コラム


by katorishu
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マイホーム奨励策のつけ

 12月17日(土)
 高田馬場でシナリオ義塾の講義。3時間ぶっつづけなので、疲れる。帰路、北品川のベローチェで3時間、創作。眠気に襲われたりし、なかなか思うようにはかどらない。ほかのことも含め、もろもろ、思い通りにいかないことが多すぎ、食欲が減退する。

 帰路の道の両側には大型の高層マンションが林立している。その中に、目黒川ぞいに建つ高層マンションがあった。前を通ったとき「グランドステージ」というプレートが目にとまった。もしやと思ってよく見れば下に「HUSER」という文字があった。
 今、マスコミの話題をさらっている「耐震構造偽造設計」に関連する建物である。ここの建物はマスコミに出ている「危険な建物」の中には入っていないようだが、住民はどんな気分でマスコミ報道を見ているのか。

 恐らく100平方以上ある広いマンションなのだろう。各戸に明かりがともっていた。高層マンションなのに、一階が駐車場になっているのが気になった。傍らの一角は駐輪場になっていた。
 以前からいわれていることだが、一階が駐車場のマンションは壁がないので、その分、弱いという。そう思って眺めているからなのか、ここも危ないのか……などと思ってしまう。HUSERの名前があるので、このマンションは売ろうとしても買い手がつかないのではないか。

 日本の「住宅政策」のツケがこういう形でまわってきた、というべきだろう。
 公的な機関が都市計画をきちんとつくり、、道路や住宅等をつくるべきなのだが、戦後の「私権」を過度に尊重する政策が、こういう惨状をもたらしたのである。ほかのことは「自由化」をすればするほど良い結果を生みやすいが、有限な土地に関しては、私的所有を制限しなければいけないと思う。土地は水などとともに基本的に国民の「共有財産」であるはず。
 なのに、昔の政府は社会主義、共産主義に対する過度の警戒感、恐怖感から、「土地の私有権」を過度に認めてしまった。土地は国民のもの、その総体である国のものであり、国民は国から「借りて」、その賃貸料を国に払う形にしておくべきだった。

 質のよい公的な建物を増やし、都市計画にのっとった整備をしていたら、都市のもろもろの問題は解決していたかもしれない。
 今や、先進国の都市で、東京ほど無秩序な印象の都市はない。個人が勝手にマッチ箱か、蟻塚のような建物を「マイホーム」と称して大量生産し、建物の割に高すぎるお金をつぎこんでいる。個人の勝手だから、「グランドデザイン」など皆無。石原都知事であったか、「東京の町はゲロを吐いたようだ」といったが、その通りである。

 戦前の日本は、安価な家賃の借家が多く、住民のかなりの部分は借家住まいだった。漱石の自宅も確か借家であった。木造の平屋が多かったが、それなりに町の景観に統一感があったようだ。ところが、多くの人がマイホーム、マイホームと、それを得ることが人生の大目的のようになってしまってから、町の景観も変わってしまった。家庭のあり方、社会の仕組みまでが、変化をこうむり、現在のような惨状に至っている。

 政府が「マイホーム」政策をうちだし、持ち家を税制面でも金融面でも優遇した背景には、じつは共産党があった。ひところ、共産党が選挙の度に議席をのばし、共産党ないし社会党の息のかかった県や都の知事も増えた。そんな現状を見て、当時の政府、官僚は、このままでは日本は「共産化」するのでは……と危惧した。その防止策のひとつとして打ち出されたのが、「マイホーム」奨励策である。

 国民が「マイホーム」をもつようになると、人は保守的になり、現実を変える意欲が減る。そう読んだ当時の指導者たちの勘は見事、的中した。
 確かに、マイホームのローンでがんじがらめに縛られてしまえば、会社を辞めることもできず、ローンという鎖につながれ「現実」から逃れることが出来なくなる。いちおう「不動産」の所有者になれたのだし、家族も喜ぶ。一方で、土木建築業者も潤い、そこからの政治献金を受けて政府与党の議員も潤った。かくて世界でも類を見ない自民党の「一党独裁」体制が継続したのである。(ぼくの独断や偏見ではなく、学者その他が公言していることだ)

 現在の政治、社会状況の遠因のひとつは、マイホーム政策にある、とぼくは見ている。バブルだってマイホーム政策の延長上にあった。
 いずれ東海大地震並の地震がやってくれば、多くのマイホームは倒壊するか灰燼に帰する可能性が強い。しかし、マイホームを買った人は、名目上は「数千万の財産」を所有しているのだという安堵感にすがって、先を見ようともしない。見るのが怖いのである。だが、大地震は必ず起きる。

 そのとき、どんな、「大破滅」が出現するか。そんな時が来る前に、この世からおさらばしたいものだが、一方で、怖いもの見たさで、現実の地獄図絵を見てみたい気もする。いや、「その時」がくれば、惨状をはたから「観察する」余裕などはなく、真っ先に惨状の渦に巻き込まれ命を絶たれてしまうかもしれない。
 いずれにしても、この一事を見ても、未来に明るい材料は少ない。これから生まれてくる人が可哀想だ。今の若い人は、そんな空気を本能的に感じ取って、子供を産まないのかもしれない。こういうのを天の配剤という。
by katorishu | 2005-12-18 01:05