節度を忘れたアメリカ
2006年 05月 02日
■月がかわる度に、時間の経過の速さに茫然とする。一日が終わるのもじつに早い。勤めていたころは、時間の経過がゆっくりで、早く時間がたって「自由な自分の時間」にならないかと思ったものだが。
幸せの時間は短く、不幸の時間は長いというが、その伝からいえば「幸せな時間」なのか。そんなことはとてもいえない。自分のことはさておき、内外に不幸な出来事があまりに多い。
■超大国アメリカで、不法移民への規制強化に反対するヒスパニックの労働者らが、全米各市で過去最大規模の抗議活動を展開しているという。街頭デモのほかに、就業もボイコットする予定とかで、アメリカも内部から揺れている。
ブッシュ政権への支持率もさがり、イラク戦争は泥沼。すでにイラクは内戦である。財政赤字は膨大で、イラクでの戦争を続ける限り、赤字は増大し続ける。ブッシュ政権および、これを支持するネオコンの諸氏は、アメリカを壊すことに情熱を注いでいるのではないか、と思いたくなるほどだ。
■世界には60億人の人間がいる。これをすべてアメリカ式の自由主義にもつづく「民主主義」にしようと考えること自体が、傲慢であり、成功するはずがない。
第二次大戦後、へたに日本で「アメリカ式民主主義」が成功をおさめたばっかりに、アメリカの政策立案者に過信をあたえてしまったのである。
日本の場合は、あまりに多くの人間が死に、厭戦気分も強く、「とにかく平和」をと願う人が多かったので、「心ならずも」米占領軍に従った、ということだろう。そうおして朝鮮戦争が起こり「特需」が生まれたおかげで経済が立ち直った。そのため、さらに親米になった。
■日本の戦後の経済発展は多分に冷戦構造が有利に働いたという側面を見落とせない。確かに勤勉で、賢く、物まねも上手であり、原理原則がなく、損得勘定にたけた人が多かったということもある。しかし、もし、朝鮮戦争が起こらなかったら、その後の「奇蹟の経済発展」があったかどうか、わからない。一方、アメリカの経済的繁栄も、第一次、第二次世界大戦という惨禍の上に築かれたといっていいかと思う。
幸運にも自国が戦場にならなかったおかげで、「戦後復興」で儲けたのである。
■戦争は最大の「消費」である。湾岸戦争とアフガン戦争、そうしてイラク戦争でアメリカは古い弾薬等の「在庫一掃」ができたという見方もある。ソ連崩壊の理由はいくつかあるが、アフガン侵略を続け財政的にも破綻したことも大きな理由である。
「驕る平家は久しからず」という言葉がある。世界の超大国になり、どうしても驕りが出てきてしまったアメリカ。アメリカも平家と同じようになる可能性が強い。
■株式資本主義とやらが、徘徊している。会社は「株主のもの」というのが、エコノミストを称するひとの常套句になっているが、こういう社会に日本をしてしまっていいのかどうか。根本的に見直す必要がありそうだ。「市場経済原理主義」のいきつくところは「一人勝ち」という言葉に代表されるように、ごく一握りの、大量の株を保有する株主に、資産等が集中することだ。結果として、彼等の「やりたい放題」の社会になっていく。ある層に資産等が集中し、それが世襲されていくと、昔の「絶対王政」に似通った社会になっていく。
■極論すれば、「民主主義」といっても、カネさえあれば、世論等を左右できる。カネでメディアを支配し、世論を一定方向に導けば、自分たちの利益になる議員をつくだせる。そうなれば、自分たちに都合の良い法律を「世論の反映」だとして策定することも可能である。ネオコン主導のブッシュ政権のやりかたは、この図式にのっとっている。
■有線テレビで1990年に制作されたアメリカ映画「虚栄の篝火」という映画を見たが、最後に黒人の裁判官がこんな台詞をはいていた。「大事なのは節度であり、節度はおばあちゃんから教えられるものだ」と。「おばちゃんから」というのが、印象的であった。年輪をへた人、経験をつんだ人から学ばないとロクなことにならないということである。
節度ある生活を強調していたことは、逆にアメリカ社会に節度が失われていることでもあるのだろう。アメリカの真似をしている日本もそうで、今の社会に一番欠けているのは「節度」といっていいだろう。
■先人から生き方を学ぶことが、今こそ必要なときはない。人間を評価する物差しはいろいろあるが、ぼくは「節度」をひとつの基準におきたいですね。
この物差しのない強欲の持ち主が、おうおうにして社会や組織等のリーダーにのぼり勝ちですが、国民の半分以上に、この物差しがあれば、歪みや偏りも正される。ところが、最近、「節度」を失いつつある人が、多くなっているという気がする。
■一部の人だけが「幸せになる」社会なら「我欲」でもいいが、より多くの人が「幸せ」を味わうには「節度」をもった社会が必要である。
法律は、人に「節度」をもたせるために出来たものである。「我欲」優先の「弱肉強食」の社会なら、法律などいらない。人間社会の不幸は、「節度」を豊かにもった人がなかなか組織等の指導者になりにくいことだ。国民の過半数が節度をもっていれば、民意の反映である「民主主義」というシステムをとる限り、節度をもった指導者が生まれていいはずなのだが。たまに節度のある指導者が生まれると、影で強欲者にあやつられたマリオネットだったりする。「世論」が強欲者になることもあり、人間社会はむずかしい。いやはや、である……と改めて思ったことだった。