ボランティア活動の難しさ
2005年 10月 29日
14時より六本木の放送作家協会の理事会。「自己犠牲的な」ボランティアの問題点について、やや議論が沸騰した。難しい問題である。
ボランティア活動は結構なことなのだが、関わっている作業が次第に重みをまし、当人はボランティアでも他のひとはそうでない場合がある。ボランティアだから、これ以上は関われないとなると、そこから作業が進まなくなり頓挫しかねない。するといろいろと問題が派生する。そういうリスクを避けると結局「何もしないこと」が良いということになってしまう。
放送作家協会の活動は基本的にボランティア活動なのだが、脚本アーカイブズなどはやがてボランティアではすまなくなる。そのとき、どうするのか。膨大な赤字が出たりボランティアの限界を超えて相当の時間がとられたりすると、自分はなぜこんなことをやっているのかという疑問も生じる。だからといって、動き始めた歯車をとめることはできない。
で、関わった人が疲労し、責任を問われ、出費を強いられたりするのでは、意欲をなくしてしまう。どなたかがいっていたが、人は名誉と金でしか動かない。至言である。
ボランティアの域を超えて動いた人にはそれなりの金銭的報酬を払うようにすべきだが、今の世の中、そうそう人はお金をださない。利潤追求が目的になっては、所期の目的からずれてしまうし、利潤目的に動かなければなかなか関係者に相応の報酬を与えるだけの余裕がでてこない。
時間的にも金銭的にも余裕のある人ならいいのだが、今の社会、そういう余裕のある人はボランティアなどにかかわらず、更に金儲けにいそしんだり、遊びに大金をつかったりしている。ぼくの知る限り、あまり余裕のない人こそボランティア活動に関わっている。
今の日本のダメな点のひとつである。
夕方、渋谷で元ハンセン病患者の森元さんや、息子さんがハンセン病の療養施設で働いている門屋さん、女優の松岡さんと会いいろいろと話し合う。
森元さんは喜界島の出身だが、少年のころの昭和20年代、飼い犬を食べる習慣があったと聞いて驚いた。当時、12頭の犬を飼っていたが、食用であり、それがご馳走であったという。琉球列島が「本土」とやや違った文化圏であったことがよくわかる。
各家庭で塩をつくっていた話とか、以前、森元さんが参議院選挙に民主党から立候補したときの話など大変面白く、喫茶店と居酒屋で5時間ほどがまたたくまに過ぎた。