脱「村社会」人間イチローの活躍
2004年 10月 04日
内外ともに明るいニュースが少ない中、イチローが84年ぶりに大リーグ記録を破る年間最多安打260本を達成した。多くの人間が注視するなか、プレッシャーをはねのけ、あっさりと大記録を破ってしまうところが、すごい。プレッシャーに弱いぼくなど、ただ感嘆して見上げるだけだ。
大リーグといえば、昭和20年代の中頃、3Aクラスの「サンフランシスコ・シールズ」というチームが日本にやってきて、オール日本と対戦した。このときはもちろんテレビなどなかったので、ラジオの中継で聞いた記憶がかすかにある。新聞でも読んだ。オドールという監督の名前は今でも覚えている。
日本チームは一勝もできず、アメリカのパワーをあらためて見せつけられた思いだった。それから、ドジャーズやレッドソックスなど、いくつものアメリカ大リーグが日本にやってきたが、かなり手抜きのプレーでも日本チームはなかなか勝てなかった。
そんな記憶があるだけに、何年か前の野茂の活躍とともに、時代はかわった……という思いを強くした。
野茂にしてもイチローにしても、旧来の野球選手の枠におさまらない変則フォームであるところが、興味深い。
おそらく、変則フォームに対して、コーチやら先輩やらが、そんなフォームではだめだ、直せと、いろいろアドバイスという名の強制をしたにちがいない。並の選手なら、おそらく「アドバイス」をうけいれ、結果として、平凡な選手になっていただろう。
自分自身への強い自身と思い入れ。それが二人を育てたにちがいない。
野球に限らず、この類のことは他の文化や芸術のジャンルばかりでなく、経済や教育の分野でもいろいろとあるはずである。
下士官根性丸出しの「先輩」や「上司」が、それはおかしいとか、面白くない、そういうことになっていない……等々、旧弊の習慣や自らの体験に固執するあまり、自分の価値観を押しつけ、新しい、異能の才能を、つぶしてしまった例は、相当数あったはずである。
過去の「成功体験」を金科玉条にして、そこに安住してしまっている人に多い。
もちろん、先人の体験やアドバイスなども大事なことで、かれらの体験、つまり伝統を無視しては、ロクなことはできない。自己を過大評価し、他の意見をきかず、実質はたいした才能でもなんでもないのに、「お山の大将」になっているのも、困る。
妙に自信過剰で、努力をせず、それで低迷しているのに、人のせいにするのは論外だが、新しい芽をつぶす下士官根性もこまりものだ。じつはこの類の人間がちまたには多い。
ぼくは割合、職人や職人芸を見せる人が好きだが、往々にしてこの種の人に、他への押しつけが多い。
過去の慣例や慣習、しきたりにひたすら忠実で、変化を嫌う組織や人間が、もっとも多いのは、官僚組織だろう。とくに「村社会」日本の官僚組織には、例外を許さない悪弊がふんだんにある。大組織や古くからの組織に共通している悪弊である。
イチローの活躍によって、子供や若い人が、日本の「村社会」から抜け出て、金太郎飴ではない人間になることを目指してくれるとしたら、少しは日本の前途に希望がもてるのだが。
一時的なお祭りさわぎで、終わってしまう可能性も強い。なにしろ過去を忘れることにかけては、天才的に上手な民族であるから。