コラム


by katorishu
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飯田章さんの新著

 4月25日(火)
■昔の文学仲間の飯田章さんが初めての著書『迪子(みちこ)とその夫』を出版した。第17回群像新人賞の受賞作を中心に4編の中編が載っている。本日、脚本アーカイブズの件で、足立区の梅田図書館の倉庫を見学したあと、帰宅すると郵便受けに飯田さんからの著書が入っていた。
 飯田さんが新人賞を受賞されたのは1974年。以来30年を越える間に「群像」ほかの雑誌に30余りの中短編を発表している、とあとがきに記している。
 年に1編のペースであり、すでに数冊の本になる分量であるが、これまで単行本化されることはなかった。一度、芥川賞候補にもなった。その折り、本になるかと思ったが、出版社は「地味」なので売れないと思ったのかどうか、日の目を見なかった。

■飯田さんとは飯田さんが群像新人賞受賞直後に知り合い、いろいろと刺激を受けた。最近でこそあまり会わなくなったが、以前は『散文芸術』という同人誌を一緒に出している仲間でもあり、よく会って文学についての話をした。
 ぼくが勤めをやめ脚本のほうに軸足をうつし、職業的に文章を書くようになってから、いわゆる「純文学」から遠ざかってしまったこともあり、次第に会う回数が減っていった。

■飯田さんは(これまで本にならなかったのは)自分の力のなさであると謙遜しているが、文章がよく推敲されていて、「私小説風」の素材にユーモアの味付けをし、飯田さんらしい小説世界を切り取っている。『迪子とその夫』には飯田さんの「すべて」がこめられているという気がする。選者の作家、小島信夫氏は、
『「迪子とその夫」には全く恐れ入る。どうしたってこの人を賞からはずすわけには行くまい。世の中にはうまい人が、名前も知られずにいるものだ』
 と選評に記している。それが本の帯にもなっている。
 草場書房という横浜にある小さな出版社から出ている。文芸評論家の勝又浩氏の尽力で本になった、とあとがきに書かれている。定価は2000円。一人でも多くの人に読んでもらいたいものだ。ちなみに、草場書房の連絡先は……
 〒横浜市旭区鶴ヶ峰2-56-20-202 電話045-373-2118 
 読んで損はない内容です。まずは、飯田さん、出版、おめでとう。

■飯田さんの小説は「看護婦長」をしている「妻」と、生活力のあまりない「気弱で繊細」な「夫」を軸に展開する。実体験が根底にあるようだ。最近はやりの「あざとさ」とは無縁で、淡々とこの夫婦の物語を過不足のない文体で描いていく。いぶし銀の趣があり、読後、しみじみとした味わいを覚える作が多い。

■飯田さんが「群像」や「すばる」などに発表した小説の「読書会」などに、ぼくも顔を出し、「別の素材を書いたほうがいいのでは。実体験から離れた作品を……」といろいろと失礼なことも申し上げた。
 飯田さんはぼくの意見など聞き流し、愚直なまでに自身の体験にこだわった。旧来の「私小説」の暗さ、自虐はなく、ユーモアの味付けがあり、ほっとする内容だった。それが地味だとして売れないと出版社に判断されたのだろう。数冊は本になっていてもよいはずだった。
 飯田さんは、自分のよってたつ土壌を丹念に耕し、決して「他の品種」などを植えるといったことをしなかった。もちろん、1年に1作では、「筆で飯を食う」というわけにはいかない。その後、飯田さんは新人賞の下読みをやっていた。毎日毎日、新人の原稿を読んでおり、それでかなりの時間を費やしたはずだ。ワープロの出現で急に応募原稿が増え、同時に内容もかわっていったと、飯田さんから直接話を聞いたことがある。

■ところで、飯田さんが新人賞を受賞した年、3人の受賞者がでた。他の一人は高橋三千綱氏で、その後、芥川賞を受賞し、ベストセラーを何冊も出した。飯田さんを通して知り合い、公私にわたって長くつきあったが、最近は年賀状のやりとり程度になっている。以前は、三千綱氏は毎号のように文芸誌に書いていたのだが、漫画の原作を手がけるようになってから、文芸誌に書かなくなった。
 もう一人、受賞した新人作家については、名前を忘れたが、新鮮な文章で、ぼくは当時、才筆だと思った。なんのきっかけであったか忘れたが、NHKの食堂であい、雑談したことを覚えている。ぼくも「純文学」を書くつもりでいたし、「お互いに頑張りましょう」といった気がする。 
 彼の小説は確か「永遠に一日」であったかと思う。ぼくより数歳年下の好青年であったが、それから間もなくして朝日新聞の3面に彼の受賞作が「盗作」と大きく報じられた。あの作が「盗」であったとは……とぼくはショックを受けた。盗作といっても、文章の一部であったと記憶しているが、以後、彼の名前を見ることはない。その後、彼はどうしたであろうか。

■当時はまだ「文学」が強い力をもっており、作家が社会に対しても強い発言力をもっていた。テレビは今ほど影響力をもっていなかった。その後、ぼくがフリーになった80年ごろから、次第にテレビが強い影響力をもつようになり、今や政治までテレビに左右される時代になった。
 ぼく個人にとっては、飯田さんたちと「純文学論議」の出来た時代が一番面白かったと思っている。20代の後半から30代の半ばにかけてだった。「文運隆盛」の時代であった。飯田さんの本に接して、あのころの「熱い思い」を思い出した。
 あのころに比べれば、今の自分はすでに半分死んでいる。日本社会も半分、死んでいるという気がしてならない。
by katorishu | 2006-04-26 01:46