コラム


by katorishu
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日本人の顔

 9月27日。
 本日、小泉改造内閣が発足。閣僚になった政治家の顔を見ていて、つくづく政治家も「小物」になったなと思う。善し悪しは別にして、以前は首相クラスの政治家に、例えば岸信介、田中角栄、大平正芳……など、それなりの強い存在感をもった政治家が多かった。
 野党にも浅沼稲次郎や市川房枝など、ひとかどの人物であることを風貌や態度から感じさせる政治家がいた。経済人や俳優、作家などの文化人も、そうであった。
 小泉内閣の閣僚の顔を見ていると、子役人や町工場の親父さん……といった風貌の人が多い。あるいは優等生の官僚。
 ぬきんでて力をもった政治家、権力者がでるより、まし、という意見もあるが、民族の活力のなさがもたらした風貌である。 彼らはいやしくも日本国をひきいるリーター中のリーダーなのである。この人たちに国の命運をまかせて安心できるだろうか。ぼくはノーである。こんな人たちの舵取りで同乗している船が沈没してはたまらない。

 俳優についても、昔の存在感のある顔がいなくなった。三國蓮太郎や高倉健、丹波哲郎、京マチ子、高峰秀子、山田五十鈴といった存在感を感じさせる役者はいるのもの、その人が画面に登場するだけで、ある雰囲気やオーラを漂わす役者は希有の存在になってしまった。
 思いつくだけでも列挙すると、嵐寛寿郎、大河内伝次郎、藤田進、志村喬、片岡知恵蔵、三船敏郎、岡田英次、佐分利信、笠智衆、中村伸郎、森雅之、田宮二郎、殿山泰二、天知茂、エノケン、古川ロッパ、渥美清、原節子、杉村春子、東山千栄子、細川ちか子、高橋豊子、美空ひばり……等々の存在感のある人はいなくなってしまった。
 文学者でも、夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介、坂口安吾、谷崎潤一郎、宇野千代、などの存在感をもった作家が、現在何人いるだろうか。

 昭和20年代、30年代までは、子供でも100人に一人くらい、どこから見ても「坊ちゃん顔」「嬢ちゃん顔」というものがあって、そのほか多くの「ガキ」とは一線を画していた。高度成長とともに、食料事情が改善されたことがおそらく最大の原因なのだろう、全体に「坊ちゃん・嬢ちゃん顔」が増えてきた。そうして、野良犬のような「ガキ」が激減してしまった。
 貧富の差がなくなり、平等になった証拠……かもしれず、それはそれで悪いことではないが、平均化された金太郎飴のような顔が多くなったことは、文化の多様性の観点からは、あまり嬉しいことではない。
 立ち居振る舞いも含めて、気品のある人が、ぼくの子供のころでも、町内に一人や二人はいたものだが、そういう人もほとんど消えてしまった。逆に容貌魁偉な人間や、いかにも悪ガキといった顔もいなくなった。要するに両極端が減って、みんな中庸、平凡な顔になったのである。

 戦後民主主義のおかげで、結構なことといえないこともない。確かに、極めて個性的な風貌の政治家というと、独裁者に多い。20世紀最大の独裁的な指導者といえば、ヒトラー、スターリン、毛沢東だが、いずれも一癖もふた癖もある顔をしており、大変な存在感がある。同じ独裁者といっても、北朝鮮の金正日など足下にもおよばない。あれは町工場のオッサンの顔である。
 その意味では、中庸、平凡な顔の羅列のほうが、好もしい……といえなくもないが、政治家はともかく、顔や風貌で勝負する役者については、もっと個性あふれる風貌の人間が現れないものか、とぼくは映画やテレビを見る度に思う。
 現在活躍中の役者で、ぼくが魅力を感じる顔といったら、多くが外国人である。アル・パチーノ、ショーン・ペン、、カトリーヌ・ドヌーブ、古いところではジャン・ギャバン、ジャンヌ・モロー、チブルスキー、マスロトヤンニ、エリザベス・テーラー……等々、存在感のある役者はいくらでもあげられる。ある風貌の持ち主になるには、それなりの歳月を要するので、外国人俳優といえでも、若い人はすくない。

 ところで、なぜ、個性的な風貌の持ち主が減ってしまったのか。
 子供はともかく、心のあり方、つまり精神性が顔には微妙に表れるのではないのか。最近、容貌魁偉な人は少なくなっていて、一番多いのが、ふやけた顔である。おたふく顔というのか、耳の下あたりまで肉でふくらんでいる人が多い。腹がつきでてヨタヨタあるき、権力欲、金銭欲だけは旺盛で、傲慢にふんぞり返っている。
 私見では、暖衣飽食も影響しているのだろうが、やはり、精神がふやけている結果だと思う。そもそも、ぼくにいわせれば暖衣飽食の日々を送ること自体、「ふやけた」証拠なのである。
 ハレとケというものが日本社会にはあった。たまさかのハレの日のために、日頃精進して質素に暮らす。それが、日々「ハレ」になってしまったころから「ふやけ」顔が多くなったという気がする。
 日々がハレではハレの意味もなく、結局、日本社会からハレもケもなくなり、だらだらと昨日が今日に、今日が明日にのびる生活をする人間に満ちてしまった。
 別の言葉でいえば「しまり」がないのである。
 
 最近、重い病気をわずらった人に何人か会った。彼らが病気をする前より、ずいぶんといい顔になっていることに驚いた。
 親からいただいたものだからどうしようもないという人がいるが、人間の顔は変わるのである。よく30すぎた顔は自分でつくった顔であるから責任をもて……といわれる。
 美男美女をいっているのではない。ぼくは人と会うとき、「顔」「風貌」で判断することが多い。精神的な人であるかないか。セコイ人間か、心の優しい人間か。ずるがしこい人間か、一見優しげでじつは冷たい人間か。嘘つきか正直ものか……。もちろん会話のやりとりなどからも無意識のうちに判断しているのだが、顔で判断する要素が強い。これが結構、あたるのである。
 人間の、顔や風貌は、ごまかしがきかないのだろう。いくら気取っても飾り立ててもだめである。気取りや飾りの底から、本質がすけて見えてしまう。それが顔であり風貌である。
 この観点から日本人の顔を見ると……自分の顔や風貌はさておき、いやはやという気分になってしまう。
 
 


 






by katorishu | 2004-09-28 02:28