脳の劣化が日本を滅ぼす
2006年 03月 02日
弥生3月である。厳しい冬がすぎ、自然が芽吹きだす季節の始まりで、昔の人はどれほど春の訪れに期待を寄せていたであろうか。「弥生」という言葉は「弥栄(いやさか)」に通じる。いよいよ栄えるということである。
現代人は、「春がきた」という感動を、もう昔の人のようには感じられなくなってしまった。ぼくは、大いなる不幸だと思う。普通の人が普通に感じとれていた「感動」が、(商業コマーシャリズムなどから)「これが感動ですよ。さあ、みなさん感動しましょう。拍手」とでもいわれないと、感じ取れなくなっているのである。
小説なども、その類で、批評家や名のある作家から「××賞」という保証をあたえられ、「ここが感動的なところですよ」と懇切丁寧に教えられないと、感動できない。感動を発見できない。そんな「感動マニュアル人間」が増えているようだ。
自然の中で、自然の厳しさとともに生きていた人たちは、そんな面倒な手続きをしなかった。朝日や夕陽、風の微妙な吹き具合、芽吹き……等々に、反応し、それが感動に素直につながっていたのである。
生活の中に「自然」が息づいており、厳しさと裏返しの自然の恵みを享受し、これを味わう力があった。
そんな力があってこそ、物事や人間に対して、そのひと独自の評価をくだしつつ、対象とのキャッチボールを通じて自分を向上させる。それが「個性」を形づくるのだが、物質文明が豊かになった今は……いやはや、である。
こんなことをいうと「年寄りの小言」といわれそうだが、日本でも昭和39年の東京オリンピックのころまでは、町に自然がまだ生きており、五感を全開させて味わえることも多かった。自然の中で味わう感動は、五感を全開させなければ享受しにくい。
ところが。
テレビの普及や最近のパソコンや携帯の普及により、五感ではなく、聴覚と視覚という「2感」に頼るようになってから、かえって感動が減ってしまった。
このブログなどもパソコンやインターネットの普及あってこそ存在できるのだが、感動を与えることはできないし、最初から期待もしていない。
ところで、本日のテレビニュースで日本とアメリカ、韓国など4カ国の高校生を対象にしたアンケート結果を放送していた。斜めに見ていたので具体的な数字はわからないが、ほかの国の高校生に比べ、日本では「勉強」に価値をおく高校生が少ないなど、前向きに意欲的に努力をする生徒がずっと少なかった。
子供は「時代の子」であり、時世を敏感に反映するので、そんな答えが出たのだろう。インタビューに応じた女子高校生が「勉強したって意味ないし」とか他の男子高校生が「勉強していい学校にはいっても出世するわけでもないし」などと語っていた。
「楽をして食べていければそれでいい」という人も日本が他の国に比べて際だった。
見ていて「これは深刻だ」と還暦すぎのジイサマとしては思ってしまう。
まわりがそうだからといって、勉強もせず、楽に楽に過ごすことばかり考えて大人になったとしたら、どういうことになるのか。想像力がそこまでいかないのですね。
彼等は「勉強」イコール「受験勉強」と思っているようだが、そんなものは「勉強ではない」とはいわないにしても、勉強のごく一部にしか過ぎない。
脳がまだ柔らかく、なんでも吸収するエネルギーが豊富にあるとき、好奇心をもって新しいことにチャレンジをし、未知の分野にきりこんでいく。
そういう作業を日常的にやった人と、まわりにあわせて漫然と時間つぶしをした人とでは、同じ脳味噌といっても、「粉末ミソ」と伝統ある手法でじっくりつくった味噌の違いの、更に百倍ほどの違いがある。
系統だって記憶する力、想像力、批判力、解析力……などなど、みんな脳の微妙にして、かつ神業といってもよい働きによる。
同じ情報に接しても、その奥まで見通せる人と、表面しかわからない人、対象をひとつの角度からしか見ない人と、多角的な面から見る人、要領よく記憶し必要に応じて呼び出せる人と、記憶装置がはんぼけ状態でたとえ記憶してもそれを必要に応じて呼び出せない人……等々。世の中にはいろいろな人がいて、先天的にもっている「能力」は確かにあるのだが、若いときの鍛え方で、「脳」の機能もかなり違ってくるのではないか。
いい会社にはいるとか、はいれない、金が儲かる儲からないの話ではない。限られた人生を、味わい深く、酸いも甘いもかみわけて、豊かに生きるためには、特に青少年期に「脳」機能を高め鍛えておく必要がある。別にぼくは脳の専門家でもなんでもなく、数年前に脳が半日間フリーズした経験をもとに、多少脳について勉強してみた体験からいうのである。
それはそれとして。
「勉強」に価値をおかない若者が、他の国に比べて極端に少ないというアンケートは、懸念される。別のアンケートをすれば違う結果がでるにしても、テレビの視聴率ではないが、被調査者の意識を端的に反映していると解釈するべきだろう。
ぼく自身、青少年期に、色々なことを深く広く勉強しなかったことを後悔している。有名大学にはいるとか一流会社に入るとかは、まったく関係ない。
当時としては、比較的よく勉強をした部類に入るのかもしれないが、脳の鍛え方が、テンで甘かった。例えば、立花隆氏の学生時代の過ごし方を読むと、「さすが」という気がする。もともとの脳の素質が違うのかもしれないが、過ごし方が違う。
余談ながら、というより自己宣伝ですが、拙作『もうひとつの昭和』は立花氏のベストセラー『ぼくはこんな本を読んできた』の中で取り上げられています。
ところで。
民主の永田議員のおおぼけ騒動、その後の前原執行部の対応も、よくない。疑惑臭ふんぷんの政権与党の「?マーク」の議員たちは「永田さま、さま」であろう。
あとは、過日の「サンデープロジェクト」で「二流、三流の週刊誌」と東洋大の某政権擦り寄り学者が発言していた、メディアに期待するしかない。(多分、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊現代」「週刊ポスト」などの出版社系の週刊誌をさすのだろう)
記者クラブなどの「村社会」から排除され「野生の獣」の根性で取材を続けている、貧乏なフリーランスの書き手の皆さん、金や組織のないかわりに「脳力」を使って頑張ってください。