コラム


by katorishu
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職人芸の復活が日本を救う

 7月15日(土)
■昨日に続いての猛暑。湿り気があるので、一層体にはこたえる。午後、ラジオドラマのリハーサルにつきあう。東ドイツを舞台にした『太陽通り』という作品で、ドイツ人作家の原作をぼくが脚色した。15歳の高校生が主人公の、「監視社会」を諷刺するコメディ。コメディは諷刺の裏打ちがなくてはいけない、とぼくはかねがね思っているので、気に入った素材だ。
 井上ひさし氏の舞台にいつも感心するのは、権威とか力のある者を、真っ向から批判、攻撃するのではなく、笑いという武器で、おちょくり、攪乱し、対象を徹底的に戯画化してしまうことだ。

■このドラマでも、そんな本来のコメディの要素をいれこむことが出来たかと思う。左時枝さんや沼田爆さん、冷泉公裕さんらが、まだ「青い」若者の演技を補ってくれている、と感じた。
 「地味ながら」「味のある」役者というのが、ぼくは好きだ。昔から「金」より「銀」それも燻し銀が好きなので。ラジオドラマは、それ自体、地味なので、映画やテレビドラマで主役にならないひとが「主役」になることもできる。このジャンルは今や、息も絶え絶えだが、生き残って欲しい。
 『太陽通り』の放送日は9月23日(土)の22時より、NHK「FMシアター」の枠です。近づいたらまた、このブログで告知しますので、ぜひ聞いてみてください。案外、ラジオドラマは奥深いものです。

■ラジオドラマといえば、もう20年近く前、TBSで連続ドラマ「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」の脚本を書いたことがある。1年を通じての長編ドラマであったと記憶する。以前、淡島千景さんらで放送された作品で、同じタイトルを借りて、「現代」の家庭をテーマにコミカルに描いた作品だった。毎回読み切りで、ぼくをふくめ3,4人の脚本家が書いた。他の仕事があったので、ぼくは最初の7,8本を書いただけであったが。星野智子さんや松金よねこさん、斉藤晴彦さん、毒蝮三太夫さんらが出演し、楽しい作品だった。

■当時、TBSラジオにもドラマ枠があり、単発ドラマを放送すると同時に、連続ドラマも放送していたのだが、現在、ドラマ枠はない。松井さんというラジオドラマ一筋のひとがいて、その人を中心に作っていたが、その人ともう一人ラジオドラマを専門にした人が退職したあと、現場にラジオドラマを作れる技量をもったひとがいなくなった。
 時代の流れといってしまえば、それまでだが、惜しいことである。

■先日、テレビで映画の寅さんの香具師の「たんかばい」にひかれて、香具師を仕事としているひとのドキュメントを放送していたが、ああいう職人芸も、希少価値になってしまった。
 30年くらい前までは例えば渋谷の井の頭線のガード下で、バナナのたたき売りをやっていた。寅さんばりの話術を駆使する香具師がいて、役者ではできない迫力を出していた。
 最近は祭りや縁日でも、「たんかばい」を目にすることがなくなった。至る所で「職人芸」が消えていき、誰にでもできる「マニュアル芸」にとってかわられてしまった。

■ぼくは、この傾向を日本文化の劣化であると思っている。街がコンクリートで塗り固められていったのと、時を同じくして、日本文化を底辺で支えた職人芸が消えていったという気がする。
 もちろん香具師など、いかさま師もまじっており、はぐれものや吹きだまりの行き着く果てのようなところがあった。だからこそ面白かったのかもしれない。
 芸能人も「芸人」が少なくなり「タレント」ばかりになっていく。芸人が野の花なら、タレントは造花である。本来のタレントの意味は「能力ある人」「異能の人」なのだが、いわゆる「タレント」は別の使われ方になっている。

■職人芸は一朝一夕で到達できるものではない。日々血の滲むような努力の果てにつかめる技能である。さらに付け加えれば、「努力をしているのに、努力のあとを見せない」人が、本当の職人芸なのだろう。自分はこんなに大変なことをやっているんだ、と誇示するのではなく、さりげなく、いなせに、本当は大変なことを、さらっとやってみせる。
 あるいは、たんたんと自分の仕事をこなしていく。別に偉くもなんでもなく、鳥がさえずるように、自然体で役割をこなしていく。そんな人がひとりでも多くなるといいのだが。
by katorishu | 2006-07-15 23:28