コラム


by katorishu
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便利さの影の危うさ

 5月15日(月)
■携帯パソコンが壊れてしまった。最近、画面から文字が消えてしまうことが何度かあり、懸念していたのだが、現実のものになってしまった。バックアップをとっていなかったファイルもあり、ショックである。パソコンの脆弱性をあらためて実感する。
 修理に10日ほどかかるかもしれない。恐らくディスクに保存された内容は消えてしまうだろう。デスクトップのパソコンがあるので、仕事そのものには支障はないものの、腹の立つことである。

■以前はソニーのバイオの携帯パソコンを使っていたが、これがしょうもないもので、使って数ヶ月で故障。機能的にダメな部分があるらしく、無料でハードディスクを取り替えてくれたが、1年足らずでまた故障。今度は修理代に7万もとられた。あげくに半年もたたずにまた故障。仕事に支障をきたすので比較的故障しないというパナソニックのレッツノートにかえたのだが。(このころからソニーの経営がおかしくなったという気がする)
 レッツノートは使って3年ほどたつのだが、落としたり水をかけたりはまったくしていない。

■便利さの裏には、危うさがあるのだということ。車なども同じで確かに便利ではあるが、事故で毎年7,8000人が死亡している。負傷者はこの10倍程度いるのではないのか。環境汚染の原因にもなるし、便利さというのも問題である。
 科学文明が進歩しても、人間の幸せのが増えるわけではない、というのがぼくの持論である。幸不幸の尺度は心の問題であり、数字などではかれるものではない。

■最近、町を歩いていても電車に乗っていても感じるのだが、日本人の顔が生き生きしていない。確かに数十年前に比べ着ている服は上等になり、ほとんどの人が文明の利器である携帯をもち、外見だけ見ていると「発展した」と思えるかもしれない。しかし、そこで暮らす肝心の人間が生き生きしていなくてはどうしようもない。本当に幸せな人間ははたから見ても生き生きしている。そうでないということは、幸せそうに見せているけれども、幸せではないということである。

■本日NHKで「小泉改革の5年」についての特番を放送し、自民党と民主党の議員、それに学者等が討論をしていた。途中、30分ほど見ただけであるが、小泉改革の「シナリオ」を書き、振り付け師でもある竹中総務相が出演していた。弁舌さわやかで、ぼやっと対していると煙にまかれてしまう。確かに頭の良い人なのだろうが、このひとは映画や芝居を見たり、音楽を聴いたり文学を読んだりするのかな、と思った。
 経済効率一辺倒のビジネスマンなどもそうだが、上記ようなことは「ムダ」であると思っているのではないのか。

■多分、竹中氏などはずっと「エリートコース」を歩いてき、あまり「ムダ」なことに時間を使わなかったのだろうなと思った。山にのぼるのでも、ケーブルカーか自動車専用道路か、あるいはヘリコプターか。間違っても、獣道のようなところに分け入って、藪をはらったりしながら時間をかけて登るようなことはしないにちがいない。そんな経済効率に悪いことなどせず、理屈で考えて、「最適」のコースをいく。

■社会を機能的に維持していくためには、ムダをなくし効率化をはからなければいけないという理屈はわかる。しかし、ハンドルに遊びが必要なように、社会にも個人にも、ある程度のムダは必要なのではないのか。
 竹中氏はVIPであるから一人で町を歩くことはないであろうが、月に2,3度、例えば旧東海道の品川宿あたりをひとりでぶらっと歩き、一杯200円前後のコーヒーを飲み、一人2000円もだせば十分に飲み食いできる大衆酒場にはいり、都電荒川線のはしからはしまで「一人で」乗ったりすれば、もう少し話すことも変わってくるにちがいない。

■地に足をつけて歩いて感じることが大事なのだと思う。よく議員などが被災地などを視察するが、必ず役人や秘書、警備の人間などのお付きがいる。それでは足で歩いて見たことにはならない。地に足をつけて東京ばかりでなく地方の町や村を歩いてみれば、いろいろなろことにヒビワレの生じていることに気づくはずだ。

■議員も地元に帰れば、選挙民からいろいろと声が届くであろうが、本当の困っている人たちは政権党にすりよってくることもできない。以前は、公明党や共産党が、この層の意見をすいあげていたのだろう。しかし、公明は与党にはいって「既得権益層」にはいってしまったし、共産は依然としてマルクス・レーニン主義の図式で社会を見ている。

■小沢民主が、どういう政策を打ち出すか、ちょっと期待するところもあるのだが、さて、どういうことになるか。
 景気回復がどうのこうのなどということは、実はぼくにはどうでもいい。町を歩くひとや電車に乗っている「普通の人」が、ぼくもふくめてだが、生き生きとした顔になることである。
 ぼくの知り合いには金持ちも貧乏人もいるが、金持ちが生き生きとしていて、貧乏人が打ちしおれているかというと、そんなことはない。

■ただ、貧乏も程度問題である。現代は「人並みに」暮らすだけで、ずいぶんとお金のかかなるシステムになっている。高校生でもほとんど全員が携帯をもっているが、それだけで月に1万円ほどかかるという。ほかにも出費があるし、親としても負担に耐えられない人が出てくる。
 そんなとき、高校生はどうするか。携帯を使わないという選択は、友達を失い孤立することなので、絶対しない。1万円を稼ぎ出すため、アルバイトで風俗の仕事をする生徒もいるそうだ。本やで万引きをしる生徒もいる。

■携帯をはじめIT関連企業がウケに入っているが、そんな高校生から毎月1万円を「吸い上げるシステム」の上に成り立っている側面も否定できない。いろんな企業が、「広く浅く」多くの人からお金をとろうと、あの手この手を考えている。塵もつもれば山となるで、バカにならない。
 多くの若者が、そんなシステムにからめとられ、「お金のかかる生活」に組み込まれている。
 オバサンもオジサンも同じ。なにしろ、テレビでもパソコンでもCMの氾濫である。高齢者は欲が減っているので、このシステムにのらない人も多いが、若者はCMのシャワーの前では判断が狂ってしまう。
 とにかくお金のかかる社会、それが現代の文明国である。このシステムをつくりだし世界にひろめ、さらに広めようとしているのは、もちろん、現代のローマ帝国・アメリカである。
by katorishu | 2006-05-16 01:34