車はこんなに必要なのか
2006年 03月 13日
世田谷区岡本地区会館で「ジョイントゼミ」。二子玉川駅からバスで20分もかかる「陸の孤島」のような場所だ。高級住宅街なので、住民の移動は車でするのかもしれないが、地下鉄駅や電車の駅から歩いて10分以内でいけない所には住みたくない。少なくとも都内に住むのなら。
閑静な住宅街を望むなら、都内である必要はない。
狭く、くにゃくにゃした道をバスや車が走る。これが「高級住宅街」というのだから、日本社会の底は浅い。
アメリカの真似かもしれないが、日本に果たしてこんなに多くの車が必要なのだろうか。地方都市には地下鉄もないし、公共の交通機関がないので、生活のため車をもつことも理解できるが、東京や大阪のような都会に住んでいたら、車など必要がない。(仕事で使っている人は別)。
マッチ箱のような小さな家の小さな車庫に車をおき、農道の延長のような狭い道に車を走らせる。都会のそんな光景を見ていると、いじましくて仕方がない。
車という「呪縛」から離れると、もっと自由に生きられると思うのだが。物を所有するということは、物に縛られることでもある。 この観点から日本の「車社会」を考えたいものだ。
ぼくはずいぶん前から車に乗ることをやめたが、なんの不便も感じない。時間は有効に使えるし、出費も減ったし、良いことづくめである。
トヨタや日産など、自動車産業が牽引車になって、戦後の高度成長がもたらされたのかもしれないが、それで果たして多くの国民が幸せになったであろうか。
生き生きとした表情の人間が、以前に比べて少なくなったような気がしてならない。
物があっても、心が貧しく、文化乏しでは、どうしようもない。
車の維持に費やすお金の1割でも文化方面に出してくれれば、映画演劇にしてももっと活性化し、有為の才能が集まってくるのだが。
ジョイントゼミに参加した若者は意欲的で、労を厭わないようだ。ぼくは「近頃の若者は」などといいたくない。
数は少ないかもしれないが、若者の中にもなかなかの素材の持ち主がいる。未来を担うのは若者なのだから、いろんな分野で可能性にチャレンジして、社会を生き生きとしたものにしていって欲しい。