継そのものを見なくなり、プロ野球にまったく興味を失った。

 プロなのだからビジネス論理を無視できないことは充分わかるものの、読売のやっていることは、私利私欲以外のなにものでもない。確かに一私企業ではあるが、すでに野球は日本の「文化」の一翼をになっているのであり、一私企業の専横で左右されるべきものではなくなっている。
 読売の専横で、野球が面白くなれば、まだ許せるとして、現在、日本のプロ野球はどんどんつまらなくなっている。それでも、日本人というのは人が良いというのか、ナイーブというのか、よくも巨人戦につきあってきたものだ。
 各チーム力を拮抗させ、人間の能力の限界にいどんだ超人的プレーなどを見せてこそ、プロである。「常勝巨人軍」などという言葉を、よく恥ずかしくなくいえたものである。
 元々は巨人軍ファンであったぼくでさえ、そう思う。これで球団側、オーナー側は反省して謙虚に出直す気持ちにならなかったら、プロ野球は衰退の一途をたどることだろう。
# by katorishu | 2004-09-18 22:29 | Trackback 道草日誌 テスト 編集 | 削除
9月18日。午後1時、起床。床のなかで「言論統制」(中公新書)を30ページほど読む。「情報官・鈴木庫三の教育と国防国家」というサブタイトルがついていて、中身が濃く、戦前の言論統制の内側が透けて見えて、大変、興味深い。
貧苦の中かで刻苦精励していきてきて、生真面目で、国の前途を憂える一種の憂国の志士なのだが、一種の宗教者のように、ある観念に固まって、そこから一歩もでることができない。努力家で、真面目、一筋……といった性格は、プラスの面であるはずだが、同時にそれが硬直化した場合の怖さも、感じないわけにはいかない。
by katorishu | 2004-09-19 00:28