柔道部のOB会
2006年 04月 09日
■銀座のビアホールの「ライオン」で「炬友会」の集まり。東京外語の柔道部の同窓会で、年に一回、4月に「銀座ライオン」の年季のはいった雰囲気の6階ホールで行う。このところずっと出ていなかったので、久しぶりの出席。それなりに伝統のある部なので、出席者の最高年齢は90歳をこえる山岸先輩。昭和13年のロシア語科卒業であり、シベリアに11年間抑留された体験の持ち主。会長の堂垣内先輩が昭和16年のヒンディー語科卒である。
現役の学生も7,8人出席したが、出席者の多くは60代、70代、80代で、どうしても懐旧談になる。総数4,50名ほど。
■外語の特徴なのか、海外暮らしの長い人が多い。ブラジルで36年間、仕事をし、このほど日本に帰って定年後の暮らしをするという浅田先輩。はね腰の名手で「剛」といっていい人だったが、今はむしろやせぎすで、かつて柔道をやっていた人とはとても思えない。マニラからきた斉藤氏ほか、同級の三村氏は某大学の学長になっている。
自慢をするわけではないが、外語柔道部はなかなか多彩な方面で活躍をしている人が多い。すでに亡くなっているが、長年会長を務めてきた稲垣先輩は歯医者で、南米での冒険、武勇談を多く残している。昭和初期のころである。いろいろな冒険談を聞いた。古き良き昔というべきか。まだ「明治の精神」が息づいていた。
出席者の圧倒的多数は元商社マンで、ついで銀行マン、企業のサラリーマンだが、弁護士や国会議員、ジャーナリストもいる。
■NHKのソウル特派員やワシントン特派員などを務めた饗庭先輩と、今の大学について雑談。饗庭先輩は一時、民放テレビの国際関係のコメンテーターをつとめたほか、杏林大学教授をつとめていたが、いまは、ときおり講義をする程度とか。東アジアが専門なのだが、国際関係の分野では東大がもっとも深く広い研究をすすめているという。「ぼくもじつは東大での研究に参加しているのだが、予算的にも恵まれているのか、人材にも恵まれている。アジア研究では、違う分野の研究者が共同研究を行っていて質も高い」と語っていた。東大が日本では唯一、外国の大学に太刀打ちできる大学で、京大もダメであるという。
■それにしても、日本の大学は、専任教授がオソマツというか、外部の「非常勤講師」等にたよりすぎていて問題である、という点で意見が一致した。「教授たちに外国のように任期制をもうけないとダメだね」と饗庭氏。確かに一度「教授」という既得権益を手にしてしまうと、勉強、研究をしない人が多い。(もちろん、しっかりした研究をしている人もいる)それなりに結構な給料をもらっている人たちの怠惰さ、駄目さ加減を穴埋めしているのが、専門職たる「非常勤講師」たちである。
敗戦後、旧来の日本のシステムは変革を余儀なくされたが、二つだけ温存されたところがある。大学と官僚制度である。今、ここが日本の土台を腐らせる元になっている。このままでは日本は危ない、という点でも諸先輩と意見が一致した。
■ところで、ぼくが高校、大学を通じて「柔道部」であったというと、信じない人が多い。スポーツをやっていたというと「テニス部?」ときかれる。そんな「優男」に見られてしまうようだ。現役のころも、「テニス部」ときかれた。左袖つり込み腰という華麗(?)なワザをもっているのだが、昔は体重別ではなかったので、しばしば試合で自分より倍近い体重の巨漢と対戦した。当時も今も、62,3キロである。一度だが、東京都体育館でオリンピックの候補選手クラスと対戦したこともある。組んだ途端に投げられていた。大抵の試合はほとんど、「出ると負け」であったが、体重別であったら、もうすこしなんとかなったのではないか。
■現役の学生に女学生が半分ほどというのも、時代の流れである。近くモンゴルに留学するという女学生もいた。ウランバートルの大学に入るのかと思ったら、草原でテント暮らしをする遊牧民と一緒に生活をし、フィールドワークを一年間するのだという。一見華奢な印象だが、柔道は強いらしい。
最近は柔道はあまり人気がないようだが、以前は町道場が都内の至る所にあった。ぼくも中学のとき町道場へ通ったのが、きっかけだった。「イガグリくん」などの柔道漫画が始める動機であったという気がする。労をいとわず、とにかく汗をかき、困難に挑み、少々のことではへこたれない……という精神を養うには柔道は役に立ったと、みんな一様にいう。
「精力善用」という言葉が、昔の柔道のポントで、高校時代、裏庭の柿の木に帯をかけ、背負い投げなどの稽古に励んだりしたものだ。柔道では「練習」という言葉は使わず「稽古」であった。
いまのポイント制のオリンピック柔道は、本来の柔道ではなくなっている。
ま、時は過ぎけり……。たまには、こんな集まりに出て、懐旧にひたるのもいい。