玄侑宗久氏の「ボランタリズムと遊戯」についての講演
2006年 03月 31日
■NGO・NPOと宗教を結ぶ市民フォーラムというのにいってきた。全8回シリーズの7回目で、場所は青山の梅窓院。臨済宗の僧侶で芥川賞作家でもある玄侑宗久氏が「ボランタリズムから遊戯(ゆげ)へ」という題で講演した。
ボランティアとは西欧のキリスト教の発想だが、これを受け入れたアジアでは東洋のボランタリズムがあるのではないかとして、極めてユニークな論を展開、蒙を啓かれる思いがした。
■ボランティアには3つの柱があり、ひとつは「自由意志」ひとつは「無償の行為」ひとつは「福祉目的にかなっている」であるが、日本の特に行政サイドでは「無償の行為」が浮き立ち、「自由意志」という点がないがしろにされている。ただ、「自由意志」というものも怖いもので、自分が「正しいこと」をやっているという思いこみが、当人が気づかぬうちに傲慢さをもたらしてしまう……等々、示唆に富んだ話をしていた。
簡単には要約できないほど、多方面にわたり具体例をひいて、説得力のある論を展開していた。キリスト教文明には「スタンダード」があり、それは絶対的に良きもの(WELL)であり、例えば「福祉」という言葉も、英語ではWELFAREあるいはWELLBEINGと書き、人が「良きこと(WELL)」をしているという前提がある。
そしてプロジェックションとコントロール、つまり予測してこれをコントロールするという基本概念があり、「ムダ」を省こうという合理主義がある。別の言葉でいえば「因果律」でものをとらえようとする。しかし、これを徹底すると「遊び」がなくなってしまう。鳥はさえずっているが、じつはなぜさえずっているのか、わかっていない。
さえずりを、遊び心ととらえ、論理的に説明せず、あるがままを受け入れる。それが東洋の考え方である。
■要は東洋的なボランタリズムは「遊び心」であり、あなたのために私は良きことをやっているのですよ、というおしつけがましさを排するところに成り立つのではないか、ということだ。お互いが「楽しい」ということが、大切である。だから、ボランティアは「遊戯」の精神が必要である。
なるほど「遊び心」が大事であり、いまの社会にもっとも欠けていることではないか。とくに教育現場に仏教のいう「遊戯」の精神が欠けており、因果律による西欧的な「規律」「規則」がはいりこみすぎている。
日頃、宗教にあまり感心をもってこなかったが、この方面の勉強をしてみたい気持ちにかられた。たまにはこの種の集まりにも顔を出してみるものである。