節分も形だけ
2006年 02月 04日
節分である。以前はこの日の夜、近所から「鬼は外、福は内」という声がよく聞こえてきたものだ。心からそう願って、豆をまいた。残った豆を炬燵にあたりながら食べたりしながら、鬼っているのかどうか、人間の中にも鬼はいるのか。外に逃げていった鬼は、そのあとどうするのか。うちから追い出しても、どこかの家にとりつくのでは……等々、いろいろと空想をふくらませた。
こういう年中行事も、昭和40年代半ばあたりから、次第に絶えてしまった。
そのころまでは、まだ人々の生活の中に伝統的な年中行事が生きていたということである。
今は神社などで、テレビに出ている「有名人」がテレビカメラを意識して、形だけの豆まきショーをやっている。
本来の年中行事はああいうものではなかったはずだ。伝統行事をまるで上着を脱ぐように簡単にやめてしまう日本人。一方で、例えばイスラム教徒はラマダンという「宗教行事」をずっと続けている。彼等の「頑なさ」を日本人はもう少し学んだほうがいいと、改めて思ったことだった。
こういうぼく自身、炒った豆を買ったものの、まきもせず、口のなかに放り込んで茶をのみながら食べてしまった。これでは「鬼」を体の中に追い込むようなものか。
仕事の遅れを取り戻そうと、品川シーサイドのコーヒー店でカミサンと仕事をしていると、窓ガラスをたたいた女性がいた。近くに住んでいるKさんだった。40前後で3人の母親だが、明るく陽気で面白いひとだ。ずっと品川周辺に住んでいるということで、いろいろなところを動き回っているので、知り合いにあう機会も多いのだという。
しばしお茶を飲んで雑談したが、この日はNHKの「お母さんと一緒」の打ち合わせからの帰りだという。イラストレーターが本職でコピーなども書く。カミサンの知り合いだが、今年になって、ぼくは3回、道などで遭遇している。「よく会うね」というと「毎日、そのへんを動きまわってますから」「それはこっちも同じ」といって思わず苦笑してしまった。
ボーイスカウト活動も熱心にやっているようだし、中学生と小学生の3人の子供を育てながら、仕事もこなす。つかれも見せず、明るくおおらか。発想もユニークなので、きっと「お母さんと一緒」でも良い仕事をするに違いない。こういう人が多くなれば、日本の将来も明るいのだが。
世の中には二つのタイプの人間がいる。
会って話していて気分が落ち込んでしまう人と、逆に気持ちが弾み前向きになにかやろうという気分にさせてくれる人。
今の時代、前者が多く、後者が減っている。「悪い時代」といってもよいが、悪いからといって、ただぶちぶち不満をいっていても始まらない。悪い時代であるなら、たとえ微力でも「良くする」ために出来るところで何かをやる。その行為がさらに物事を「悪く」する可能性がなきにしもあらずで、そんな複雑微妙な時代を生きているわけだが、少なくとも一生懸命に何かをやり、明るく前向きに生きている姿勢が大事だと思う。
そんな親や先輩を見ていれば、子供や後輩は「良き手本」として真似ていくだろう。
楽をして人の上前をはねようとしたり、自分だけよければというエゴイズムで行動したり、他人への顧慮や配慮のない人間には、誰もついてこない。たまさか、その人に金力や権力があったりする場合、一時的にこびへつらう人がいるかもしれないが、長続きはしない。
人はもちつもたれつ一緒に御神輿をかついでいるようなものだ。誰かが楽をすれば、その分、ほかの人に負担がかかる。こんな子供でもわかる道理を、多くの大人が忘れている。
微力だとしても人に生きる喜びや勇気を与える存在でありたいものだ。言うは易く、行うは難しなのだが。