「自由業」という名の「不自由業」
2004年 09月 21日
人を管理したくもないし、されたくもない。まさに「自由業」であるが、これは今のような世の中になると、かならずしも自由で楽な生き方ではない。
学生時代の友人で50歳をさかいに日本での仕事を一切やめてマニラに移り住んだS氏が、「自由業とは不自由業なんだよね」といつかいっていた。いわんとするところは「仕事をほされる自由」「お金がはいってこない」つまり「貧乏になる自由」も充分すぎるほどあるということだ。
ぼくは「日本放送作家協会」というところに所属している。放送に関係する台本などの執筆を主な仕事としている人の集まりで、一種の「貧乏」文化団体である。一定の業績があり会員2名の推薦があれば、月に会費1000円で誰でも会員になれる。会員は現在1000人前後いるが、このうち「文筆」で「食べられる」だけの仕事を常時している人は(平均的サラリーマンの収入を得ている人)、おそらく3分の1もいないのではないか。
金銭という面から考えたら、労多くしてむくわれない仕事である。出版不況の折り、活字の分野で「文筆」を業としている人も大同小異だろう。業界の実態を知らない人は、本を出したり、テレビ画面にクレジットで名前が出たりするので、「さぞ、おいしい思い」をしているにちがいないと考えているムキも多いようだが、実態を知ったら唖然とするにちがいない。
活字の分野でも映像の分野でも同じだが、「良心的で」「誠実な」仕事をすればするほど、収入は低下し、「やっと食べている」という人が、ほとんどである。
一握りの「売れっ子」が目立つので、「優雅な印税生活」などと冷やかす人もいるが、それは実態をまったく知らない人の言葉である。
分野はちがうものの、ひところ「日本映画監督協会」の会員の平均年収が300万円であると、ある監督から聞いたことがある。多くの作家、脚本家も、その程度のものである。組織で保護されている人たちのほうが、はるかに「高給」をはんでいる。
そんな「自由」という名の「不自由業」ではあるが、仮にもう一度生まれてくるとしたら、ぼくは、また「文筆業」を選ぶにちがいない。まちがっても、毎朝ネクタイをしめて同じ場所に通う仕事にはつかないだろう。
例えば小説。仕上がった結果の出来、不出来はともかく、すくなくとも書いているときは自分が世界の中心におり、一種「神の立場」にたって「一つの世界」を創造している。時間を忘れるほど熱中することもあり、そういうときは「もう一つの現実」に立ち会い、その世界を「生きて」おり、人物とともに怒り、泣き、喜んだりして、興奮する。
いつもそういう状態にあるわけではなく、その場にふさわしい文章や台詞が出てこずに、呻吟し、冷や汗をかき、懊悩するのであるが、壁を抜けて瞬間、作中人物になりきることがある。そんなときは筆が走り、精神が高揚する。たまさか訪れる、あの瞬間は、なにものにも代え難い。それと完成したときの達成感。
よく役者と乞食は三日やったらやめられないといわれるが、作家にもあてはまる。もっとも、ある程度、自分の思っていることを自分の好きなように書ける限りであるが。
ひたすら自分を殺して「注文主」の気にいるよう、気にいるように……と書いていたのでは、よほどの収入をもらわない限り、割にあわないし、ストレスも多く、文字通り「割に合わない職業」である。
別途収入や不労所得があるひとは別だが、筆一本で「食べて」いる人は、注文主の意向を無視することは直ちに「無収入」に直結するので、意向にそった方向で書きながら、随所に自分の書きたい要素をいれていく。自分の書きたい要素こそ、その作家の個性であり、持ち味なのだが、そちらを前面に押し出すと、おうおうにして注文主とぶつかる。そのへんの微妙なせめぎ合いは、体験した人でないとわからないかもしれない。
もっとも、一握りの「売れっ子」は別で、とにかく「我が儘」がきくので、自分の書きたいものを書きたいように書ける。
ただ、「売れる」ものを数多く書く人は、今の時代、なにを書けば売れるかを、よく知っており、自然に「消費者」の意向にそって書く「クセ」がついているようだ。
本当は自分の切実に訴えたいもの、書きたいものを最優先で書くべきなのだが、「職業」となると、そうもいかない場合がある。何十人もの個性がかかわる映画やテレビドラマなどは特にそうで、いろいろな条件、注文にがんじがらめにされて、極めて不自由さのなかで書くのである。
あれもだめ、これもだめ、と手かせ、足かせをはめられて、それでも限られた条件のなかで何を表現できるか。ぎりぎり追求して思いがけぬ効果をあげたとき、そこに喜びも生まれる。
そんなことに喜びを見いだせないひとは、プロの文筆家にならないほうがいいだろう。
サービス精神などを一切排し、「自分の書きたいものしか書かない」と断言している人もいるが、皮肉なことに、それで傑作ができるかとなると、必ずしもそうでなはい。
世界的な文豪のバルザックやドストエフスキーがある時期、借金返済のために短期間にしゃかりきになって書きに書いた。つまり「お金」のために書いたのだが、それらの作が駄作かというと、そんなことはない。
じつは書く上の動機や経緯などは、どうでもいいのかもしれない。要は書き上げた作品が面白いか、面白くないかである。「面白さ」の定義はむずかしいが、「面白くなさ」の定義は簡単である。それを読んだ(見た)人が、「ああ、時間を無駄にした」と思えるような作である。もっとも、人によって面白さの位置づけが違うので、ややこしい。
25年近く文筆業をやってきたが、他人の感ずる「面白さ」の意味をはかりかねる。ぼくの作に限っても、ある人の面白いと思うところが、ある人にはつまらない部分であったり、作品の評価はわかれる。願わくば、ぼくの「面白い」と思う部分を面白いと思ってくれる、編集者やプロデューサーや監督などと組みたいものだが、これがなかなか一致しないことも多い。
かくて「不自由」さという重荷からなかなか解放されない。