コラム


by katorishu
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教えるということ

 9月29日(水)。雨。
 早稲田大学第二文学部表現芸術系シナリオ演習の後期、第一回の授業。台風の接近にともなう豪雨で、靴など水浸し。天候も影響したのかどうか、出席者は13名。登録者の三分の一ほどだ。出席はとらず、授業を受けたいひとだけくればいい……と最初から宣言しているので、後期になると、毎年こんな調子だ。
 このくらいの数のほうが、こちらの言葉が相手に届きやすい。理想は5,6人というところか。そういう場合は、よりきめ細かに言葉のキャッチボールができる。
 
 ところで、人に「創作」を教えられるものなのかどうか。依然として少々の疑問が残る。
 試行錯誤を繰り返しながら、努力して得るものに加えて、当人がもっている素質、センスがうまく融合したとき、開花するのが「創作」であるとすると、開花のための肥料作りを教える程度のことしかできないのかもしれない。
 初歩の技術的なテクニックや約束ごとは教えることができるが、創作の神髄となると、壇上から教えることなど、まず無理と思ったほうがいいかもしれない。
 それでも、コーチやアドバイスはできる。その場合、「先人」であるぼくが相手から何かを得られるようだと、逆にこちらから相手に無形の何かを与えることもできる。
 ドラマとはつきつめると、人間の「関係」を描くものだと、今日も強調したが、「教える」という行為が有効になるには、教える方と教わる方の「意志」や「心」が相互交流することが必要だ。週に一回、90分という時間の制約の中では、なかなか理想の形にならないが、、生徒に書かせた作品を批評し、質問をしたりすることで、本人がまだ曖昧模糊としていた部分に気づいたりする。ときに最初の「返球」とはちがった力強い「球」を投げ返してくることがあるが、そんなときである。ささやかながら教え甲斐を覚えるのは。

 本日出席した生徒は、比較的熱心に聴講している生徒で、目の輝きも悪くない。ものを書くことの意味や、創作の意味、基本の精神をはじめ、雑談ふうに40分ほど話し、あとは生徒が前期のレポートとして提出したストーリーを講評。前もってインターネットで受講者に本日とりあげる分の原稿を送付してあるので、それをもとに、ぼくなりの意見をいい、書いた本人に作品の意図やなぜこの題材をとりあげたか、などについて質問する。

 すでに100人ほどに、ぼくの自己流シナリオ術を教えているが、その中から一人でも二人でも有為の書き手が育ってほしいものだ。
 俗に人間は自分の脳細胞の一割か二割程度しか活用せずに死んでいくという。脳の働きは神秘的でまだ未解明のことだらけのようだが、活用次第では大変な働きをする。
 ぼくは、どんな人もなんらかの「才能」をもっているのだと思いたい。才能の「ある」「なし」ではなく、才能を「引き出す能力」があるか、ないか。これによって、芽が開くか開かないかが決まってくるのではないか。才能を引き出すには、当然、努力がいる。修練が必要で、工夫もいる。そうして、あれこれ試みては失敗し、失敗からまた学ぶのである。
 
 なにしろ脳細胞の8割は未使用なのである。(俗説で真実かどうかは定かではないが、少なくとも未使用の脳細胞は莫大な数にのぼる)。膨大な未使用の脳細胞をうまく活用すれば、人間相当なことができるはずである。
 そんな思いこみのあるひとが、人生で何事かをなしとげるのだろう。「どうせ、俺なんか」「どうせ、わたしなんか」と最初からあきらめていては何事もはじまらない。
 よく「オプティミストは成功する」といわれる。少々おめでたいといわれようが、物事、楽観的に考え、一歩前にでる生き方をしたほうがいいのかもしれない。とくに、こういう時代閉塞感の漂う時代にあっては。
 これは、常に安易に流れようとする自分自身への自戒の言葉でもある。
by KATORISHU | 2004-09-30 01:49